2013年6月30日日曜日

【第172回】『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)

 「会社に居場所がない」「ようやく職場に居場所があるように思えてきた」といった表現を私たちはすることがある。職務において身近な概念である「働く居場所」をいかに作るかがキャリアそのものであると著者は端的に指摘する。居場所がないという状況は自身のキャリアの健康度合いに問題があり、そうした状況が長続きすることはキャリア開発に悪い影響を及ぼしかねない。反対に、職場が変化しながらも自分の居場所を継続的に作れる人は、そのプロセスを内省することで自身のキャリア展望を切り拓くきっかけを自身の中から導き出せるだろう。

 いかにして自分の居場所を作り、キャリア開発を自らすすめるか。そのための態度の有り様として、以下の二つの重要な点を著者は指摘する。

 第一に、「自然に、多様に、今を生きる」という態度である。私たちは、あることができるようになったり、一人前と見做されるようになることで自己効力感(セルフエフィカシー)を得る。自己効力感じたいに悪い作用はない。しかしそれをあまりに重視することは、過去や今における自身のスキルや経験にしがみつき、新しい世界に対して一歩を踏み出すことができなくなるリスクを内包する。したがって、できることもあればできないこともあるが、なんとかなるものだという自己肯定感(セルフエスティーム)がより重要である。なぜなら、人間は多様な存在であり、自分の価値観や有り様は一つにすぎないという考え方は現実に即していないからである。ために、「多様な能力と可能性を有している自分自身への気づきを通して、その自分らしさの発揮を、多様な局面で実践し続けるプロセス」(135頁)という著者のキャリアの定義にも、多様性はキー概念として含まれるのである。

 第二はアンラーニングである。「学習棄却」と直訳されるために誤解を招くこともあるが、アンラーニングはなにもそれまで習得したり学んだ知識やスキルを捨て去ることを意味しない。そうではなく、それまでの自身の特定の考え方やものの見方から自分自身を解放するという意味合いである。そうした自分自身の囚われから解放するために、そもそも論を時に考えることが重要であろう。とりわけ、希望していた職務上のポジションや望ましい報酬といった外的キャリアに意識が傾注しがちなときほど、なぜ自分がそうしたものを望んでいたのかというそもそも論を考えることがキャリアをすすめる上で大事なポイントとなるだろう。そのように自分自身の囚われから解放されることが、心的発達やキャリア発達における個性化の実現へと繋がる。こうした個性化の一つの形態として、神戸大学の金井教授が提唱する「一皮むける」経験が例として挙げられている点は興味深く、かつ納得的である。

 では、こうした二つの態度をもとにどのようにキャリアをすすめていくのか。以下のように、キャリアの節目における行動と、節目と節目の間である日常における行動とに分けて考える必要があるだろう。

 まず日常における行動について検討していこう。日常における行動を考える上でまず大事な指摘は、不安や心配事はなくならないという現実を受け容れることである。考えてみれば当たり前であるが、ポジティヴ・シンキングを誤用して不安や心配をあたかもないかのように扱う言説が敷衍している現状では重要な指摘である。不安や心配を受け容れながら、身近な小さな出来事から元気をもらう、という点に注目するべきであろう。こうしたマインドセットの工夫に加えて、職務において基礎を着実にマスターしながら、少しずつ工夫をしてみることで個性化や自分らしさを創り込んでいく。その際には自身の多様な興味関心のある事項を発揮してみることで、たのしみながらチャレンジすることができるだろう。そうした日常的な工夫を施す姿勢を、周囲の中で見る人は見ている。その結果として仕事の幅が拡がる可能性も大きくなるだろうし、なにより自分自身がたのしみながら職務に取り組めることが大きいだろう。こうした多様なこだわりを発揮しながら仕事を拡げていく社会人を著者は「職師」と表現し、キャリア自律を実現する新しい働き手として称揚している。

 次に、節目におけるキャリア行動について考えてみよう。日常で求められる現場での小さな工夫に対して、節目では人間力やキャリアコンピタンシーを発揮することが重要である。さらには、節目が訪れることを座して待つのではなく、自ら節目を創っていくというプロアクティヴな行動もまた重要である。節目においては学びの質が変わる。他者から影響を受けながら、過去のスキル・知識・経験からの延長線上にない新たな学びが生じる。その際には、どのような知識・スキル・コンピタンシーを発揮するか、というメタレベルのコンピタンシーである人間力が重要な要素となる。人間力は人によって高かったり低かったりするものではなく、全ての人が自ずから有しているという著者の指摘は重要である。自然に持っているものであるから、当事者意識を持って発揮したいという意識を持てるか否か、が問題となってくる。このように考えれば、人間力を発揮しながら節目を積極的に創ろうとする行為は、生き方の幅を拡げることであり、キャリアとは人の生き方に関わるものと考えるべきだろう。

 キャリアにおける態度と時期に応じた行動についての論調は説得的であり、示唆に富むものである。そうであればこそ、現代における新しい情報インフラでありコミュニティであるSNSとの関連性を考えることが、私たち読者が考えるべき、著者からの宿題なのではないか。自分自身の多様性に気づくということは、多様な他者との関係性によって実現することであるはずだ。そのように考えれば、多様な他者との多様な関係性を、場所の制約を減じながら随時アップデートできるSNSを活用しない手はないだろう。たしかに、著者が指摘するようにFacebook上で安易に「いいね!」をもらうという程度の低い承認欲求を得ようとする行為は反省するべきだろう。しかし、だからといってSNSを活用しないという結論を導く必要はない。自分自身の多様性、他者との関係性の多様性を豊かにでき得るSNSの可能性について、私たちは今一度考えるときに来ている。そのヒントは、自分自身を拓くオープンネスであり、既存の関係性を耕すことにあるように私には思える。


【第171回】(2)The Handbook of Experiential Learning and Management Education

[Part II]

5. Experiential learning without work experience reflecting on studying as ‘practical activity’

Keijo Rasanen, Kirsi Korplaho

Can the students who haven’t experienced work enough study effectively in MBA course? This question is what the author study in this chapter. 

Adopting hypothesis into several trials, he found that three perspectives make classes meaningful for such students.

(a)Tactical perspective : How to do
(b)Strategic perspective : What to do
(c)Moral perspective : Why do it

The course which is based on these three perspectives make students touch their everyday life and prepare choices by themselves. ‘This should be relevant for those who ask about the ethics of critical management studies and education (Wray Bliss 2002; Fenwick 2005)’.

