2016年11月6日日曜日

【第642回】『すらすら読める論語【2回目】』(加地伸行、講談社、2011年)

 論語は、何度も読み返すべき古典の一冊である。その解説書にも、興味深く読めるものが多い。本書は論語の入門的な解説書であるが、深みもあり、考えさせられる部分がいくつもある。

 まずは学ぶということについて。

 子曰く、古の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす。(憲問篇 一四 ー 二四)

 「己の為に」とは、己れの道徳的充実を図るということであって、単なる知的技術者に終らないことが大切だという主張である。
 これは重要である。学ぶとは、まずは知性を磨くことではあるが、そこにとどまらず、その上に徳性を磨くことだと言う。(107頁)

 自分の為に学ぶという表現は、自分のメリットを考えて学ぶのではなく、自分自身の内部にある徳性を磨くことを意味しているという。現在の「道徳教育」では外的な規範を理解して正しく遂行する問う意味合いに近いが、そうではないことは自明であろう。他者を理解し、他者の集合体としての社会を認識し、その社会における規範を内面化して、自らを律して行動すること。これが徳性を磨くということなのではないだろうか。

 では徳性を磨くためには、何を学び続ければ良いのであろうか。

 子曰く、君子は上達し、小人は下達す。(憲問篇 一四 ー 二三)

 「教養がある」と言うとき、日本語においては知識の豊かな人、いろいろなことを知っている人というふうに理解されやすい。そうではなくて、中国におけるように、知識人であって同時に道徳的な人を指して教養人と言うべきである。(中略)
 そこで私は、君子を教養人、小人を知識人と訳しているのである。(129頁)

 単なる知識をインプットするだけの人を小人の訳である知識人として著者は否定的に見ている。もちろん、知識は有益なものにもなり得るものであり、それ自体を否定することはないだろう。しかし、知的であるとともに、道徳的である状態でなければ、ともすれば害悪にもなり得る。君子という概念に孔子が込めた想いを、私たちは現代的な観点において、今一度考えなければならないのではないだろうか。


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