2015年5月31日日曜日

【第449回】『イチロー・インタヴューズ』(石田雄太、文藝春秋、2010年)

 イチローをはじめとしたプロフェッショナルなアスリートの言葉に魅了された時期がある。二十代の中盤の頃だ。当時購入したそうした書籍は、いま読むと深みを感じられず、何に魅了されていたのかすら分からないものが多い。しかし、イチローのインタビューや発言をまとめたものは違う、と改めて感じた。いつ読んでも考えさせられる言葉というものは、たしかに存在するのであろう。著者が、イチローに対して「自分がカッコいいと思うところがあるとしたら」と尋ねた際の回答に、その発する言葉に対する真摯さが現れている。

 「世の中に流されないところと、逃げないところかな。どんな結果に対しても、僕はそれを受け入れる。失敗した時の自分の立場が怖いからといって、変な理由づけはしません。だから僕の発している言葉にウソはないはずです」(9頁)

 ここまで言い切れるところに凄みを感じる。さらに、日本でのシーズン最多安打記録を樹立してその名を世間に知らしめた1994年当時を振り返って以下のように語っている。

 ’94年に210本のヒットを打って、もてはやされて……その時の自分というのは気分よくさせられて、少し浮ついていたと思うんですよね。(中略)その頃、自分で『いったい何が大事なんだろう』って考えたんです。人の期待に応えることなのか、自分の持っているものを出すことなのか。それを天秤にかけると、自分が力を出すことの方が絶対に大事だと思いました。そこからですね、ゲームに入っていくためにいろいろな準備をしなくてはいけないと思うようになったのは。準備をしておけば、試合が終わった時にも後悔がないじゃないですか。(中略)要するに“準備”というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していく、そのために考え得るすべてのことをこなしていく、ということですね。(78~79頁)

 準備という言葉に関する珠玉の定義に刮目すべきだろう。企業での研修でも私はよく拝借させてもらうフレーズである。

 「これまで周りからいろんな期待をされてきて、そのたびにその期待に応えようとした自分がいましたよね。もちろん、できたり、できなかったりしたんですけど、そういう中でイチローという選手に対する見方は、僕が一番厳しかったということ。それが、自分に対する自信を生んできたんだと思います」(159頁)

 257本という当時のメジャーリーグにおけるシーズン最多安打記録を破った2004年。記録を破れるか否かの瀬戸際に立たされた、シーズン最終盤の苦闘を振り返った言葉である。他者から否定されたりもてはやされたりしても、自分に対する見方がぶれず、真摯に、かつ厳しく見つめること。しかし、ただ厳しいだけではなく、その結果として自信を生み出すことができると信じているところが、イチローの強みではないだろうか。


2015年5月30日土曜日

【第448回】『ジョッキー』(松樹剛史、集英社、2005年)

 淡々と進行しながらも、一つひとつの事実が積み重なることで、最終的には一つのストーリーとして成り立つ。むろん、読み進めるのも心地よく、一気に読める。いろいろと考えさせられる小説も好きであるが、本作のようなゆるやかな小説もまたいいものだ。とりわけ、日常が忙しく過ぎる時には、こうした小説を読む時間は、リラックスできる掛け替えのない時間になる。

 根本は同じ馬優先主義であるのに、なぜか異なる答えを見つけ出してしまう。自分の意見こそ馬優先の論理だと思っているから、相手の言葉には耳を貸さずに衝突してしまう。宿命的といった論争を続けるふたりを見て、八弥は心底そう思った。(114頁)

 理想を持つことは好ましいことだとよく言われるし、他者や相手のことを思って行動することは望ましいことだとも言われる。しかし、そうした理想主義や利他主義であっても、主義が強すぎると、それが衝突してしまい、相容れないものとなってしまう。特定の野球チームのファン同士が、必ずしも仲良く応援できないことを考えれば、物事の本質を衝いた興味深い指摘であると言える。

 自分が陥穽にはめたのだ。憤怒の対象となるのは当然だと思った。憎悪みなぎる形相で睨まれ、強襲されるのも当然だと思った。信用を失い、憎まれ、自分は自分の手で、オウショウサンデーを過去のパートナーにしてしまった。そればかりか、敵にしてしまった。すべて自分のせいだと八弥は思った。
 それも含めて、受け入れるしかないのだ。過去とは決別するしかない。
 自分には、今のパートナーがいる。(313頁)