<要旨>

本章における著者の問いは、職務経験がない学生でもMBAで効果的に学ぶことはできるのだろうか、という点にある。

仮説に基づきながらいくつかの実験を繰り返す中で、以下の三つの観点がクラスを意味があるものにすると結論づけている。

(a)戦術的観点 : どのようにするべきか
(b)戦略的観点 : 何をするべきか
(c)倫理的観点:なぜそれを行うのか

上記の三つの観点からの問いへの答えを充分に持つコースであれば、職務経験がない学生であっても自身の生活をもとに振り返り、彼ら自身で選択肢を用意するすることができるのである。「このようなことこそ、重要なマネジメントに関する研究や教育における倫理について尋ねる学生に関連づけるべきである (Wray Bliss 2002; Fenwick 2005)」。


6. Making a drama out of a crisis? ‘Performative Learning’ in the police service
Ruth Colquhoun, Nelarine Cornelius, Meretta Elliot, Amar Mistry, Stephen Smith

The authors call learning method of using learner’s movement Performative Learning. In Performative Learning, we have to care about project preparation, design, staging, participants and iterative review.

They adapted this approach into custody training. Then, they concluded that there are three factors to improve actions and attitudes of custody service workers. One is reduced estrangement, another is learning, and the last is client care.

<要旨>

学習者の身体的な動きを用いる学習方法をPerformative Learningと著者たちは名付けている。Performative Learningでは、プロジェクトの準備、デザイン、舞台設営、参加者の役割設定、レビューを何度も繰り返すこと、が必要である。

このPerformative Learningを拘置所で働く職員へのトレーニングとして著者たちは行い、その結果を述べている。疎外感を少なくすること、学習すること、クライアントをケアすること、という三点が、拘置所の職員のパフォーマンスや態度の向上に寄与すると結論づけている。

7. Experiential Learning in the on-line environment enhancing on-line teaching and learning
Joseph E. Champoux

According to the author, there are six major learning theories.

1)    behavioural learning theory: learning happens when there is a predictable and reliable link between a stimulus and a learner’s response
2)    cognitive theory : learning happens when someone’s internal mental processing systems react to environmental stimulus
3)    humanistic theory : learning is happened as a result of person’s whole system, to say, his/her uniqueness, individual potential, intrinsic motivation, and emotions
4)    social learning theory : learning happens when someone’s internal mental processing systems are matched to social contexts which he/she belongs to
5)    constructivism(constructivist) theory : learning is happened as a result of active process of building from diverse viewpoints
6)    experiential learning theory : learning happens through the process of reacting to experiences with observations and reflection

He concludes that especially 5) constructivism theory and 6) experiential learning theory supports to teaching and learning functions. He suggests that eExercises, learning exercises using Web and other ‘e’ medias, are getting more important in order to do experiential learning more effective. Then he says that they should be formed ‘(1) individual exercises for the single learner, and (2) virtual group exercises that teams complete in the on-line environment.

<要旨>

オンライン学習と関係する学習理論は以下の六つに大別できる。
1)行動学習理論:外部の刺激と学習者の反応との間に予測可能で信頼性の高いつながりがある時に学習は生じる
2)認知理論:内部の心的システムが外的な刺激に反応する時に学習は生じる
3)人間的理論:個人の特質、可能性、内発的モティベーション、感情といった人間のトータルなシステムの結果として学習が生じる
4)ソーシャルな学習理論:内部の心的システムがその人が属するソーシャルな文脈に適合する時に学習が生じる
5)構造主義的理論:多様な観点からの積極的な構築の過程によって学習は生じる
6)経験学習理論:経験を観察し反省する過程から学習は生じる

著者によれば、上述の(5)と(6)が教育や学習の機能にとって特に重要である。eを用いる学習形式であるeExerciseは、経験学習をより効果的にするために重要になってきている。(1)個々人で行う個人的な学習と(2)オンライン環境を用いてチームが完成させるバーチャルなグループでのエクササイズとを用いるべきであると著者は主張する。


8.Implementing Experiential Learning it’s not rocket science
Matin J. Hornyak, Steve G Green, Kurt A. Heppard

However we experience something doesn’t insure our learning. Quoting Kolb’s thesis, the authors say that ‘experiential learning may be more effective when it is integrated with educational objectives and classroom curriculum and activities, and contains opportunities for students to reflect on their experience and grow intellectually’(Kolb, 1984).

They enlarged and enriched prior Kolb’s theory through adapting experiential learning into trainings and learning experiences of USAFA, United States Air Force Academy). Then they conclude that setting the educational outcomes for learners to want to achieve is most important for success of experiential learning. Points of it are as below.

1)helping learners to recognize where and how to review and relearn
2)helping learners to be curious about seeking right models to apply into each situation
3)helping learners to communicate with not only internal members but also external organizations and customers satisfying their needs
4)helping learners to frame and resolve ill-defined problems
5)helping learners to collaborate each other through using their own specialities
6)helping learners to teach themselves about their project because each of them is an independent learners
7)helping learners to apply their experiences into their own professions

<要旨>

どれほど潤沢な経験を得られたとしても、それ自体は学習を保証しない。コルブの理論を引用しながら著者は「教育上の目的とクラスルームのカリキュラムや活動とが統合されており、学習者が自身の経験を振り返ったり知性を育てる機会を含んでいる場合に、経験学習はより効果的になり得る」(Kolb, 1984)としている。

経験学習を用いたUSAFAでの取り組みを行うことで、著者はコルブの先行研究を発展させている。結論としては、学習者が達成したいと思えるような教育上の成果を設定することが、経験学習の成功にとっても最も大事であるとする。そのポイントは以下の通りだ。

1)復習や学び直しをする際にどのようにどこで行えるかを学習者に認識させること
2)様々な状況に対して、適切なモデルを適用しようと試みることを支援すること
3)必要に応じて組織内部のみならず外部のリソースに対してもコミュニケーションを取れるようにすること
4)複雑な問題を構造化し解決することを支援すること
5)各自の専門性を発揮することで学習者が協働できるようにすること
6)他方で、個人としての学びを支援するために各自にプロジェクトのオーナーシップを持たせること
7)経験をそれぞれの専門職に適用できるように支援すること


2013年6月29日土曜日

【第170回】『戦略不全の論理』(三品和広、東洋経済新報社、2004年)

