上下巻にかけて約千頁にわたる大著。違う見方をすれば、たった千頁で世界における歴史を紡ぎ出すにはポイントを絞り込むことが必要だ。ポイントを絞るのは、著者の歴史に対する思想である。
本書をまとめる基本的な考え方は簡単である。いついかなる時代にあっても、世界の諸文化間の均衡は、人間が他にぬきんでて魅力的で強力な文明を作りあげるのに成功したとき、その文明の中心から発する力によって攪乱される傾向がある、ということだ。(36頁)
ハンチントンは『文明の衝突』で現代における文明間の衝突を明らかにしたのに対して、著者は、本書で文明間の均衡と攪乱の歴史の流れを明らかにしている。中心と辺境という言説構造も見え隠れするようではあるが、一つの歴史の一面を明らかにしようとする著者の意欲が伝わってくるようだ。
まずは、普遍的な宗教ができあがるまでの道程を見ていこう。
同じ場所の土がくりかえしくりかえし犂で耕されるようになったため、中東全般にわたって、小さい、長方形の畑が出現しはじめた。この変化が進行するにつれて、中東の農民たちは、川の沈泥で肥沃にされたり灌漑用水でうるおされたりしない土地からも、かなりの量の剰余食糧が得られることにしばしば気がついた。そのような社会においては、人間の筋肉にだけ頼る労働力が家畜の力の補いをうけて効力を著しく増したため、少数ではあるが、ある人々が自給自足の直接労働から解放され、その結果、灌漑のおよばぬ土地にすら文明が波及するようになった。そこで、すぐあとに述べるように、その後まもなくして、天水により水分を与えられる土地に、文明化した型の社会を作り出しかつ維持する新しい可能性が、文明社会の発生地に適当な近さを持った地方で実現されたのである。(75頁)
日々の食糧に困る状況から脱却することが私たち人類に深い思索を可能とし、思索が文明を創り出した。文明の成り立ちについて、エジブト文明を例にとって、シュメルとの比較から見て行く。
広い目で見れば、エジプトとシュメルの社会構造の間の抜きがたい差異は、初期エジプト文明の表現を、完成度が高く、かつより脆弱なものにしている、といえる。エジプトにおけるいっさいのものは、神である王、すなわちファラオの宮廷に集中された。シュメルにおいては、神々は目に見えないものと信じられていた。ただし、神々の欲求や性格、行動の特徴は人間に似ているとされた。しかし、エジプト人は、自分たちの王が神であると断定したのである。王は不死の存在であったから、他の人間たちにも魂の不滅を許し与える力を持つことができた。(78~79頁)
多神教の色彩の強いシュメルとの比較から、一神教の萌芽としてのファラオの神というものが創造された。しかし、そうした文明の基底を為す根幹が、辺境へと広がる過程において、ファラオの意志の力が弱体化することに繋がる。
エジプトの軍隊と外交官たちがアジア、シリア、パレスティナなどを、時には成功し時には失敗しながら通過したとき、神聖なファラオの意志が、神の意志と同じように、時と場所を問わず常に至高のものだ、と信ずることがむずかしくなってきた。そして、政治的な力と経済的な富がティグリス=ユーフラテス流域をさかのぼって、まず最初にバビロン、次にニネヴェへと攻め入り、かつては繁栄していたシュメルの諸都市を完全な荒廃と衰亡の極に追いやったとき、シュメルを世界の中心、神の寵児として扱っていた宗教的聖歌や儀礼は、もはや無条件で自動的には受け入れられなくなってしまった。現在的な事実と過去から継承した信仰との間のそのような矛盾は、エジプトとメソポタミアの中間地方に住んでいる弱小民族にとっては、さらに鋭く感ぜられた。なぜなら、彼らは自分たちの地域の聖職者があがめる神や儀礼や神話に関して無知無関心な、外国の支配者や軍隊に徐々に圧迫される運命にあったからである。(130頁)