 ネタバレにならないよう仔細には書かないが、ジョッキーとしてもプライベートとしても、過去の自分の有り様から変わった今の状況を受け入れる様が描かれている。私たちは変わりたいと思いがちだが、いつの間にか、自分という有り様は変わっているのであろうし、少なくとも内部に変わっている部分は内包されているものだ。したがって、変わっている自分の有り様に気づくこと。


2015年5月24日日曜日

【第447回】『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』(仲正昌樹、作品社、2014年)

 アーレント・ブームとも呼ばれる現状の背景には何があるのだろうか。そこには、極端な考え方を教え込もうとしたり、二者択一を迫るような言説構造が正しいと思われるような風潮に対する抵抗があるように思える。そうした精神的抵抗を支えるバックボーンとして、以下に著者が端的に示すようなアーレントの基本的なアプローチがあるのではないか。

 キリスト教的な「善」に対する批判に見られるように、一つの原理を純粋に追求するとどういう袋小路に陥っていくのか示したうえで、読者を考えこませるのが、アーレントの持ち味だと思います。(144頁)

 こうしたアーレントの考え方は、一つの古典として成立しているアリストテレスの読解にも彼女の独特な受け取り方として示されている。

 アリストテレスを普通に読めば、サンデルのように「共通善」の理想を強調することになると思いますが、アーレントは「共通善」を固定化してしまうことに抵抗し、そうでない方向にアリストテレスを読もうとしているわけです。(42頁)

 アリストテレスを同じように用いながらも、その用い方がコミュニタリストの第一人者であるサンデルとアーレントとでは異なると著者は解説している。こうしたアーレントの独特な視点によって捉えられる仕事に対する考え方が、興味深い。

 アーレントが拘っているのは、私たちの認識や活動の基盤になっている「共通世界」が崩壊しているということです。「共通世界」を支えているのが、耐久性があり、人々の関係性を生み出すのに役立つ「物」を産出する「仕事」です。それが「仕事」の定義です。それは、普通の言葉遣いではありませんが、アーレント用語として受け容れて下さい。「仕事」が衰退して、「労働」が優位になることで、私たちの生活から、耐久的な物がなくなり、すぐに消費されてなくなるモノばかりになってしまうわけです。(210~211頁)

 はたらくということを考えさせられる箇所である。


2015年5月23日土曜日

【第446回】『代表的日本人』(内村鑑三、鈴木範久訳、岩波書店、1995年)

 最初に本書を読んだのは修士時代である。指導教授の学部でのゼミに出ていたら、本書が課題図書となったのである。恥ずかしながら、その際に初めて本書を読んだ。当時は修士論文の執筆で忙しくしていたのもあって、三十分程度でざっと目を通すだけに留めてしまったため、ほとんど印象に残らなかったのが正直な感想である。その数年後に、著者の『余は如何にして基督信徒となりし乎』と併せて読み直した。一度目と比べて印象に残った点が多かったようで、本には少しメモが残っているが、記憶はそれほど残っていなかった。不思議なもので、今回、改めて読み直してみると、考えさせられる箇所が多く、これまでよりも明らかに印象的である。著者が代表的な日本人として取りあげた五人の人物について、それぞれ見ていきたい。

【西郷隆盛】

 「機会には二種ある。求めずに訪れる機会と我々の作る機会とである。世間でふつうにいう機会は前者である。しかし真の機会は、時勢に応じ理にかなって我々の行動するときに訪れるものである。大事なときには、機会は我々が作り出さなければならない」(42頁)

 ハプンスタンス・アプローチ(改めて、キャリアについて考える。)を想起させるような至言を、江戸城無血開城や大政奉還を実現させた西郷が述べている。重要な機会は、私たちが創り出すものである。待っていて得られる機会は、万人に平等に与えられる機会であり、自身にとって大事な機会は、自身で創り出すことが必要なのである。

【上杉鷹山】

 人は三つの恩義を受けて育つ。親と師と君である。それぞれ恩義はきわまりないが、とりわけ他にまさるは親の恩である。……
 この世に生をうけたのは親の恩による。この身体が親の一部であることを決して忘れてはならない。親につかえるときには、偽りない心でふるまうようにせよ。(75~76頁)

 思わず襟を正させられる言葉である。まず、親に対して恩義を感じること、という部分を読んで、私は恥じ入るしかなかった。その上で、親に対して偽りのない心でふるまうようにするということだから、大きなチャレンジである。

【二宮尊徳】

 部下の評価にあたっては、自分自身に用いたのと同じように、動機の誠実さで判断しました。尊徳からみて、最良の働き者は、もっとも多くの仕事をする者でなく、もっとも高い動機で働く者でした。(88~89頁)