 目的と現状とのギャップが問題であり、企業における問題を解決するために戦略が存在する。戦略とは「ないもの」を表す概念である、と喝破する著者の指摘は鋭く、的確である。問題を解決するための戦略がない状態、すなわち戦略の不全は企業にとって危機的な状況であるが、残念ながら日本企業の多くは構造的に戦略不全に陥りやすいという。

 その理由として、部門間のコーディネーションを重視してトップダウンで戦略が立案・実行されるアメリカ型に対して、日本型では社員一人ひとりのモティベーションが重視されるという点が挙げられている。そのために、社員の中長期的な成長およびコミットメントを担保するために、ボトムアップで各部署が独自に方向性を創り出すことが日本型企業ではよく見られることとなる。結果として、部署ごとの戦術が蓄積されるばかりで、企業として戦略が創出されず、現場の力が増すばかりで組織全体としての収益が出づらい構造となる。

 たしかにこうしたアメリカ型と日本型との対比で表れる企業は、理念型にすぎない。しかし、日本企業の戦略不全を考える上で、こうした理念型による比較は参考になる部分も多いだろう。日本企業の「失われた二十年」をマクロ経済要因により説明する通説を批判し、その構造から戦略不全を導き出す著者の指摘には首肯できるのではないか。

 こうした構造要因に目を向けず、表面的にアメリカ型のノウハウを利用して戦略を導き出そうとする姿勢に著者は否定する。ハウツー本やフレームワークをもとに戦略を創り出すことができない理由はシンプルだ。戦略の本質は異質化にあるからである。

 異質化とは、製品それ自体が異質化されていることを必ずしも意味しない。同じような製品であっても、事業レベルで他社と異質化できれば、収益性は全く異なってくる。事業レベルで異質化するためには、企業全体のコーディネーションに工夫を加えることが必要とされることは明らかであろう。

 このように、戦略の根幹を異質化に置いて検討すれば、ハウツー本やフレームワークをビジネスに適用して戦略を創り出すことが拙劣であることは自明である。ハウツーやフレームワークは誰もが同じ回答を導き出す標準化を目指すものであり、その本質からして異質化とは相容れないものだからである。

 むろん、同じ組織で働く社員どうしが意思を共有してコミュニケーションを取るためには企業独自の標準化されたプロセスが有効であることは言うまでもない。ただし、戦略を創り上げ、戦略に即して行動するという目的のためには適していないことに、私たちは留意するべきであろう。

『医薬品メーカー勝ち残りの競争戦略』(伊藤邦雄、日本経済新聞出版社、2010年)
『イノベーションのジレンマ』(クレイトン・クリステンセン、翔泳社、2001年)
『ザッポス伝説』(トニー・シェイ著、ダイヤモンド社、2010年)

2013年6月23日日曜日

【第169回】(1)The Handbook of Experiential Learning and Management Education


[Introduction]
Introduction Experiential Learning and Management Education
Russ Vince, Micheal Reynolds

Though the word ‘experiential learning’ has been popular for decades especially in US, it couldn’t make significant impacts in both management and business schools. Based on this perspective, Reynolds decided collect high-quality papers about it.

Reading all papers, he found out that the themes of experiential learning has been shifted from personal development agenda. Currently it is related to ‘the complex social and political processes which characterize living and working in organizations’.

Of course, there are many merits to use experiential learning. But, in order to utilize experiential learning theories into actions, it is important for us to realize the limitations of it. Because of subjective aspect of experience itself, we can not rely on experience too much. 

So, Reynolds writes that the aim of this hand book is ‘to surface the developments and debates that currently characterize experiential learning in business and management schools’, and ‘to bring together a clear set of theory based practices and recent developments within a rage of settings’.

<要旨>

 経験学習という概念が定着して数十年が経つが、残念ながら実務や研究の領域において目立った成果が見えないのが現状である。こうした視点に立った上で、著者は経験学習に関する優れた論文を集め、本著作を編むことにした、という。

 論文を集める過程で、経験学習が焦点を当てる領域が個人の発達に主眼を置くという従来の捉え方から変化してきていると著者は指摘する。個人よりも広い領域、すなわち「組織における振る舞いや働き方を特徴づける複雑な社会や政治的な過程」を扱うものがその特徴として出てきているようだ。

 経験学習の概念を活用できる領域は広く、その可能性は大きい。しかし、現実に利用する上でその射程範囲を捉えておくこともまた重要である。経験学習の限界は、経験という概念自体にあると言える。経験とは人によって認識が異なるものであり、経験自体に過度な期待を置くことには自ずと限界があるからである。

 このような限界も踏まえた上で、著者は本書の目的を以下のようにしている。すなわち、「企業組織や専門大学院における近年の経験学習を特徴づける論点や発展を明らかにすること」と「理論に基づいた実務と経験学習の領域における最近の発展とをセットで捉えること」である。

[Part I]

1. Double-Loop learning in a classroom setting
Chris Argyris

In schools, companies and NPOs etc, there are two types of learning. Single-loop learning ‘occurs when errors are corrected without changing the underlying programme’.

On the other hand, double-loop learning ‘occurs when an error is corrected by first altering the underlying programme’. Using double-loop learning, we can understand root causes from every problem. And through doing it, we can become skillful in whatever actions we are facing.

When we think about theories of actions, there are two types. First one is called Model I, and seconde one is called Model II.

Model I produces ‘a defensive reasoning mind-set’. Then combining with a defensive reasoning mind-set, it also produces ‘organizational defensive routines’. To be worth, defensive routines ‘feed back to reinforce Model I, and the defensive reasoning mind-set’.

On the other hand, the governing values of Model II are ‘valid knowledge, informed choice, and personal responsibility for one’s actions’. If most of the employees have the mind-set of Model II, they can produce ‘organizational behavioural systems that encourage learning, especially double-loop learning’.

