2015年9月14日月曜日

【第486回】『真田太平記(十一)大坂夏の陣』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 家康の執念が実り、豊臣家に引導を渡すための最後の戦い、つまり大坂夏の陣へと時は移る。あまりに有名な幸村の奮闘に刮目して読める物語ではある。しかし、それに加えて、戦いを前にした家康の老成した精神の成熟、三十年以上に渡り命運を共にした向井左平次への幸村の感謝の念、さらには幸村の死に対する信之の想い、など感動的なシーンに溢れた第十一巻である。

「若いころは、さておき、いまのわしは、鏡のようなものじゃ」
 と、家康が関ヶ原戦後に洩らしたことがある。
 つまり、家康を怖れ、家康を敬愛し、家康を憎み、家康に親しむ、百人百様の人びとの心が、家康という鏡に映っているというのだ。
 同時に、
「相手の出様によっては、鬼にも仏にもなる」
 ことを意味している。(165頁)

 鏡という表現が面白いし、家康の成熟を感じさせる。相手やその情況に合わせて柔軟に対応し、自分自身を変容させることを厭わないということであろう。目的のためであれば、手段をいかようにも選択することができるほど、「引き出し」が多いということであろうし、それだけの精神的なゆとりがあるということであろう。

 真田幸村は、向井左平次を抱き起こした。
 先刻、月影の馬首を抱いたように、幸村は左平次を抱きしめた。
 左平次の死に顔は、何やら、うっとりと良い夢でも見ているかのように、おだやかなものであった。
 おそらく、向井左平次は戦闘の火ぶたが切られた間もなく、敵の槍を受けたのであろう。
(左平次。死ぬる場所も、一つになったのう)(474頁)

 いまは、すべてが虚しくなってしまった。そのことよりも、自分の家来たちと、その他の、自分の部隊へ加わった牢人戦士たちが、どこまでも自分を信頼し、自分の指揮にこたえ、
(最後の最後まで……)
 忠実に戦ってくれたことへ、真田幸村は激しく強烈な満足をおぼえていた。(475頁)

 合戦が終わり、満身創痍の状態で死に場所を探す幸村。安らかな場所を探している中で左平次の遺体を見つけ、彼に対する感謝の念と同志としての想いが交錯する感動的なシーンである。また、左平次を含む、すべての真田幸村軍の戦士たちに対する強い想いに、心を打たれる。

 叔父の手紙をつかみしめた右手が、わなわなとふるえていた。
 むかし、弟と肩をならべて、共に戦った信州や上州の戦場の匂いが、叔父の手紙の中にたちこめているようなおもいがする。
 凝と坐っていることに堪えきれなくなった伊豆守信之は、突然、荒々しく立ちあがり、書院から広縁へ走り出た。
 信之は、
「左衛門佐……」
 降りけむる雨の庭の、深い闇の底へよびかけた。(509頁)

 幸村に対する肉親としての愛情と、真田家を守ろうとする想いとの狭間で、最も苦しかったのは信之なのかもしれないと思わせる場面である。豊臣を見限って徳川に早くから味方したことを合理的に過ぎるとも評価される彼であるが、現実主義ということは、感情と向き合い、それを敢えて見ないようにするという意識が必要である。そこには、深い人間の洞察と他者への理解が必要とされるのではないだろうか。

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