2016年11月27日日曜日

【第649回】『夜明け前 第二部 上』(島崎藤村、青空文庫、1935年)

 大政奉還から明治新政府への政権交代など、時代の移り変わりが進む。それに伴い、社会を取り巻く不確定要素も高まり、その流れは、参勤交代で栄えた馬籠にも否応なく訪れる。

 庄屋としての彼は街道に伝わって来る種々な流言からも村民を護らねばならなかった。(kindle ver No.2205)

 正しい情報が正しく流通することが難しかった時代においては、その伝達主体の重要性が高くなる。決して正しくない情報も含めて集まる主要な街道沿いであれば、庄屋がその役割を担うことになり、変化の激しい時代においては、そのプレッシャーは大きなものだったのではないか。

 もしその殺気に満ちた空気の中で、幾多の誤解と反対と悲憤との声を押し切ってまでも断乎として公武一和の素志を示すことが慶喜になかったとしたら、おそらく、慶喜がもっと内外の事情に暗い貴公子で、開港条約の履行を外国公使らから追われた経験もなく、多額の金を注ぎ込んだ債権者としての位置からも日本の内乱を好まない諸外国の存在を意にも留めずに、後患がどうであろうが将来がなんとなろうがさらに頓着するところもなく、ひたすら徳川家として幕府を失うのが残念であるとの一点に心を奪われるような人であったなら、たとい勝安房や山岡鉄太郎や大久保一翁などの奔走尽力があったとしても、この解決は望めなかった。かつては参覲交代制度のような幕府にとって重要な政策を惜しげもなく投げ出した当時からの、あの弱いようで強い、時代の要求に敏感で、そして執着を持たない慶喜の性格を知るものにとってはーーまた、文久年度と慶応年度との二回にまでわたって幾多の改革に着手したその性格のあらわれを知るものにとっては、これは不思議でもなかったのである。(kindle ver No.2453)


 徳川慶喜に対する著者の描写が興味深い。鳥羽伏見で戦わずに江戸へ逃げ、江戸城を無血開城するという決断を下した徳川慶喜という人物の評価は、低く見られることが多いように思える。しかし、明治という日本国家を創り上げた人物の一人として、彼を挙げることも合理的なのかもしれない、と考えさせられる箇所である。


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