 成果主義という名の下に、パフォーマンスを評価する制度を運用している企業が最近では多い。しかしパフォーマンスだけで人を評価するべきではないことは当然であろう。そうした際に、その人がどういった動機で職務に取り組むのかを重視することは大事である。尊徳の考え方は、現代に生きる私たちにとっても有益な活きる教材である。

【中江藤樹】

 人はだれでも悪名を嫌い、名声を好む。小善が積もらなければ名はあらわれないが、小人は小善のことを考えない。だが君子は、日々自分に訪れる小善をゆるがせにしない。大善も出会えば行う。ただ求めようとしないだけである。大善は少なく小善は多い。大善は名声をもたらすが小善は徳をもたらす。世の人は、名を好むために大善を求める。しかしながら名のためになされるならば、いかなる大善も小さくなる。君子は多くの小善から徳をもたらす。実に徳にまさる善事はない。徳はあらゆる大善の源である。(122頁)

 この中江藤樹の言葉が、本書の中でもとりわけ興味深いと思えた部分である。私たちは、他者から見て分かりやすい大きな善を為そうとし、そうしたものを他者に気づいてもらえるようにアピールしたい気持ちを持つものだ。しかし、そうした気持ちを抑制し、 他者から見えづらい、小さな善を自身に心に従って積み重ねていくこと。フィードバックを得られづらい、そうした日常の小さな善の積み重ねが徳となる、と藤樹は説く。

 “学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能を持つ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。(123頁)

 他方で、学識についても藤樹は否定をしているわけではないと私には思える。たしかに、学識を得ようとして、得られた学識を他者にアピールすることは望まれる行為ではないだろう。しかし、日々の努力と研鑽によって得られた学識が、徳と合わさることで、他者や社会に貢献できる学者となれるのではないだろうか。

【日蓮上人】

 日蓮を非難する現代のキリスト教徒に、自分の聖書がほこりにまみれていないかどうか、調べてもらいましょう。たとえ聖書の言葉が毎日口にされ、それからじかに霊感を与えられているとしても、自分の派遣された人々の間に聖書が受容されるために、一五年間にもおよぶ剣難や流罪に堪えうるでしょうか。聖書のために、身命をも懸けることができるでしょうか。このことを自分に尋ねてほしいのであります。(175頁)

 まず、キリスト者である著者をしてこうした言葉を発せられることに驚く。それとともに、徳のある宗教者とは、こうした寛容で多様な生き方を理解できる人物なのではないだろうか、と考えさせられる。


2015年5月17日日曜日

【第445回】『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(平野啓一郎、PHP研究所、2006年)

 本書のエッセンスは、冒頭の「序」において、明瞭かつ簡潔に以下のように述べられる。

 本当の読書は、単に表面的な知識で人を飾り立てるのではなく、内面から人を変え、思慮深さと賢明さとをもたらし、人間性に深みを与えるものである。そして何よりも、ゆっくり時間をかけさえすれば、読書は楽しい。私が伝えたいことは、これに尽きると言っていい。(9頁)

 こうした読書の意義を考えれば、読む本を考える必要もあるだろう。表面的なものや、即物的なものを扱ったものでは、深みのある読書のしようもないだろう。と同時に、自分自身のペースで、自分の好きなものを読めば良いとも考えられる。

 読書という行為は、読み終わった時点で終わりというのではない。ある意味で、読書は、読み終わったときにこそ本当に始まる。ページを捲りながら、自分なりに考え、感じたことを、これからの生活にどう生かしていくか。ーー読書という体験は、そこで初めて意味を持ってくるのである。(37頁)

 深みをもたらしくれるからこそ、読書をしている最中だけではなく、その後の人生においても考えさせられるものである。さらに言えば、本を読んでいない時に、ふとしたタイミングで気づきや考えが進むものが、読書の醍醐味の一つではないか。

 小説を読む理由は、単に教養のため、あるいは娯楽のためだけではない。人間が生きている間に経験できることは限られているし、極限的な状況を経験することは稀かもしれない。小説は、そうした私たちの人生に不意に侵入してくる一種の異物である。それをただ排除するに任せるか、磨き上げて、本物同様の一つの経験とするかは、読者の態度次第である。(142頁)

 深みの一つには、自分自身が経験できないことであり、かつ共感できるものへの気づきを得られるということが挙げられるだろう。こうした小説を読むことの意義の一つは、私自身、藤村を読んだ際に実際に体験して、感動をおぼえたものである。(『破壊』(島崎藤村、青空文庫)

