2014年3月2日日曜日

【第259回】『荀子(下)』(金谷治訳注、岩波書店、1961年)

 まずは荀子の根幹を為す性悪説について見てみよう。

 人間の本性を考えてみると、目はものを見、耳はものを聞くことができるが、そもそもそのものを見る視力は目から離れず、ものを聞く聴力は耳から離れず、そこで耳目の聡明が得られているのである。学習によってそうなのでないことは明瞭である。孟子は「いま考えてみるのに、人間の本性は〔元来〕善いものであるが、すべてその善い本性を失うために悪くなるのだ。」というが、そのような説は間違っているといいたい。もし人間の本性を生まれつきの自然に放任しておけば、〔孟子が善だと考えている〕その素朴さやもちまえから離れていって、きっとそれを失い亡ぼしてしまうに違いないからである。以上のことによって観察するなら、人間の本性が悪いものだということは明瞭である。【巻第十七性悪篇第二十三・一】(193~194頁)

 もともと有している本性が優れていて、それが失われることで悪くなるという性善説は、ここでは孟子の思想を例として提示されている。それに対して、もともとの本性が悪いものである性悪説として人間の本質を捉える見方を荀子は提示している。ではなぜ、性悪説というものの見方が存在するのか。

 およそ人々が善いことをしたいと思うのは、その生まれつきの本性が悪いためである。(中略)その善さというのは偽すなわち後天的なしわざの結果である。【巻第十七性悪篇第二十三・三】(198~199頁)

 ここまで読み進めれば、もともとの悪い本性を、後天的な努力と経験によって善へと向かうというベクトルを荀子が述べていることが分かるだろう。最初の本性は悪いものであっても、一人ひとりが努力し工夫をしていくことで善い人間へとなることができる、という肯定的な考え方である。ではどのようにして善へ向かうことができるのか。道という概念を用いながら以下のように述べている。

 人間は何によって道を認識するのか。それは心によるのである。では心はどうして〔道を〕認識するのか。それは虚と壱と静によるのである。【巻第十五解蔽篇第二十一・七】(146頁)

 道を認識し、すすんでいくためには、心が大事であるとしている。加えて、心を認識していくためには、虚と壱と静という三つが必要であると荀子では述べられている。三つそれぞれについて見ていこう。

 人間は生まれると知覚があり、ものごとを知ると記憶が生ずるが、記憶というものは心の所蔵物である。それにもかかわらずいわゆる虚の状態があるというのは、前に所蔵している記憶によって新しく受けようとする知識をさまたげないという、それが虚の状態なのである。【巻第十五解蔽篇第二十一・七】(146頁)

 虚とはなにもないという状態を指すのではない。そうではなく、心に既存の記憶が存在する状態において、新しい記憶や知識を受け容れる態度が整っている状態をして虚と呼ぶというのである。私たちはともすると、自分たちが既に持っている知識や認識と整合していないものを受け容れないことがある。しかし、そうした既存知識に拘泥する態度は虚ではなく、道を進む上での障害となってしまうのである。

 心が生まれると認識能力があり、ものごとを認識すると区分が起るが、区分というものは同時に多くのことを兼ね合わせて知ることで、同時に兼ね合わせて知るのは心を分けていることである。それにもかかわらずいわゆる壱の状態があるいう(原文ママ)のは、あちらの一事の認識によってこちらの一事の認識をさまたげないという、それが壱の状態なのである。【巻第十五解蔽篇第二十一・七】(146頁)

 様々な認識を受け容れるという虚の状態を保つことは、いわば心を分けて同時に保有するようなことである。こうした態度は拡散的な知識保有と度量の深さになるであろうが、ともすると分裂してしまう危険性もある。こうした発散を収束させる統合性のようなものを、荀子では壱の状態として形容されているのである。

 心は眠っているときには夢を見、ぼんやりしているときには放縦に走り、それを使役するときには考え謀る。だから心はいつも動いているものである。それにもかかわらずいわゆる静の状態があるというのは、夢想や頻繁な想念によって認識能力を乱さないという、それが静の状態なのである。【巻第十五解蔽篇第二十一・七】(146頁)

 虚の状態で新しい知識や認識を受け容れる一方で、壱の状態によって統合を図ろうとする。いずれにしろダイナミックな動きが心の中に訪れている状態において、いかにしてそれを落ち着けるかという点が静の状態である。こうして、虚と壱と静というトリレンマを止揚する努力を重ねることによって、私たちは道を認識するプロセスをすすめていけるのであろう。

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