2015年9月5日土曜日

【第481回】『真田太平記(六)家康東下』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 上杉景勝と石田三成との呼応により、時代は関ヶ原へと誘われていく。それはすなわち、西軍につく真田昌幸・幸村と、東軍につく信幸との別離をも意味する。

 真の悪漢は、その悪の本体を決して見せぬものだ。それでなくては、人を偽ることもできぬ。
 これまた、悪事や悪漢の場合とは異なるが、たとえば、豊臣秀吉を見るがよい。徳川家康を見るがよい。
 大望を抱いた彼らは、おのれの実力をそなえるために、また、人心をわが身へあつめるために、あくまでも微笑を絶やさず、へり下るところはへり下って、いささかも倦まなかった。
 怒りに堪え、得意満足をみずから制した。(249~250頁)

 偽ることの善し悪しは扨措き、大志を抱いているのであれば、眼前の小さな問題に対して感情的にならず、他者に対して謙虚であること。

 自分のことはわからなくとも、他人のことは冷静に観察できる。
 ゆえに、他人の忠告を聞いて、
「えらそうなことをいうものだ。自分がしていることを考えてみるがいい」
 と、断定してしまうのは、あまりよくないことにちがいない。(266頁)

 考えさせられる言葉である。自分のことはよくわからないものであり、だからこそ他者からのフィードバックには異論を軽々と挟まず、至言として傾聴すべきなのであろう。

 少々長いが、昌幸・幸村と信幸とが敵味方に別れるシーンが印象的であるため、そのまま引用したい。

 ややあって伊豆守信幸が、盃を口に含みつつ、
「左衛門佐……」
 と、よびかけた。
「はい」
「おぬしは、何とする?」
「父上と共に……」
「さようか」
 真田昌幸の唇がうごいたのは、このときである。
「豆州。徳川が勝てば、大事じゃぞ。大坂が、もみ潰されてしまうぞよ」
 昌幸は、豊臣秀頼も家康の、
「餌食になってしまう……」
 ことを、差しているのだ。
「まさかに……」
「まさかにではない。そもそも、こたびの戦は、豊臣家をもみ潰さんがため、内府が仕掛けたものではないか、どうじゃ」
 信幸は、こたえなかった。
「家康を残すのと、三成を残すのと、どちらが豊臣家の御為になる。わかりきったことじゃ。三成なればわがままは通るまいゆえ……」
「父上……」
「うむ?」
「豊臣家の御為と申すより、どちらが天下の為になりましょうか?」
「天下じゃと……」
「父上は、これより先、ふたたび天下取りの戦乱が相つづくことを、のぞんでおられますか?」
 昌幸が、にやりと笑った。
「父上……」
「もう、よいわ。豆州、これで決まったのう」
「はい」
「内府は、さて、勝てるかな……?」
「かならず、勝ちをおさめられましょう」
「どうであろうかのう」
「勝ちまする」
 きっぱりと、信幸がいった。
 左衛門佐幸村は、このとき、信幸へ酌をしながら、
「父子兄弟が、敵味方に別れるも、あながち、悪しゅうはござるまい。のう、兄上」(330~332頁)

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