2015年9月22日火曜日

【第490回】『鏡子の家』(三島由紀夫、講談社、1964年)

 何ともとらえどころの難しい小説であった。作者が当時の時代を描写する上で、不透明な何かに取り組む若者のありさまを描きたかったのであろうか。とらえどころが難しくはあるが、美しい文章で織り成される物語は読み応えがある。

 四人が四人とも、言わず語らずのうちに感じていた。われわれは壁の前に立っている四人なんだと。(中略)
 『俺はその壁をぶち割ってやるんだ』と峻吉は拳を握って思っていた。
 『俺はその壁を鏡に変えてしまうだろう』と収は怠惰な気持で思った。
 『僕はとにかくその壁に描くんだ。壁が風景や花々の壁画に変ってしまえば』と夏雄は熱烈に考えた。
 そして清一郎の考えていたことはこうである。
 『俺はその壁になるんだ。俺がその壁自体に化けてしまうことだ』(99~100頁)

「そうだ。折角こうして逢ったんだから」と清一郎が急に思いついたように言った。「これから先何年か、われわれは逢うたびに、どんなことでも包み隠さずに話し合おう。大切なのは自分の方法を固守することだ。そのためにはお互いに助け合ってはいけない。少しでも助け合うことは、一人一人の宿命に対する侮辱だから。どんな苦境に陥っても、われわれはお互いに全然助け合わないという同盟を結ぼう。これは多分歴史上誰も作らなかった同盟で、歴史上唯一つの恒久不変の同盟だろう。今まであらゆる同盟が無効で、一片の紙屑におわったということは、歴史が証明しているんだからね」(100頁)

 資産家令嬢の家に気ままに集まり、お互いに空気のように好き勝手なことを話したり行動したりしながら、四者四様の生き方で人生を歩みながらも、奇妙な友情で結ばれる四人。その関係性は、複雑にして、かつ単純なものである。

『収は死に、峻は傷つき、夏雄は……。そうだ、俺が何も奴らを非難することはない。非難することは助けることの一種だ。少くとも俺たちの誇りは、最後まで、誰一人助け合おうとしなかったことだ。ーーだから俺たちの同盟は、今もすこやかにつづいているわけだ』(473~474頁)

 物語が後半に至り、死ぬ者、生き甲斐を失う者も現れる。そうした状況においても、当初の「同盟」を守り続ける。冷淡というイメージではなく、本当に不思議な関係性が描き出されている。奇妙な関係性の中心に位置する令嬢・鏡子が、最後に達観したかのように語る部分が興味深い。

「いいえ、私は治ったの。この世界がぶよぶよした、どうにでもなる、在ると思えば在り、ないと思えばないように見えるという病気から治ったの。この世界はこれでなかなかしっかりしているんだわ。職人気質の指物師が作った抽斗のようにきちんとして、押しても突いてもびくともせず、どんな夢も蝕むことができないようにできているんだわ。私がこれから信じることにした神様の顔を見て頂戴。赤いらんらんとした片方の目には服従と書いてあり、もう片方の目には忍耐と書いてあり、大きな二つの鼻の穴からは煙が出ていて、その煙が中空に希望という字を描き、だらりと垂れた大きな舌は食紅を塗ったように真赤で、そこに幸福と書いてあって、咽喉の奥には未来という字が浮んで見えるの」(542~543頁)


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