ファラオの神聖な意志と現実との差異が、その思想の有効性について人々に疑念を抱かせた。こうした混乱状況において、多様な民族を束ねる民族を超えた思想の誕生が求められたのである。そうした宗教を創り出したのはユダヤ人だ。
古代オリエント社会の知的、宗教的発達は、倫理的、超絶的一神論への傾きを持っていた。しかし、ユダヤ人だけが、この傾向を論理的で明確な結論にまで一貫して推しすすめる力を持っていた。他の民族は、たとえひとつの新体を他のものより高くかかげ、ある特定神の力を拡大して全宇宙に及ぼしめたとしても、結局伝統的な多神論を完全には捨て切れないでいた。(131頁)
伝統的な社会においては、アニミズムに基づく多神論的な世界解釈が自然と為されるのであろう。世界解釈と民族の多様性とがないまぜになった現実を一つの一神教へと結びつけたのがユダヤ人であり、その結果がユダヤ教である。
宗教が一地域のものでなくなった。ユダヤ人たちは、外見上はまわりの民族とほとんど同じようにふるまい、さまざまな言語を話し、衣装や行為の点でも一律でなかったが、それでいてヤハウェには忠実でありつづけた。要するに、宗教が、人間文化の他の側面から切りはなされたのである。イェルサレムの神殿での豪華な礼拝式に執着したり、信者に対して同一地区に住んでほぼ統一的な習慣に従うよう構成するのではなく、ユダヤ人の信仰は、少数の信者が集まって聖書を研究し思索する場所でなら、どこでも栄えることができるようになったのである。(139~140頁)
宗教は文化や文明を創り出す主要な要素の一つであり、私たちに影響を与える存在である。しかし、ユダヤ教においては、そうした要素を保有しながら、宗教と現実との差異をも明快にする論理を提示したのである。ユダヤ教という一神教の誕生は、さらに多様な地域に広まる上で、キリスト教へと受け継がれる。
救世主を待ち望んではいるが、ユダヤ教の祭式の掟にはどうしてもついていけない人々には、キリスト教のお告げは完全に納得いくものだった。こういう帰依者はユダヤの戒律に従う必要はないということが早くから決められた。キリスト(中略)を信仰し、キリスト信者の共同体の一員として新しい生活に入ることだけで充分とされた。その結果、紀元六六ー七〇年のユダヤ人の反乱に際して、イェルサレムにいたユダヤ人のキリスト教徒が各地に離散した時以来、東部地中海地方のギリシャ語を離す諸都市のキリスト教徒の共同体は完全にユダヤ教と縁を切った。(中略)ギリシャの思想的、宗教的伝統は、ユダヤのそれとは全然ちがっているのに、異教からの帰依者たちは必然的に、彼らの以前からの物の考え方をキリスト教の中にもちこんで来たのである。(260頁)
ユダヤ教から派生した異教の一つにすぎなかったキリスト教が広く伝播したのは、その受容性にあったという点は非常に興味深い。現代社会においては、キリスト教の保守派による他宗教や他文明への非寛容性が目立つことがあるが、本来のキリスト教は寛容性を有しているのである。
イスラムが急速にひとつの一貫した、そして法的に規制された生活の様式となったので、近隣の諸国は、イスラム教を受け入れるか、全面的に拒絶するかのふたつにひとつを選ばなければならなかった。このことは、文明世界を、ほとんど蟻のはい込む隙もないほど境界のはっきりしたいくつかの部分に分けたが、それは教義のしっかりした宗教が、文明生活の中心を占めていなかった過去の時代には見られなかったことである。だが文化的境界線を越えたこの相互の刺戟は、否定的な意味で重要である。つまり、イスラムに抵抗するために、ヒンズー教世界とキリスト教は、それぞれ自己のはっきりした特性を今まで以上に強めることになったのである。(344頁)
こうして諸文化における対立的な均衡状態が生み出される。600年頃からのイスラム文化圏の誕生と拡大が、翻って、その文化圏と領土を接するヒンズー教やキリスト教世界とが強まる端緒となったのである。
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