 さらに、プロの小説家である著者による比喩のレクチャーがあるのもまた、うれしい。

 「僕の毎日は、印刷したように同じだ。」
 この一文から、人が想像するのは、具体的な内容は不明だが、多分、朝出勤して仕事をし、夕方帰宅して一日を終えるだけというような単調な生活である。「印刷したような」という比喩は、まったく同じだ、ということをイメージによって端的に説明する。しかし、こう続けばどうだろう?
 「それでも、生活の実感は同じじゃない。たくさん刷り過ぎてインクが薄くなってきたように、近頃僕はその同じ繰り返しを、以前よりも希薄に感じ始めている。」
 さらにこうだ。
 「そうして不安に駆られて、自分の生活にもう一度目を凝らしてみると、思いがけない発見をすることもある。とはいえ、それだって、せいぜい誤植を見つけたくらいの興奮だが。」
 比喩がキマッている、というのは、提出されたイメージ(ここでは「印刷」)が、喩えられるべき現実に重層的に対応しているときである。これは、必ずしも今のように明示的に展開されている必要はない。考えてみるとそうだ、でいいのである。逆に、上滑りしている比喩とは、イメージのほんの些細な一点だけがかすっていて、全体としてみればむしろ対応しない要素のほうが多いというケースだ。(203~204頁)


2015年5月16日土曜日

【第444回】『アート鑑賞、超入門!』(藤田令伊、集英社、2015年)

 アートとは、「自由に眺めれば良い」と言われても困るし、「知識に基づいて決められた見方をせよ」と言われても窮屈だ。ではどうすれば良いか。本書は、そうした疑問に対してアート鑑賞の初心者である私のような人間に対して参考になる考え方を提示している。まず、作品を「よく見る」ことの効用を述べた上で、具体的にどのように「よく見る」と良いのかについて、三つのポイントを指摘している。

 ディスクリプションとは、つまるところ、作品の様態を言葉に変換する作業です。誰にでもできるごく単純な作業にすぎません。しかし、ディスクリプションは美術の専門家にとっては不可欠の作業となっており、ディスクリプションを意識して行うことによって、見落としていた部分に視線を向け、作品全体を隈なく見渡すことができるようになります。また、言葉にすることによって、漠然としか見ていなかったものをはっきり認識できるようになったり、細かいところをしっかり観察できたりする効果もあります。(26頁)

 第一に、ディスクリプション、つまり描写することが挙げられている。作品をただ単に受け身的に見るのではなく、それを自分自身で描写するという能動的な作用を伴わせるのである。アウトプットをしようとすることによって、インプットの質と量に肯定的な作用をもたらすという考え方は納得的だ。

 時間をかけてものごとと向き合っていると、初めのうちは考えもしなかったことを思いついたり、感じなかったことが感じられたりするようになります。アート鑑賞においては、色やかたちの組み合わせの妙や構図の工夫、技術の巧みさ、じんわりと浸みてくる印象、作品がいわんとしていることなど、最初のうちは気づかなかったことに気づくようになります。これは、とりもなおさず、見方が深くなっているということです。作品についての理解や感受のレベルが深まり、より作品に肉迫していることになります。(29頁)

 第二は、時間をかけて見る、という点である。シンプルではあるが、私たちがついつい軽視してしまうポイントである。日常において効率性や経済性を重んじてしまう私たちは、ともすると美術館に行ってもなるべく早く、掲示された順路を墨守して、効率的に回ろうとしてしまう。しかし、それではアートを自分自身で観賞するというゆたかな経験とは程遠いものになってしまうのではないか。そうならないように著者が勧めるのは、ざっと全体の作品を一通り見た上で、気になった作品とじっくりと対峙することである。アートとの対話を通じて、作品が語りかけてくるものが増えてくるものなのだろう。

 数を見るうえで大事なことがあります。できるだけ実物を見ることが望ましいということです。(31~32頁)

 第三のポイントは数多くの作品を見るということである。見方に自信がないから見に行かないという発想ではなく、量を増やすことによって、量が質に転化するということであろう。その際には、インターネットや画集で見るのではなく、作品そのものと実際に相対すること。そうすることで、気づくものは大きいと著者は力説している。

 こうした基本としての三つのポイントを押さえた上で、依存しすぎることがない程度に知性を用いたアート鑑賞することの有用性が述べられている。知性で見る場合に役立つ考え方について、以下から二つだけ取りあげたい。

 一つひとつの「なぜ?」をもとにして作品を見ることができますから、「なぜ?」の数はそのまま作品を見る視点の数ということになります。したがって、「なぜ?」が多ければ多いほど多角的に作品を鑑賞できることになります。(103頁)