<要旨>

 学校や企業、NPOなどどのような組織においても、そこで行われる学習には二つの種類がある。シングル・ループ学習は「前提となるプログラムが変化するこなく間違いが修正される際に起こる」ものである。

 他方、ダブル・ループ学習は「前提となるプログラムを変えることで間違いが修正される際に起こる」ものだ。ダブル・ループ学習を用いることにより、私たちはどのような問題においても根本原因を把握することができる。また、そうすることによって、私たちが直面しているどのような行動においてもよりスキルが熟達できることが可能になる。

 ここまでは学習理論について扱ってきたが、行動理論についても目を向けてみよう。行動理論はモデルⅠとモデルⅡとに大別することができる。

 モデルⅠは「守ることを正当化しようとするマインドセット」を生み出すことになる。守ることを正当化しようとするマインドセットと結びつくことによって、「組織的にこれまでのやり方を守ろうとするルーティン」が生み出される。さらに悪いことに、こうしたルーティンによって「モデルⅠおよび守ることを正当化しようとするマインドセットを強めるというフィードバックが掛かる」ことになる。

 他方、モデルⅡは「正統的な知識や認識された選択、自身の言動に対する責任」といった価値観から形成される。モデルⅡのマインドセットを持つ社員が多い企業であれば、「特にダブル・ループ学習を促進するような組織的な行動システム」が形成されることになるだろう。

2. A good place for CHAT activity theory and MBA education
Jeff Gold, Robin Holt, Richard Thrope

CHAT, Cultural and Historical Activity Theory, is a theory which is, the authors think, related to real activities. It provides ‘people with a rigorous heuristic that allows them to configure and reconfigure the changing objects or goals of their activities’. The importance of CHAT becomes more and more, because it is too complicated for us to apply economical and scientific logic directly.

Considering about business scene, it is needed to see and understand business relating one aspect to others in order to understand real business. Because it is difficult for us to use the knowledge and skills which we can attain through MBA course into real business, we have to understand how to adjust them to it.

There are two viewpoints of adjusting them into business. At first, through activities of studying for MBA, we can rethink about previous business experiences. Reflecting past is important for our business and learning.

Then, let’s think about future. We can practice our ‘use of the triangle to analyse actions in their organizations, with prompts to explore the cultural and historical features of mediation, posing questions as hypotheses for enquiry’. And we can ‘complete enquiries into practice embedded’ in our organizations. We can think it as a power of communities of practice.

Of course, there is still limitation about CHAT. Because they tend to be separated into parts compared, we have to try to reunion them.

<要旨>

 著者たちの提唱するCHATという考え方は、理論を実際の活動へと関連づけるものである。「変化するアクティビティの対象やゴールを構成し、また再構成することができる力強いものを人々に」提供する理論である。複雑さのます現代の社会や組織においてCHATの重要性は増すばかりである。

 ビジネスの場面で考えてみよう。ビジネスの本質を理解するためには、一つの側面が他の側面とどのように関連しているかを監察し、把握することが求められる。MBAで得られる知識をいかに実務に落とし込むかは難しく、どのようにアジャストさせるかを私たちは学ぶ必要がある。

 その際には過去の視点と未来の視点という二つの観点がある。過去については、自分や他者が経験した過去の事象について理論をあてはめることによって、考え直すことができる。そうした復習や内省は、ビジネスにとっても個人の学びにとっても貴重である。

 未来の視点について。「企業における文化的・歴史的な調停の特徴を探求するように促し、組織行動を分析するための利用方法」を練習することができる。また、組織における「質問を埋め込まれた練習の中に完全に位置づける」ことができるだろう。こうした作用はコミュニティーズ・オブ・プラクティスの力と考えることができる。

 CHATにも限界はあり、理論である以上、現実を細かなパーツへと分けてしまいがちになることがある。私たちは、そうしたものを再統合する試みをし続ける必要があるのだ。

3. Learning about and through aesthetic experience understanding the power of experience-based education
M. Ann Welsh, Gorden E. Dehler, Dale L. Murray

Considering about effective learning, we have to think about both (1)foundation and (2)contents, because knowledge is not ‘something accessed’ but ‘created’ one.

(1)foundation
There are four important factors of pedagogical foundation.  

(1-1)decentred classroom
In centred classroom, there is a teacher who knows everything and right answer to all problems. Then, students can learn everything from their teacher. But, is it what it is in real classroom? No. In decentred classroom, teacher is seemed as a ‘collaborator, co-learner, and mentor than an authoritative figure dispensing factual information’. Without prepared and perfect answers and processes, students can be anxious about learning.

(1-2)multidisciplinary approaches
Each student has each speciality, experience, and background. In one subject, the student who has enough and good experiences about it can be a discussion leader, and in another subject, another student can do so. Though this approach, students can learn each other.

(1-3)power relationships
Students sometimes tend to follow formal theories too much. But if they can see them with a critical attitude, they can ‘acquire a capacity to act’. It is more effective for them to be critical in order to adapt theories into action.

(1-4)action orientation
It is important for teachers to set learning objectives to students. If learning objectives are set in the course, they can integrate their own experiences and knowledge into some important reports, through which they learn own implications.

(2)contents
There are three important factors as below.

(2-1)aesthetically compelling
It is useful for teachers to show aesthetic things to students in order for them to reflect their own experiences. Aesthetic things can make themes simple and understandable for students. With a direct and immediate aesthetic encounter, students can make their experiences into their own learnings.

(2-2)emotionally intense
Emotion is a key factor of ‘cementing force’. It can connect their ‘current experience with prior knowledge, experience, and sentiment’. Though it is difficult for students to face their emotions, how they can learn from them depends on how they can be risk-taking.

(2-3)politically real
There are many negotiations between several sections in an organization and classroom. Though it is tough for people to cope with them, it is important for them to do. Because through tough negotiations ‘students come to see how the complexity of power relationships influences what happens during and because of their work’.

<要旨>

学習という事象を考える場合、(1)土台と(2)コンテンツについて検討する必要がある。というのも、知識とは「獲得されるもの」ではなく「創造される」ものだからである。

(1)土台
教育における土台については、四つの主要な要素を検討するべきであろう。

(1-1)脱中心的なクラスルーム
通常の中心的なクラスルームにおいては、先生は何でも知っていて正しい答えを導き出す存在であり、学習者は先生から学ぶ存在となる。しかし、現代の現実のクラスルームにおいてそうしたことは機能的であるかというと、そうではない。脱中心的なクラスルームでは、先生は「現実的な情報を提供する権威者というよりも協働者であり、お互いに学ぶ存在であり、メンター」としてみなされる。正しい答えや手順が用意されていないからこそ、学習者は学習に対して前向きに取り組めるのである。

