修士課程に進む決意を下した要素にはいくつかあるが、本書はその一つである。世代や格差といった論点への興味・関心を喚起させられ、キャリアやモティベーションを研究しようとしたきっかけとなったことは間違いない。それ以降、数年ぶりに読み直してみて、今でも新鮮な主張が含まれていることに驚いた。事実を様々な角度からデータ化し、分析を加えることで、示唆に富んだ考察を行うという、研究活動の素晴らしさに改めて感じ入った。
ニートという概念の提唱者の主要な一人である著者が、問題意識の一つとして警鐘を鳴らしているのが、企業が学卒新卒に求める即戦力志向である。人事部門に勤める身としては、新卒に対して即戦力を求める企業が多いというのは都市伝説の類の一つであると信じたい。しかし、新卒社員に対する期待値が年々上がっていることは、肌感覚として合っているように感じる。新卒に対するあまりに過剰な期待を持つ際には、以下の言葉を噛み締めて今一度考え直す必要があるだろう。
即戦力志向とは、つまるところ、育成軽視の別表現にすぎない。(8頁)
繰り返すが、ほとんどの日本企業では新卒社員に即戦力を期待していない(と信じている)。しかし、期待が高すぎることもまた、彼(女)らを苦しめることにつながることを、人事も現場も心する必要がある。さらに言えば、そうした即戦力人材として思い描かれる人材像は画一化されたものである。多様な背景を持った多様な人材が集まることが、チームとして機能するためには必要なのであるから、画一化された人材像を求めているかのようなメッセージを発することも問題である。ではどういったメッセージの発信があり得るべきなのであろうか。
逆説的ではあるが、企業として明確に決められた人事観を確立し、社員と共有することが必要になる。多様性はバラバラとは違う。社員が組織に対して共感し、個人がその共感を前提としながら状況に応じて、自分を表現し行動する。本当の多様化は、すべての社員が共有できる価値観を保有する企業にしか生まれない。(28頁)
一言で言えば、ダイバーシティ&インクルージョンということであろう。つまり、多様性という前提に立った上で、社会や組織として大事にする価値観を共有するということである。だからこそ、画一化された即戦力という基準で新卒社員を測り採用しようとすることは、健全な企業組織を創り上げるという観点からも機能しない。
こうした即戦力志向に対する問題意識の基に、現代の日本における企業で起きている事象を若者(本書では「基本的に一五歳以上三五歳未満」を若者と呼称している(39頁))に焦点を当てて、データの分析と考察を行っている。以下からは、労働時間についての考察を見てみよう。
三〇代男性ホワイトカラーの長時間労働の普遍化は、企業にとって、三つの意味での「喪失」につながる。一つは、能力開発機会の喪失である。二つは、労働者の会社に対する信頼感の喪失である。三つは、企業が事業再構築をしようとしても、労働者に過度の負担を強いることによって、結局は業務改革に取り組む意欲が喪失されることである。(93頁)
まずは長時間労働に対する警鐘である。本書では概ね週60時間以上が長時間労働として捉えられている。週60時間の労働時間とは、月60時間を超える法定時間外労働とほぼ同じであるため、考察すべき時間としては妥当であろう。こうした長時間労働に三つの問題が挙げられており、議論となりそうな一つ目の点についてコメントを述べる。
能力開発機会の喪失については異論が出てきそうだ。たとえば、「多様な業務経験を積ませてもらうことで能力は向上するものであり、業務以外の能力開発は必ずしも必要ではない」というものだ。実際、私が十年前に本書をはじめて読んだ際にはそのように考えた。私自身としては、週70時間以上の労働時間を毎月続けるという初期キャリアの約三年間を経験したことで、その後のキャリアのベースとなる能力が開発されたと今でも思っている。しかし、それは上司による経験の付与や、チャレンジングな案件や顧客を与えられるコンサルティングという特殊な業態であったことが作用していることを付言したい。こうした能力開発が可能な職務でない場合には、疲弊だけしか生じない長時間労働が発生してしまうのである。これが俗に「ブラック企業」と呼ばれる企業で起きている事象であろう。
もう一つ、著者の指摘が興味深いのは、短時間労働がいたずらに賞揚されていない点である。
ただし、労働時間は短ければいいというものでもないことも、データは同時に語っている。短時間の労働者の多くは、技術変化や事業の変化が進むことに強い不安を感じている。自分の職業能力の汎用性にも自信が持てず、そもそも能力開発の態勢が多くの場合、整備されていないのが現状なのだ。(94頁)
もちろん、家庭や育児との両立のために短時間労働を工夫して行なっている方々がいらっしゃり、そうした働き方が賞揚されることは間違いない。もっと促進できるように企業としてサポートするべきであろう。しかし、上記で示唆的なのは、そうしたワーキングマザーや介護しながら働く人々以外に対する指摘である。統計で出てくる傾向として、あまりに短い労働時間で働く人々の傾向として、面白い職務をアサインされず、仕事に手応えを感じることなく、成長しないというグループが見出せるのである。私たちは、こうした現象に着目するべきであろう。
次に職を持たない若者に対する考察について見てみよう。
ニートは不透明で閉塞した状況のなか、働くことの意味を、むしろ過剰なほど考えこんでしまっていたりする。ニートが象徴するのは、個性や専門性が過剰に強調される時代に翻弄され、働く自分に希望が持てなくなり、立ち止まってしまった若者の姿だ。だから私たちはニートを「働く意欲のない若者」とせず、「働くことに希望を失った若者」と書いた。ニートは「働かない若者」ではなく「働けない若者」と表した。
それにニートは共通して人間関係に疲れている。(中略)コミュニケーション・スキル(意思疎通を円滑にする技能)の重要性が学校でも職場でも、やはり過剰なほどに強調され、多くの若者が人間関係に疲れきってしまっている。(125頁)
学校や企業からの過剰な期待をそのまま真面目に受け取ると、自分なんて社会で貢献できない存在であり、働くことが強くなるのも納得的である。なんとなく、そうしたことを就職活動中に感じたことも容易に思い出せる。少なくとも私にとっては、上記のようなニートの像はあり得た自分像として切実に感じてしまう。では、ニートにならないために、またそうした状態からどのように脱却することができるのか。
失望してみなければ見えないやりがいがある。希望が失望に変わるプロセスのなかで、個人の思考や行動が変わり、ひいては個人と社会の関係に修正が生じることもある。その結果として、希望を持つという行為やそこから派生するプロセスが、希望を持たなかった場合に得られなかった、より高次の充足を実現する確率を高めていくことになるのだ。その意味で、良き失望を経験するためにこそ、希望は必要となる。(117頁)
周囲からの期待というものは外から与えられるものであるのに対して、希望は自分の内側から生じるものである。何を希望しても個人の自由であり、それを他者に言明することは必ずしも必要ない。だからこそ、希望に対して落胆を得ても自分自身のものであり、それは恥ずかしいものではない。自分自身の糧を得るためにも、ちょっとした希望を創り出し、それを基にして外で得られるフィードバックを踏まえて修正を施していく。そうした調整の繰り返しが、若者だけではなく現代を生きる私たちに求められているのではないだろうか。