 まず、「なぜ」という問いかけを作品に向けることが知性的な鑑賞として有用であると著者は述べる。これはディスクリプションの発展形態と捉えることができるのではないだろうか。つまり、作品じたいを描写することに留まらず、そこに作者が見出そうとした何かや作品の背景に焦点を当てて、問題意識を持って働きかける行為であるからだ。

 社会論としての意義もあります。作者の意図とは異なる見方も許容されることは、社会のダイバーシティ(多様性)の担保につながります。そして、さまざまな見方が存在することによって、意見が異なる者同士でも共生できることになります。さらには、いろいろな見方によってチェック機能が働いたり修正作用が機能したりして社会の健全性が保たれることにもなります。作者の意図に拘束されないほうが、むしろ好ましいとさえいえるのです。(106頁)

 自分自身の知性を働かせながら、自己流で鑑賞することが、鑑賞者と作者との相互作用を生み出す。そうした相互作用の連鎖が、社会としてアートを発展させていく大きな流れへと繋がる。現代は、アートに限らず、自己発信が情報技術によって広く行いやすい社会となっている。多くの人々が発信するということは、多くの人々が受信するということを意味する。私たちは、自分自身が何かをゼロから創り上げて発信するだけではなく、他者の作品を主体的に解釈してそれを発信することで、社会に多様なあり方を涵養することができる。

2015年5月10日日曜日

【第443回】『ダイアローグ』(デヴィッド・ボーム、金井真弓訳、英治出版、2007年)

 コミュニケーションを実際に「ブロック」しているものに各自が充分に注意を払い、適切な態度で、コミュニケートされている内容に参加すれば、何か新しいものを人々の間に創造できるかもしれない。(41頁)

 ダイアローグとは日本語に訳せば対話であろう。対話について書かれた小論において、まず著者はコミュニケーションについて述べるところから始めている。その中において、何を話したり聴いたりするかということではなく、何に意識を当てるかという態度から述べているところに注目するべきであろう。つまり、意識を当てる焦点は、話し手である自分自身の態度であり意識である。具体的には、自分自身が何に対してオープンなコミュニケーションを取れていないか、を自覚することが重要なのである。

 こうした自分自身のコミュニケーションに対する自覚を前提とした上で、類似した概念であるディスカッションとダイアローグとを以下のように定義している。

 ディスカッションはピンポンのようなもので、人々は考えをあちこちに打っている状態だ。そしてこのゲームの目的は、勝つか、自分のために点を得ることである。(45頁)

 ディスカッションにおいては、そこに参加する人々は対峙してお互いの意見を言い合う。そうした意見には、どちらが正しくてどちらが間違っているという価値判断が為される。自分自身の意見の正当性を主張するためにも、お互いの意見を守るために議論が展開される。

 対話には、ともに参加するという以上の意味があり、人々は互いに戦うのではなく、「ともに」戦っている。つまり、誰もが勝者なのである。(46頁)

 それに対して、対話ではお互いが対峙するということではなく、それぞれが同じ方向を向いて一つの場を形成しようとする。したがって、発現者が自身の意見に拘泥するというよりは、全体としてより良いものを一緒に創り上げていくプロセスに参画することになる。むろん、そうした対話自体への参加というだけに留まらず、その結果として生じる組織としての行動にコミットすることにも繋がるだろう。

 私たちが自分自身の意見にこだわろうとするのはある面では自然な行動である。では、いかにしてそうした拘泥から逃れて、場に対して貢献するという意識に集中することができるのであろうか。

 想定は必ず発生する。自分を怒らせるような想定を誰かから聞いた場合、あなたの自然な反応は、腹を立てるか興奮するか、またはもっと違った反撃をすることだろう。しかし、そうした行動を保留状態にすると考えてみよう。あなたは自分でも知らなかった想定に気づくかもしれない。逆の想定を示されたからこそ、自分にそうしたものがあったとわかったのだ。他にも想定があれば、明らかにしてかまわない。だが、どれも保留しておいてじっくりと観察し、どんな意味があるかを考えよう。
 敵意であれ、他のどんな感情であれ、自分の反応に気づくことが必要だ。(69~70頁)

 ある発言や状況に対して自分自身がどのような反応をするかを観察し、その結果として自分自身が無自覚に保有している想定を自覚すること。これが、他者の意見に対して反応せずに、ありのままのものとして保留するために必要であると著者は述べる。むろん、自分自身が保有する想定もまた変化するものであろうし、状況によっても変わるものだろう。したがって、自分自身の反応を内省することで、想定を自覚し続けることが私たちにとって大事なことなのである。

