2016年11月12日土曜日

【第643回】『空白を満たしなさい【2回目】』(平野啓一郎、講談社、2012年)

 小説を読む場合、最初に読む時以上の感動をおぼえることは少ないようだ。話の筋
が分かっているため、ストーリーを追っていく新鮮味が弱くなるからであろう。それでも、読む観点が多様にあり、日本語が美しいと、再読しても面白く読める小説がある。本書はそうした小説の一つである。

 前回読んだ際のエントリー(【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年))で記したように、最初に読んだ際には著者の分人=dividualという概念に感銘を受けた。分人は、ジンメルにおける相互作用論的社会観を想起させるとともに、他者との多様な関係性をもとに自分自身のアイデンティティを統合していくさまが分かりやすい。自分の中の一つの分人を消そうとして自殺に至る主人公が、その解決策として「分人同士で見守り合う」(kindle ver No.5351)という考え方に思い至るところは、改めて読んでも興味深いものがある。

 今回、新たに読んで印象深かったのは、死に対する描写であり、捉え方である。

「土屋サン、私の死が、私の罪の数々を帳消しにし、私の人生を全面的に肯定するなんてことがないように、あなたの死が、あなたの行った素晴らしいことをすべて台なしにして、あなたの人生を全否定するなんて、そんなことは決してないのです。決してありません。」
(中略)
「死は傲慢に、人生を染めます。私たちは、自分の人生を彩るための様々なインク壺を持っています。丹念にいろんな色を重ねていきます。たまたま、最後に倒してしまったインク壺の色が、全部を一色に染めてしまう。そんなことは、間違ってます。私の場合、それが、愚行ともつかない自己犠牲でした。土屋サンの場合は自殺でした。でもそれは、人間が生きている間にする、数え切れないほどの行為の、たかだか一つじゃないですか?」(kindle ver No.4041)

 英雄的な自己犠牲によって死んだラデックが、自殺で死んだ主人公に対して丁寧に述べる様子が印象的である。とりわけ日本人は、死の局面に対して過剰に意味づけをしやすいのではないだろうか。ラデックが鋭く、かつ優しく指摘するように、死は人生の一つの要素にしか過ぎない。死によって人生が意味づけられるのではなく、生きてきた多様で豊かな一つひとつの要素を、しっかりと見ていきたいものだ。さらには、そうした意識を持つことによって、いたずらに派手なイベント的な出来事に注力するのではなく、日常における多様な他者との関係性よって培われる一つひとつの分人を私たちは大事にするのが良いのではないだろうか。



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