2015年9月26日土曜日

【第492回】『禅と日本文化』(鈴木大拙、北川桃雄訳、岩波書店、1940年)

 禅は、無明と業の密雲に包まれて、われわれのうちに睡っている般若を目ざまそうとするのである。無明と業は知性に無条件に屈服するところから起るのだ。禅はこの状態に抗う。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自から論理を蔑視する。(3頁)

 ここに禅の鍛錬法の一風変ったところがあるのだ。それは真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。(中略)それゆえ、禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)というのである。(7頁)

 禅とは、知的作用から形成されるものではない。したがって、論理や言葉によって表現されるものを重視しない。こうした考え方に基づいて、不立文字という概念が形成される。

 『一即多、多即一』という句は、まず「一」と「多」という二概念に分析して、両者の間に「即」をおくのではない。ここでは分別を働かしてはならぬ。それはそのまま受取って、そこに腰を落ちつけねばならぬ。(32頁)

 言葉を用いないという理想を持つことは、物事を分けて考えるというアプローチからの脱却を志向することを意味する。したがって、ある物事を認識するということは、その意味内容を分析するのではなく、そのものを直観的に把捉することであり、そこに介在物は存在しないのである。

 心を身体のいかなる一部分にも残しておくべきでない。身体のあらゆる部分に心を充せて思ふままに働かせなければならぬ。なにかなすという考えは、心をその一方面に向け、他のすべての方面が等閑にされる。考えるな、思い煩うな、分別を持つな、そうすれば心は到るところに行きわたってその全力が働き、つぎつぎと手近の仕事を成就するであろう。いっさいの事において一面的ということを避けるべきだ。心が一度、どこか身体の一部分に捕えられていると新たに働くときは、その特定の場処から取出して、いま要するところに持ってこなければならぬ、この転換はじつに容易ならぬ仕事である。心は一般に「止」まらせられたところに、停滞することを欲する。(79~80頁)

 優先順位を付けて、少数のものに注力することが最近の仕事では求められることが多い。全てのものを同等に扱い、こなしていこうとする姿勢は認められないものだ。しかし、著者によれば、頭で考えて優先順位を付ける方法は、心を置き去りにし、結果的に良い仕事に繋がらない。マルチタスクを行なうことで、多様な顧客や相手に貢献できることが、無心に努力するということなのであろうか。

 生れながらの名人はなく、かぎりない苦心を経験した後にはじめて名人になる。かくのごとき経験の連続のみが芸術の秘密な深処、すなわち、生の源泉の直覚へ通ずるのである。(156頁)

 多様な目の前の仕事に取り組もうとすれば、苦労することは多くなるはずだ。そうした一つひとつの失敗は時に私たちの気力を失わせるものである。しかし、そうした苦心を経験した後に、私たちはなにかのプロフェッショナルへと近づけるものなのであろう。

 最後に、内省を込めて取り上げたいのが以下の言葉である。

 いかなる俗事に携ろうとも、それを汝の内省する機会として取上げよ。(41頁)

 忙しいから内省できないのではなく、あらゆる物事において内省することを機会とすること。

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