(1-2)複線的アプローチ
学習者は、それぞれに専門性や経験、背景を持っている。ある課題に対しては、その領域で経験を積んだり得意である学習者がディスカッションをリードするだろう。しかし、違う課題であればまた違う学習者がディスカッション・リーダーを務めることになるのが適切だ。こうした複線的なアプローチを取ることで、学習者はお互いに学び合うことができるのである。

(1-3)力の関係性
学習者はともすると理論に過剰に従いすぎる。しかし、健全な批評的な態度を取ることができれば、「行動力を獲得する」ことができるのである。理論を行動に適応させるためには、批評的であることがより効果的なのである。

(1-4)行動主義
学習する目的を学習者に対して提示することが先生にとっては大事である。コースの中に目的がセットされていれば、学習者は自分たち経験や知識をレポート上にまとめあげることができる。それを通じて、自分たち自身にとっての気づきを得ることもできるだろう。

(2)コンテンツ
以下に挙げる三つの点を考慮するべきである。

(2-1)美的に強制するもの
学習者に経験を振り返ってもらうために、美的なものを学習者に示すことは有効である。美的なものによって、テーマが学習者にとってシンプルになったり理解し易くなったりするからである。直接的な即効的な美的なものを見ることによって、学習者は経験を自分自身にとっての学習に繋げることができるのである。

(2-2)感情的に激しいもの
感情は「繋げる力」の鍵となる要素である。それによって「直近の経験を過去に置ける知識や経験や感情」と繋げることができる。感情と向き合うことは時に難しいが、そこからどれほど学べるかは、感情と向き合うというリスクをどれほど取れるかによるのである。

(2-3)政治的に現実的なもの
組織間をまたぐ交渉は多い。交渉をうまく行うことは極めてタフなことであるが、必要なことである。なぜなら、タフな交渉を経ることで「学習者は力関係がどれほど複雑かが仕事の中で何が起こるのかに影響を与える」からである。

4. Aesthetics in teaching organization studies
Antonio Strati

In this chapter, the author illustrates that how effective aesthetics advance experiential learning through many experiments. He concludes that it is important for students to struggle with riddles. What riddles induce the students  are cited as below.

(a)to problematize students habitual learning practices
(b)to conduct the ability to use student’s intuition, imagination, and sensory perception
(c)to appreciate organizational aesthetics

Using students’ capacities for aesthetic-sensory understanding is related to three factors as below.

(a)the perceptions of each sense
(b)the coexistence of several languages
(c)the constant redefinition of their objects of enquiry

<要旨>

いくつもの実験結果を明らかにしながら、美意識がいかに経験学習を促すかを著者は述べている。その際に、学習者に困難な課題へ取り組ませることが大事であると結論づけており、そうした課題は学習者に以下のような経験を促す。

(a)学習における学習者の癖を明らかにする
(b)学習者の直感、想像力、感受性に関する能力を導き出す
(c)組織の美意識を尊重する

また、こうした美的な感受性を理解する能力を活用することは、以下の三つの要素と関連する。

(a)諸感覚の認識能力
(b)いくつもの言語の共存
(c)自分たちの対象に対する探求の再定義を常に行い続けること

2013年6月22日土曜日

【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

 自殺した主人公が蘇生し、自身の自殺を受け容れた上でそこに至るプロセスを明らかにする、というSF的な小説である。主人公の対話と思索に寄り添いながら読み進めることで、死ぬこと、生きること、他者との関係性、そしてアイデンティティーについて、深く考えさせられる。

 主人公の相談相手となる精神医学者の台詞を通じて言わしめている本書の最も大事なメッセージは、<分人>という概念である。自身が関わる他者それぞれとの間に<分人>が形成され、<分人>の集合として自身のアイデンティティが規定される、と著者はする。ジンメルの形式社会学に基づいていると思われるこの考え方自体に新規性はないように思えるが、そこから理論をすすめ、現代社会への実践的な示唆を与えている点が素晴らしい。

 主人公が自殺へと至った一つめの理由として、人は<分人>ごとに疲れる存在であるが、<分人>の集積体としての身体は一つでしかないという点が重要である。職務上での自分と言っても、クライアント、上司、部下との間での<分人>があり、家族との関係と一括りに言っても妻、父、母、妹、弟、息子、娘といった多様な<分人>がある。それぞれとの<分人>でのプラスの側面とマイナスの側面は積み上がっていくこととなるし、疲労感も蓄積することになる。職場でしんどいことが多かった日に、日頃なら容易に耐えられるストレスに耐えられず苛ついてしまう、という日常的な現象は<分人>の考え方で説明できるのである。それぞれの<分人>での疲労が溜まり、自分の身体というコップから水が溢れ出すことが、自身を追いつめる一つの要素である。

 こうしてコップから零れ落ちる状況において、自身が大事にする考え方から鑑みて、自身にとって許せない<分人>との関係を消そうとする時が非常に危険である。そうした時に、ポジティヴな<分人>はネガティヴな<分人>を消そうとして、身体を傷つけようとする。それが嵩じた時に、人は「魔が差す」と表現して自殺へと至ってしまう。これが、主人公が自殺をした二つめの理由だ。幸福の絶頂の中にいると主人公自身も思っている時期に、自身にとって許せないネガティヴな<分人>を消そうという思いが強くなり、疲労感と相俟って自殺という手段を取ったのである。

 自身の肯定的なイメージに悪い影響を与える存在である、「自分はこんな人間ではない」と思うようなネガティヴな<分人>を消そうとする気持ちは拭い難い欲求である。では、私たちはどのように対応すれば良いのか。著者は、この問いに対しても本書の中で回答を与えている。

 端的に著者の表現を引用すれば「分人同士で見守り合う」(396頁)ということがヒントとなる。つまり、ネガティヴな<分人>を頭から否定しようとするのではなく、ポジティヴな<分人>の視点から客観的にネガティヴな<分人>を見守るのである。というのも、多様な<分人>は、固定的な関係性ではなく、ある時点ではポジティヴと考えられていても、ネガティヴに転じることはある。逆もまた然りである。したがって、各<分人>の疲労の蓄積が水準を超えている状態で、ネガティヴな<分人>の深刻な一撃を受けた時は、その時点でポジティヴな<分人>の視点を持って現状をメタ認知することである。こうすることが、自身の精神的かつ身体的な健康を保ち、人生をゆたかに生きることに繋がるのではないだろうか。


2013年6月16日日曜日

【第167回】『信長の棺』(加藤廣、文藝春秋社、2005年)