 自分の好みに従って行動することが、自由である場合はめったにない。人が好むものは、考えた事物によって決定されるし、それは決まりきったパターンである場合が多いからだ。そのため、我々には新しい方法でグループを動かすための、創造性が必要である。(74頁)

 好みに従って行動すれば良いと私たちは考えがちだ。しかし著者は、好みに基づいた言動とは自分自身の決まりきったパターンが現れているにすぎないとする。したがって、対話においては、自由にお互いが話すということではなく、創造性を発揮するためにも何らかのテーマを置いた方が良いという。


2015年5月9日土曜日

【第442回】『企業ドメインの戦略論』(榊原清則、中央公論新社、1992年)

 ドメインにはこのような戦略領域としての側面と、すでに具体化された現実の事業領域の側面とがある。その両者がここでいうドメインである。
 現実の事業領域としてのドメインは、既存の事業・製品のリストや取引先、顧客層などをあげていけば、すべてではないにせよ、かなりの程度記述できるであろう。従来の研究の多くは主としてドメインのこの側面に焦点を当てて議論してきた。しかし、戦略論の立場からみれば戦略領域としてのドメインがより重要である。(12頁)

 ドメインという言葉は領域というように訳される。戦略論のコンテクストにおけるドメインとしては、上記のような意味合いとして用いられると著者は指摘する。では、具体的にはどういった次元からドメインは構成されるのであろうか。著者は、端的に三点を挙げている。

 (1)「空間の広がり」(狭い 対 広い)
 (2)「時間の広がり」(静的 対 動的)
 (3)「意味の広がり」(特殊的 対 一般的)(42頁)

 三つのそれぞれの広がりが、広く、動的で、一般的である方が、そのドメインのもつ広がりは大きくなる。それを「含みがある」と肯定的に表現することもできるだろう。しかし、それと同時に、あまりに拡散しすぎるのも問題があるとして著者は以下のように指摘する。

 三つの次元のそれぞれにおけるプラスの方向が、なんら限定なしに、どこまでも望ましいわけではないということである。空間の広がりが大きすぎると活動の境界が不明になり、焦点が定まらない危険がある。変化性が高すぎるドメインの定義は、安定的・持続的な事業活動のもつメリットを見失わせる危険がある。さらに、ドメインの一般性が高すぎる場合には、その企業経営の独自性や固有の存在意義が失われる危険が出てくる。これら三つの危険は、要するに企業のアイデンティティが拡散し、企業が「自分」を見失ってしまう危険である。(45頁)

 「広がり」が大きすぎると、企業の独自性が薄れるリスクがあり、結果的に企業独自のアイデンティティまでが失われる危険性があるのである。ではどうすればいいのか、と問うのではなく、中庸という概念を考えたくなるような捉え方ではないだろうか。

 当事者も驚くこのようなダイナミックな現象は、演繹的分析に基づく事前の緻密な計画だけでは生まれないものである。製品の意味が相互作用的プロセスを経て生まれてくるというここでの視点は、このようなダイナミックな現象を解明するカギなのである。
 (中略)
 製品の意味は、以上にみてきたように企業だけが創るものではないのである。それは相互作用的なプロセスを経て生まれてくる。しかしながら、意味領域の生成に企業が影響を与えることはもちろん可能である。そのための有力な手段は、「停泊点」(アンカレッジ・ポイント)と「スキーマ」の提供である。
 停泊点というのは、もともと船が錨を降ろす場をさす言葉である。ここでは、ものごとを判断する際に基準として参照される事物を意味する言葉として使われている。またスキーマとは、最も抽象的には「一定の構造をもった知識の集合」を意味する。(145~146頁)

 ドメインをもとにして企業が製品を捉えると、そこには企業とそれを取り巻く環境との相互影響が製品に意味を付与していく様をみることができる。製品に意味が付与されていくように企業がデザインするためには、停泊点とスキーマとを意識することが重要である、という著者の提言に着目するべきであろう。


2015年5月6日水曜日

【第441回】改めて、キャリアについて考える。

 仕事自体が「良いもの」であれば、人々は働きがいを感じながら働くことができる。仕事の特性を捉えるモティベーション理論であるハックマン=オルダムの職務特性理論を用いれば、モティベーションを高く保ちづらい職務というものはたしかに存在する。しかし、そうした特性をもった職務であっても、たとえば、たのしみながら顧客に貢献して働く方も実際には存在する。つまり、どのような職務であっても、自分自身で働きがいを創りながら働くことはできるのではないか。こうした問題意識を持って、キャリア意識を説明変数に、モティベーションを従属変数として設定した半構造化インタビューとアンケート調査による質的研究を行った。その結果、仕事をどのように意味付けているかが仕事に対するモティベーションに影響を与えることを明らかにした。仕事の意味付けとは、過去の経験をどのように意味付けているか、成長感や達成感をどのように仕事の中で意味付けているか、将来のキャリア展望をどのように現在の仕事に意味付けているか、という時間軸から構成される。これが、2009年の7月に前期博士課程論文として上梓した学位論文の要約である。


