世阿弥は本書の冒頭で年齢に応じて稽古に対する心構えを述べている。室町時代と現代とでは時代背景があまりに異なるため、同じ年齢であっても状況は異なるだろう。そうであっても、自分と近い年齢に対して世阿弥が何を記したかについては興味があるものだ。彼は「三十四、五」歳に対して以下のように述べている。
この比の能、盛りの極めなり。ここにて、この條々を極め覚りて、堪能になれば、定めて、天下に許され、名望を得つべし。もし、この時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふほどもなくば、いかなる上手なりとも、未だ、誠の花を極めぬ為手と知るべし。もし極めずば、四十より能は下るべし。(18頁)
大変厳しい指摘である。この頃がベストの状況であり、芸を極めて覚ることができれば、他者からも評価される、としている。翻って、他者から評価されないという状況であれば、悟れていないということであり、芸を極めてられていないということである。こうした状態で年齢を重ねてしまうことがあれば、四十歳を過ぎると技能は落ちてしまう。
上手の、目利かずの心に合はぬ事、これは、目利かずの眼の及ばぬ所なれども、得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、また、目利かずの眼にも面白しと見るやうに、能をすべし。この工夫と達者とを極めたらん為手をば、花を極めたるとや申すべき。(73頁)
自分を理解されない、言っていることを分かってもらえない、と思うような時に、私たちはともすると受け手の問題に帰してしまうことがある。しかし世阿弥は、芸を理解しない人々に対しても面白さを感受してもらうことが、芸を極めることであるとしている。つまり、受け手に因らず理解させることが一流なのである。
初心よりの以来の、芸能の品々を忘れずして、その時々、用々に従ひて取り出だすべし。(101頁)
年齢や状況に応じて、取り出すべき初心の心得は異なるという。つまり、いつでも最初の志を思い返せば良いということではない。心得というものは、状況により、人により、異なるものなのである。したがって、自分自身にとって、いつの、誰に対する、初心であるのかを自覚しながら、それを思い起こすことが有効なのであろう。
時の間にも、男時・女時とあるべし。いかにすれども、能にも、よき時あれば、必ず、また、わろき事あり。これ、力なき因果なり。(106頁)
調子の良いときもあれば、悪いときもある。環境要因が優れないときに対応をしすぎようとすることはあまり意味がないようだ。だからといって、そうした状況のときはただ不調が通り過ぎるということもよくない。そうではなく、いつかは訪れる調子の良い状態を想定した上で、そのための準備を丹念に行なう。そうすることで、調子の良い時に訪れるチャンスをつかむことができる可能性が高まるのではないだろうか。
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