 最初から息をつかせぬ小説もあれば、興に入るまで時間を要する小説もある。私にとって本書は後者である。

 織田信長を取り巻く謎に迫る本書は、信長を少しでも知る読者にとっては極めて興味深い問いに満ちている。実在した歴史家である主人公の目線を通じてその問いに迫っていく展開はスリリングであり、一気に最後まで読ませる。こうした歴史に問いを投げかけて一つの大胆な仮説を提示する著者の姿勢に感嘆するばかりである。作中で主人公に独言させている「奇跡には必ず裏があるもの。歴史とは勝者の作り話に過ぎない」(上・188頁)という言葉が著者の探究心を言い表している。

 また探究心とともに謙虚さも垣間見える。「自分が、あるいは自分らの側近仲間が、陣中で、戦場で、真実と思って書き留めていた記録すら、見方と立場がひとつ変われば、かくも簡単に別の解釈が成り立つという事実に、牛一は愕然とした。」(下・53頁)という点には、丹念に事実を分析する著者の姿勢が見えて読んでいて心地よい。

 興味深い問いと、それに対する著者の仮説を追ってみよう。

 桶狭間の合戦について。
 ・今川義元を討ち取った武将よりも、義元の居所を見つけ出した簗田政綱が、非常に多額の褒美をもらったのはなぜか?
  ➡今川との連絡係として事前工作を行っており、口封じ目的で褒美を取らせたため。
 ・二万の大群が桶狭間山にいる義元の本陣を囲んでいたのに、信長側がそれらの軍隊に全く逢わずに本陣にたどり着けたのはなぜか?
  ➡信長は降伏するために武具を持たずに訪れたにすぎなかったため。
 ・「武具を持たない信長が義元を討てた」のはなぜか?
  ➡秀吉の出身地である丹波者が油断する義元の本陣を急襲したため。

 秀吉の出自について。
 ・農民から立身出世したと言われるのにすぐ馬に乗れ武具を操れたのはなぜか?
  ➡尾張の農家の出身ではなく、丹波の隠者の出身であったため。

 本能寺の変について。
 ・事変の前に、毛利討伐に向わず光秀が京都の山中に山籠もりをしていたのはなぜか?
  ➡信長打倒後に確実に信長討伐の綸旨が出るように公家と折衝していたため。
 ・明智光秀は本能寺の変の後、なぜ京都でいたずらに時間を費やしたのか?
  ➡天皇から信長追討の綸旨が下るのを待つため。

 本書のタイトルにもなっている信長の遺体に関する問いと仮説まで提示すると本書を読む最大の醍醐味がなくなるので、ここでは割愛する。興味がある方にはぜひ本書を読んでいただきたい。


2013年6月15日土曜日

【第166回】『言志四録(一)言志録』(佐藤一斎著、川上正光全訳注、講談社、1978年)

 佐藤一斎は、幕末および明治維新時に活躍した人物の思想的バックボーンとなった人物である。その門下には、横井小楠や佐久間象山がおり、佐久間の門下には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、松蔭の門下には高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文や山県有朋といった傑物が多い。近代日本を創った考え方を学ぶことは、現代の日本を考える上でも有効なことであろう。

【7 立志の功】立志の功は、恥を知るを以て要と為す。

恥という言葉は他者の目線を踏まえた外的な評価と通ずる部分が多い。しかし、訳注者はここでの恥という概念に内心に始まることも含まれていると解釈する。「天網恢々疎にして漏らさず」とも言うが、天という意識を持ち、価値判断を内部に置いて恥を知るという姿勢が、志を立てて実績を上げるためには必要なのであろう。

【27 大志と遠慮】真に大志有る者は、克く小物を勤め、真に遠慮有る者は、細事を忽にせず。

大きなことを行うためには、小さなことを行う必要がある。少なくとも、小さなことを他者とともにできるようにそのポイントを押さえておくことは肝要だ。さらに、遠大な目標を置くのであれば、些細なことをもスコープに入れる必要があるのだろう。

【120 己を失えば】己れを喪えば斯に人を喪う。人を喪えば斯に物を喪う。

自信を持つことが大事である。自信を失ってしまうと、自身の魅力が薄くなって友人をも失うことになる。友人を失ってしまえば、社会における自身のありかを失うことに繋がりかねない。

【130 急げば失敗する】急迫は事を敗り、寧耐は事を成す。

急ぎすぎると視野が狭くなり、本質的に大事な点が見えなくなってしまうものだ。落ち着いて忍耐強く好機の到来を待つ姿勢こそが、好機を掴むことにつながるのだろう。

【140 活きた学問】経を読む時に方りては、須らく我が遭う所の人情事変を把りて注脚と做すべし。事を処する時に臨みては則ち須らく倒に聖賢の言語を把りて注脚と做すべし。事理融会して、学問は日用を離れざる意志を見得するに庶からん。

心して読みたい一言だ。書籍を読む時には、ただ単に読むだけではいけない。自分自身の経験や既有の知識と結びつけて、考えながら読むこと。学問と仕事と日用とを区別せず、意義を一つずつ見つけ出すこと。

【144 聡明の横と竪】博聞強記は聡明の横なり。精義入神は聡明の竪なり。

幅広く多様な知識を広めることと、一つの分野を深く探求すること。二つとも大事であり、どちらか一方で良いということはないのだろう。

【239 読書の法】読書の法は、当に孟子の三言を師とすべし。曰く意を以て志を逆う。曰く尽くは書を信ぜず。曰く人を知り世を論ずと。

いずれも読書の際の至言であろう。第一は、自身の心をオープンにして作者の言わんとすることを理解しようとすること。第二は、オープンではあれども批判的精神を持って臨むこと。第三は、作者がなぜそうした書物を著したかという背景を理解した上で読むこと。


2013年6月9日日曜日

【第165回】『走ることについて語るときに僕の語ること』 (村上春樹、文藝春秋社、2007年)

 感化され易いタイプなので、本書を読んでジョギングをしたいと思い始めた。走ることは人生と深い部分で通じる部分があるようだ。

ただ黙々と時間をかけて距離を走る。速く走りたいと感じればそれなりにスピードも出すが、たとえペースを上げてもその時間を短くし、身体が今感じている気持ちの良さをそのまま明日に持ち越すように心がける。長編小説を書いているときと同じ要領だ。もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる。(17~18頁)

