2014年3月9日日曜日

【第261回】『プレイフル・ラーニング ワークショップの源流と学びの未来』(上田信行×中原淳、三省堂、2013年)

 いま、改めて、ワークショップとはなにか。厳密な定義づけじたいにあまり意味はないだろうが、その歴史的な変遷と、発展してきた背景を眺めることに意義がある。ワークショップを日本に導入して草の根の活動を続けてきた上田氏の研究と変遷の歴史を振り返る形式で、ワークショップのあり方や可能性が垣間見える。

 僕の考えでは、ラーニングサイエンスと、ラーニングアートは、同じ目的を共有している活動のように見えます。ラーニングサイエンスは、学習に対して科学的なアプローチをすることで隠されている学習の性質を明らかにし、そのことをもって人々の学習観に揺さぶりをかけます。一方、上田先生が提唱したラーニングアートは、「こんなコンセプトどうでしょう?」と、アートとして表現することによって従来の学習観に裂け目を入れる、揺さぶりをかける、というアプローチだったのではないかと思います。両者はいずれにしても“揺さぶり”をかける。(116頁)

 アートとサイエンス。この二つは相反するものとして、時に対立的な構図のもとで描かれることがある。しかし中原氏は、両者の共通項として「揺さぶりをかける」という作用を指摘している。揺さぶられるということは、それまでの自身の世界を見る見方が変わること、新しい認識の有り様を自覚すること、自身の中にある新たな可能性や価値観を認識することである。こうした作用が起こる上では、左脳と右脳とを共に活用すること、つまりサイエンスとアートとを状況に応じて使い分けることが大事なのであろう。

 教育を時間軸で考えるのではなく、空間軸で考えようということで浮かんだのが、L、LL、LLLでした。L(learning)が「学び」、LL(learning learning)が「学びについて学ぶ=リフレクション(省察)」、LLL(learning (learning learning))が「学びについて学んだことをもう一度学ぶ=意味づけ」、というメタ認知的空間を創出しようと考えたのです。(119~120頁)

 上田氏が企画した展覧会の建物や空間のデザインにおいて、Learningについて三つの空間軸で考えたという。リフレクションまでは思いつきやすいものとも言えるが、それを意味づけへと繋げるという点が極めて興味深い。Learningという事象について、三つの概念を意識的に捉えて空間をデザインすることによって、Learningに満ちた経験が導かれるのであろう。

 初対面の100人が一同に会しても、その日のうちに全員を認識することは大変困難です。せめて参加者同士の名前と顔とわずかな情報がわかれば、話してみようと思うきっかけになるというのがポートレイトを送ってもらった理由の1つ。もう1つの狙いは、ポートレイトをわざわざ撮影するという行為が自分というものを見つめ直すきっかけになる、ということです。しかもそのポートレイトは普段の自分ではなく、当日のドレスコードで一度鏡の前に立って撮影したものとお願いしました。当日のドレスコードは「自分をラッピング」して来てくださいという不可思議なお願いです。キャリアデザインにおいて一番大切なのは自分自身のプロデュースです。ラッピングとは、商品をよりよく見せるプレゼンテーションであり、手にする人の期待感を煽るものです。自分をラッピングするとは、自分を商品として客観視すること。傍観者ではなく、自分は見られる存在であると自覚することにつながります。(168頁)

 著者二人による「Un-conference」というラーニング・イベントにおいて、事前のアクティビティとして「自分をラッピング」したもののセルフポートレイトを撮影して送付してもらうというものがあった。その意図について、しかけを考案した三宅由莉氏が解説を加えた部分である。前者の狙いは、初対面の人々との話題作りを行ない、対人関係上の緊張感を緩和するというそれほど目新しいものではないが、後者が素晴らしい。自分自身を客観視しながら振り返ることを狙ったアクティビティは、狙いすぎると参加者は醒めてしまう。狙うことと一歩引いた目線とをバランスさせた興味深い取り組みであると言えるだろう。

 よく聞くのは、ワークショップ行ったら盛り上がるけれども、またテンションがだんだん下がってしまい、それでまたもう1回ワークショップ行く。そうすると、結局リピートして行くしかなく、無限ループにはまってしまう、という話です。これは、参加者が、参加者のマインドのままで終わっているから起こる問題なのではないかと思います。マインドが参加者側から、主催者側に変わってくると、すべてのことが「次、自分でやる時どうしようか」ということになり、帰っても「よし次はああしよう、こうしよう」と熱が冷めないし、自分でやってみたくなります。(中略)ワークショップの中で「自分で何かを企画して、人を巻き込んでやる経験」を参加者自身が持つことなんですよ。ワークショップでも、自分で何かを企画して、巻き込んでやってみた。だから、日常でも、同じようにやってみよう。そういうかたちで、ワークショップと日常の連続性をつくればいいのではないでしょうか。(178~179頁)

 主体性を持たず、参加者という安全領域からワークショップに関与するだけでは、ワークショップというハレの場から職場や日常というケの場に戻ると意識が戻ってしまう。そうではなく、主体者という意識、つまり、自分が行なうとしたら、職場でどのように自分だったらワークショップを行なうかというマインドでワークショップに参加すること。こうした主体性を持つことが、ワークショップと日常とを連動させることになる。さらに、参加者がこうしたマインドセットを持てるように、ワークショップをデザインする必要があるとも言えるだろう。つまり、ワークショップは、その設計者と参加者との相互作用のなせるわざなのである。


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