著者の小説は、決して苦手ではないのだが、好んで何度も読むということはこれまでなかった。しかし、それでも長編小説はわりと読んでおり、気になる存在ではある。このような「なんとなく気になる」というのもファンの一つであろうから、私も著者のファンであったようだ、やれやれ。
本書はエッセーであり、誠実なモノローグという印象だ。特に興味深かったのは、彼が自身の小説における文体を創り上げる過程で、まず英語で書いてそれを翻訳するという手法を取ったという以下の箇所である。
机に向かって、英語で書き上げた一章ぶんくらいの文章を、日本語に「翻訳」していきました。翻訳といっても、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な「移植」に近いものです。するとそこには必然的に、新しい日本語の文体が浮かび上がってきます。それは僕自身の独自の文体でもあります。僕が自分の手で見つけた文体です。そのときに「なるほどね、こういう風に日本語を書けばいいんだ」と思いました。(47頁)
英語で書いてから日本語に「翻訳」する。文体はどのように生み出されるのかが詳らかにされることは珍しいことであろう。シンプルに書くことの秘訣は、シンプルに書かざるを得ない状況を作り出すことにあるのかもしれない。
以前、英語でアウトプットする訓練をしている際に、英語で書こうとすると言葉が限られざるを得ないので同じような印象は持った。但し、それを日本語に翻訳するとどのような効果があったかまでには意識が全く及ばなかったし、訳してみても著者のような文体にはほど遠かった。文体を構築するための装置は人それぞれによって異なるということであろうが、印象的な発想法ではある。
自分の体験から思うのですが、自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。(中略)
それでは、何がどうしても必要で、何がそれほど必要でないか、あるいはまったく不要であるかを、どのようにして見極めていけばいいのか?
これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。(98頁)
「好きこそ物の上手なれ」とまとめるだけではもったいない。情報が氾濫している状況の中で、いかに情報を精査し、シンプルな表現形態を見出すかというプロセスにおいて、「楽しい気持ち」という基準を用いている。こうしたオリジナリティの創出方法は、小説家ではない私たちの多くにとっても参考になるだろう。というのも、提案であったりプレゼンテーションといった、何かをアウトプットするという文脈に照らし合わせてみれば、応用できるのではないか。
大事なのは、書き直すという行為そのものなのです。作家が「ここをもっとうまく書き直してやろう」と決意して机の前に腰を据え、文章に手を入れる、そういう姿勢そのものが何より重要な意味を持ちます。それに比べれば「どのように書き直すか」という方向性なんて、むしろ二次的なものかもしれません。(151頁)
この箇所も、私たちの日常におけるメールをはじめとした文字コミュニケーションに適用できるように考えるがいかがだろう。たとえば、即興性を楽しむSNSと比べてやや長い文章を表現するメールを思い浮かべてほしい。
他の方から届いたメールを一読して何らかの印象を私たちは持つ。その際の印象の差異は、意志や心がそこにこもっているかどうかであり、それは、送り手が頭の中で充分に練ったり推敲しているかどうかの差なのかもしれない。反対に言えば、真剣に何かを伝えよう、他者に理解してもらいたい、という気持ちがあれば、推敲するというのは自然なのかもしれない。
いろんな種類の本を読み漁ったことによって、視野がある程度ナチュラルに「相対化」されていったことも、十代の僕にとって大きな意味あいを持っていたと思います。本の中に描かれた様々な感情をほとんど自分のものとして体験し、イマジネーションの中で時間や空間を自由に行き来し、様々な不思議な風景を目にし、様々な言葉を自分の身体に通過させたことによって、僕の視点は多かれ少なかれ複合的になっていったということです。(209頁)
読書の効用について触れられた箇所も面白い。インプットという基礎体力があるからこそアウトプットができるとした上で、上述した箇所では、なぜ大量のインプットが必要かということが述べられている。大量に幅広く読むことで中立的な立地点を見つけることができるという点は納得的である。