 アウトプットを短距離的に行うと、その後に全くアウトプットできない時期が訪れることがたしかにある。それがスランプの一因なのかもしれない。著者の言うようにアウトプットすることをマラソンとしてとらえれば、こうした態度を取ることも可能だろう。しかし、調子がいいときにアウトプットをやめることには多大な勇気が必要であることは明らかであり、著者のすごみはそこにある。

僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。(180頁)

 走ることによってアウトプットをする。アウトプットをすることによって思索を深める。とかく、書くべきものが先にあって、それをアウトプットするという順番に思われがちだが、そうではない。手を動かすことによって、自分が何を考え、何をアウトプットしたいのかが形作られていく。

本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。(252頁)

 単なる骨折りや徒労に終わる可能性が高いとしてもアウトプットをし続けること。そうした失敗の積み重ねの先に、自分自身にとって大事なものを得たり、大事な気付きを得たりすることができる。著者のこうした言葉には勇気を与えられる。失敗は成功を保証しない。しかし、失敗を恐れないチャレンジがなければ、何かを掴み取ることはできない。

誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。(39頁)

 走ることは自己管理にも活用できるのである。走ることでストレス発散、という安易な発想しか持ち合わせていなかったのがはずかしいくらい、自身の人格を練磨する作用まで走ることによって見出している。先ほどの引用箇所と同様に、長い距離を走り続けることは、謙虚な姿勢を培うためにも有効なのかもしれない。

終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そういう気がした。かなり哲学的だ。(171頁)


 いや、本当に哲学的だ。目標を設定して目標達成のために一喜一憂する。たしかにそうした姿勢に効用がある部分もある。しかし、マリッジブルーや成功の復讐ということがあるように目標達成じたいが私たちに危機をもたらすこともまた、事実である。ゴールを自身で設定しつつ、そこに囚われないこと。


2013年6月8日土曜日

【第164回】『まなざしの地獄』(見田宗介、河出書房新社、2008年)

 本論考は、1960年代に青森の中学を卒業して集団就職で東京に出て、十代で連続殺人を犯して死刑囚となったN・Nへのインタビューをもとに書かれている。東京に出てきてから殺人へと駆り立てられるN・Nの心境の経緯を通じて、当時の社会を描き出す力作である。著者は、社会学を「関係としての人間の学」と定義づけており(『社会学入門』を参照)、関係性から透けて見える社会が論じられている。

 自身の生い立ちに負い目を感じていたN・Nは過去を断ち切ろうと期待を抱いて東京へと出た。当時は地方から東京へ出てくる中卒者を「金の卵」と呼んで、重宝されたことは周知の通りである。しかし、それはあくまで「卵」としての、つまりは新鮮な労働力である限りにおいて評価されるにすぎず、摩耗した後は評価されないという企業の論理が色濃く反映されたものだったと著者は指摘する。「金の卵」とは企業の視点に立った使い勝手の良い表現であり、個人の側から抱くイメージとは全く異なるものだったと言えよう。

 このようなマクロの要素から生じる意識のギャップに加え、過去を断ち切れない関係性にもN・Nは苦しむこととなる。過去が現在を呪縛するという表現がよくなされるが、これはなにも過去自体が自身を縛るわけではない。そうではなく、過去の自身の出来事に対する他者のまなざしが自身の意識を縛り続けるという側面を説明するものである。こうして、様々な他者からの絶え間ざるまなざしが、N・Nを過去の時点から解き放つことなく、将来に至るまで規定するように彼には感じられたのである。

 「金の卵」という替えの利く存在としてポジティヴなまなざしを向けられず、また時に自身の生い立ちにコンプレクスを想起させるネガティヴなまなざしばかりを意識させられる。こうした、本論考のタイトルでもある「まなざしの地獄」により、N・Nは、生理的な飢えは十二分に満たしながらも、自身の肯定的な存在感に対する渇望をおぼえることとなる。「自己の社会的アイデンティティの否定性」もしくは「存在の飢え」という著者の表現が言い得て妙である。

 本論考の主張は、初出から四十数年が経った現代にどのように活きるのか。まなざしの形態はたしかに時代とともに変容したが、まなざし自体が存在することは変わらない。当時は他者からの問いかけというリアルなまなざしであったが、現代ではネットという「あちら側」でのまなざしを、私たちは積極的にも消極的にも意識している。人間と人間の関係性を社会と呼ぶ以上、以前の関係性はかたちを変えても継続するものである。


 そうであるからこそ、環境変化が激しい中において、複雑な事象を明らかにするために社会学という横断領域的な知性が果たす役割は大きいだろう。しかし、著者は社会学がこうした学際性を持つことは結果論にすぎないという。むしろ、対象を誠実に追求するが故に、やむにやまれず横断領域的な知性にならざるを得ないという。こうした著者の姿勢には頭が下がる思いであり、常に心に留めておきたい至言である。


2013年6月2日日曜日

【第163回】『幕末史』(半藤一利、新潮社、2012年)


 江戸幕府から明治政府への政治主体の交代。この史実をもって、幕府を賊軍とみなし、新政府軍を官軍とみなし、後者を礼賛するという文脈でのみ歴史を語ってよいものなのか。本書を編むに至る著者の根源的な問いはここにある。さらに、薩長を中心とした明治政府の行動原理が、昭和初期の太平洋戦争へと至る萌芽をみることができると著者はしている。

 第一に、薩長同盟に至るまでの京都における攘夷論の隆盛について。著者は思想に熱狂的になることの危険性を攘夷論に見出している。攘夷論は、陽明学や朱子学といった江戸期における学問をバックボーンに持っているものではない。にもかかわらず、「なんとなく」「時代の雰囲気」で多くの志士と呼ばれる人たちが攘夷を叫び始め、京都で多くの血を流す運動になった。運動が先行して盛んになり、運動を行うが故に攘夷という言葉を叫ぶというロジック。これは、中国やアジアへの侵略という運動を正当化するために大東亜共栄圏という言葉を編み出した昭和初期と相似形である。

 第二に、修好通商条約に基づいて兵庫の開港を求めてきた欧米列強への対応を求める一橋慶喜に対する孝明天皇の大会議における対応を見てみよう。自身の攘夷的感情を覆してでも、皇統を第一に、万民を苦しませたくないという理由を第二に挙げて、開港やむなし、という判断を下したという。これもまた、終戦時における昭和天皇の対応と同じ形式である、と著者はしている。