 当時は、修士課程の学生でありながら、新卒で入社したコンサルティングファームでの業務と大学の研究員とを兼務していた。その半年後にキャリアチェンジをしてIT系のベンチャーで教育担当を約三年間、次に製薬企業での教育担当を二年半経験し、本年一月からHRBP(HR Business Partner)へと異動した。

 新しい役割を担う中で、以前の私の研究内容であるキャリアについて意識が向かっている。過去の自分自身の研究内容は今でも納得的であり、実際に、前職から現在の企業における教育担当として拠り所となるものであった。そういった意味では学位論文における実践的含意で述べたように、企業実務においても役に立つ研究内容であったと自負している。しかし、それとともに物足りない部分が大きくなってきたことも事実である。具体的に言えば、行動変容までを射程範囲に置いていない部分である。企業実務に携わると、意識が一時的に変わってもそれが定着することなく行動変容まで至らないケースを目の当たりにすることが多い。それを「スタッフ部門としてはやることをやった、あとはライン部門の仕事である」ということは容易いが、それは果して誠実な態度と言えるのであろうか。私自身はもっとできると考えるため、改めて、キャリアを考え、行動変容をどのように捉えるかを、いくつかの書籍を紐解きながら仮説構築を行なおうと考えたのである。

 現代は、変化の激しい時代であるとよく言われる。そうした時代におけるキャリア理論においては、以前の時代における予定調和的で静的なキャリアゴールからアクションプランを落とし込むというアプローチは適していない。むしろ、自分自身が大事にする価値観を重視しながら、それに囚われず、自身の新たな気づきを促していくということが強調される。こうした考え方は、安冨(2014)が指摘する論語における学習回路を開くという考え方と近しく、旧くて新しいパラダイムであると言えるのではないか。この着想を具体的に肉付けしていくために、三つの主要な著作を見ていく。



 まずクランボルツ+レヴィン(2005)のハプンスタンス・アプローチの特徴は、従来のキャリア理論が前提にしていたあるべき将来像からのカスケーディング・ダウンを否定している点にある。計画を立てることを否定するのではなく、「計画に固執するべきではない」(2頁)という考え方だ。計画に固執せず、外部の変化に対応するためには、自分自身が現時点で想定する「夢を実際に試」すという発想が大事になる(54頁)。つまり、自分の思い描く夢に自分自身を全て委ねるのではなく、少し試してみて、その上で違えば修正を行う。こうした試行錯誤の繰り返しが、思いがけない幸運を招いたり、仕事や生活をよりゆたかにするきっかけになる。

 この夢を試すという発想はイバーラ(2003)とも通底するものである。キャリアをすすめるということは、仕事や経験の連なりをデザインするのみならず、自身の「キャリアアイデンティティーを修正すること」(20頁)である。キャリアアイデンティティーを構成するものは、むろん自分自身の過去の経験や現在の価値観であるが、それと共に「将来にも存在する」(64頁)ことに着目するべきである。したがって、未知のものへの気づきや自己変容を促すためには、「さまざまなことを試み」、「人間関係を変え」、自分自身の大きな変化を「深く理解し納得」することが重要だ(40頁)。とりわけ、いきなり職務や職場を変えるということではなく「試す期間の行動を通じて、漠然とした可能性が具体的な選択肢へ変わり、それを評価できるようになる」(35頁)ことに留意するべきだろう。

 オープンな態度の重要性は花田(2013)にも共通する考え方であり、過度に現在の自分に囚われない姿勢を「オープンマインド・アンラーニング」(109頁)という言葉で端的に示す。オープンマインド・アンラーニングとは、自分自身を開きながら、自分自身で意識を持って学習し続けるということである。したがって、人材マーケットやスキル・スタンダードに即した標準化を目指すのではなく、「個性化」(50頁)こそが現代を生きる私たちに必要な考え方である。具体的には、「標準、決められた役割発揮、基礎の状態、自分の中にある標準の発揮という視点からの脱皮・脱却」(50頁)が求められている。そのためには、開かれた態度を持ちながら現時点で「自分の興味ある関心事項を日常業務に反映・発揮してみる」(177頁)という職務におけるストレッチングが重視される。