 第三に、戊辰戦争時における東進する薩長軍(西軍)の進軍について。時流を第一に重んじる一方で、疲弊する兵隊や欠乏しがちな兵糧を気にせずに進軍をし続けた。その結果、年貢米を各地で調達し、連戦連勝の気運によって各地で援軍を得ることで、江戸までたどりつけた。こうしたロジスティクスを度外視した現地調達主義は、アジアや中国大陸での戦略なき根性主義による敗北という太平洋戦争に通ずる考え方と言えるだろう。

 最後に台湾征討を挙げる。陸軍中将であった西郷従道が、佐賀の乱を平定した後にそのまま台湾に向かい、戦争をしかけたものである。ここでは、新政府が軍事行動を中止させようと当時の最高権力者である大久保利通を長崎へ向わせたのにも関わらず、西郷は「もし外国が抗議してきたら、われらは朝命に逆らって渡台していった脱監の賊であるあると答えたらよろしかろう」といって無視したという。軍事行動を起こしたらあくまで当初の予定通りに完遂する。この論法は満州事変の際における関東軍の参謀であった石原莞爾と同じ論法である。さらには、内閣制度ができあがる前に、軍隊の形式が事実上できあがっている明治政府の礎自体が、後の戦争へと繋がっていると考えるのは邪推であろうか。

 歴史は繰り返すという格言は、過去のある事象によって必然的に現在の事象が導き出される、という運命論的な文脈で捉えるべきではない。歴史から学ぶこと。失敗から教訓を導き出すことも大事であるが、成功した要因を冷静に分析することも大事だ。成功の復讐と呼ばれるように、過去の成功要因に拘泥して現在の変化に気づかずに、致命的なミスに繋がることが多いからだ。歴史とは国民国家にとってのフィクションであり、「全ての人にとって客観的に正しい歴史」など存在しないのであるから、せめて、謙虚な姿勢で、歴史と相対したいものだ。


2013年6月1日土曜日

【第162回】『隠れた脳』(S・ヴェダンタム、渡会圭子訳、インターシフト、2011年)


 biasという言葉は通常「偏見」と訳され、何に対して自分が認識の偏りを持っているかについて自覚的であると捉えることが多い。しかし、最近の行動経済学における「無意識のバイアス」という概念によれば、その人の行動と意図とはともすると相反する状況が頻繁に起こるという。本書では、この無意識のバイアスに焦点を当てていくつかの興味深い事例を説明している。

 本書が主張する基本的な考え方は、私たちは自分自身の判断で行動していると思いがちであるが、存外にも他者の行動に影響を受けている、ということである。無意識で行動していることにすら気づかない行動を、隠れた脳の起こす行動と本書では定義づけられている。したがって、他者の隠れた脳との間でのネットワークを介して私たちの隠れた脳が影響を受けて、無意識に行動しているということが多い、とも言えるだろう。

 このような事実から私たちが認識すべきことは、隠れた脳のネットワークによる無意識の行動が、メリットにもなりデメリットにもなるという両面性である。メリットとしては、組織風土やカルチャーといった不文律に無意識に従えることで、社会性のある行動を取ることができるという点であろう。その裏返しを考えれば自ずとデメリットは明らかになるだろう。すなわち、他者の非合理的な行動を隠れた脳が感受することで自分自身も非合理的な行動を取ってしまうことである。このデメリットについて、いくつかのポイントにまとめて描かれている。

 第一に、自分が属する以外の集団への差別意識である。意識的に差別的言動を繰り返す方々はさておき、多くの人々は差別意識を持っていないと考えている。しかし、それにも関わらず五輪やW杯といった国際的なスポーツ大会において「思わず暴言を吐く」のは隠れた脳の為せる業である。さらに、他の多くの<同胞>がそうした言動を取ることに対して私たちの隠れた脳が反応することで、そうした差別的言動は増幅するということも起こってしまう。いわゆる民族的感情がエスカレートする背景には、隠れた脳のネットワークが存在する。

 第二に、いわゆるジェンダー差別である。企業における昇進昇格などにおいて女性であるから昇進できなかったということを証明することは難しい。パフォーマンスが至らなかったために昇進できなかった、という反証をするためには、一つの要件を探し出しさえすれば良く、比較的容易だからである。しかし著者は、トランスジェンダー、すなわち性転換を行った方が、その前に受けていた言動と、後における性転換の事実を知らない他者からの振る舞いとのギャップから、差別が実際に存在していることを示唆する。たしかにこの発見事実の持つ意味は大きい。しかし、結局のところ他の性を経験しなければ性差別に気づけないという限界をも意味し、性差別を多数の人間がどう認識できるかは今後の検討課題とならざるを得ない。

 第三は災害時の対応における隠れた脳のはたらきである。他の人の行動を相互に真似し合うという隠れた脳のネットワークが、トラブル時に顕在化し易いということである。そうであるからこそ、複数の出入り口があるのに一つの出入り口にほとんどの人が殺到してしまうという非合理的な行動を私たちは取ってしまう。9・11の際に、WTCの88階にいた人々は他の人が階段を下りたから一人を除いて全員が助かり(その一人は他のフロアの人間を非常階段に誘導しようとして逃げ遅れてしまった)、89階にいた人々は誰も逃げないからその場に留まってしまい全員が死亡した、という著者の例示は重たい。3・11の「釜石の奇跡」で著名な片山教授の「大地震の際は真っ先に自分が逃げること。それを他者に示すことが他者を救うことに繋がる。」とう教えは、行動経済学にも説明できる真理である。

 第四は原理主義やカルトといった排他的なクラブがなぜ成立するのか、である。排他的なクラブは、多額のお布施を前提としたり身体的条件を絞り込んだりして、入り口を制限することが多いという。そうすることで、そこに所属することのエリート意識を涵養するためだ。そうしたエリートばかりがいる集団の中で、他の人が自爆テロをするから自分も自爆テロに参加することが「当たり前」という空気を醸成できる。この「当たり前」という空気感は、他の世界と隔絶されているという排他的クラブの特徴によって中長期によって維持される。排他的クラブの外側にいる人々からすれば異様な言動であっても、その内側にいる人々にとっては、疑う必要もない自明の言動なのである。

 自分は合理的であると誰もが思いたいものであろうが、その合理性が隠れた脳の為せる業かどうか。日常的にモニタリングすることはあまりに煩わしいが、ときに注視することは必要であろう。