 こうした「学習回路を開く」タイプのキャリア理論は、私の2009年当時の問題意識とどのように対応するのか。今・現在における仕事を意味付けることの重要性は変わらないであろう。しかし、一度意味付けたものに拘らず、関わる他者やコミュニティに対してオープンであり、仕事の意味付けを更新し続けることが求められると言えるのではないか。そのための行動の有り様としては、自分自身で学んだり、上司から学ぶといった従来の職場での学びを開くことが必要だ。具体的には、職場の多様な他者から学ぶ、コミュニティを構築しながら学ぶ、他者からの支援を自分から取りに行って学ぶ、という三つが仮説として考えられる。

 第一の職場の多様な他者からの学びについては、中原(2010)に詳しい。同書の中では、「若手の成長を考える上で重要なことは、職場の上司や上位者だけが単独でそれを担えるわけではない」(105頁)とされる。つまり、OJTにより上司から、OFF-JTにより教育担当者から、といった特定の役割を担う他者が教育を担当するという従来の職場での学びからの視座の転換が指摘される。それと共に、他者からの支援行動として「業務支援」「内省支援」「精神支援」(47頁)の三つが明らかにされ、各ステイクホルダーにより異なる支援の種類によって若手社員が能力向上することを明らかにしている。したがって、育成責任を上司に委ねるのではなく、職場全体として、若手社員の育成を多様な主体が担うことが有効であるとともに、現実的でもあろう。

 こうした職場における学びには、職場の風土も影響する。中原(2012)が指摘するように「変化に対して柔軟にかつオープンに対応し、革新が公式に奨励・承認されるような場所」であると「他者から様々な支援を受けるニーズが生まれやすい」状況となり、社員一人ひとりの「能力向上につながりやすい」だろう(151頁)。

 第二のコミュニティを構築しながら学ぶという観点は、石山(2013)が先行研究を踏まえながら「実践共同体への越境」(82頁)と名付ける行動に端的に現れる。越境学習と呼ばれる領域においては、学習行動は、決められたものを決められた方法で学ぶというようには捉えられない。そうではなく、「相互作用として常に変化する、個人と共同体の社会的実践のあり方」(85頁)というダイナミックな学習観を取ることに着目すべきであろう。このような動的な学習パラダイムに基づけば、ビジネス書を読んで粛々と努力したり、上司からのOJTを待ってから仕事に取りかかる、といったものが機能しなくなっていることは自明であろう。閉じられた環境の中で学びの機会が訪れるのを待つのではなく、「社会的実践の中で、仕事自体が不確定に揺れ動き変化していくもの」である現実を鑑みると、「水平的に多様なメンバーと交流していくこと、すなわち越境が避けられない行為」となる(95頁)。越境学習とは、単なる名刺交換会のようなものでは実現しない。コミュニティにおける気づきを自分自身への学びへと繋げるためには「往還と内省」(99頁)という主体的な意味付けのプロセスが必要不可欠なのである。

 第三の仮説として示した他者からの支援を自分から取りに行って学ぶという観点については、研究の蓄積がそれほど為されていないようだ。クランボルツ+レヴィン(2005)が「励ましを与えたり受け取ったりする」(113頁)方法として挙げている以下の三点が参考となるだろう。

(1)あなたを助ける立場にある人々の目に止まるようなやり方で仕事をやる。
(2)自分の恐れや希望、夢について他の人に話す。
(3)他の人の希望や恐れに耳を傾け、必要とされるときにはーー場合によっては頼まれなくてもーー積極的に支援することで、他者の人生に対する興味や関心を示す。


 キャリア意識を開かれた状態にしながらキャリア自律をすすめることが、他者や組織に対する行動変容に繋がる。鈴木(2013)も示唆するように「「私」を活かすことによって、そこに自己と他者のコミュニケーションが生まれ、それにより他者への関心が増す」ことが職場という「公共の領域を広げることにつながる」のである(57頁)。それと同時に、キャリア自律とオープンな行動には「逆転共生」(215頁)関係が生じるとも考えられるのではないか。つまり、キャリア自律とオープンな行動とは、それぞれが機能する程度が存在する一方で、一方が強すぎると他方が疎外される可能性が存在するのである。こうした点に留意しながら、実務において、「学習回路を開く」オープンマインドに基づくキャリア意識と、日常における行動、とりわけ先行研究の蓄積が少ない他者からの支援を引き出す行動との関係性に焦点を当てて、実務に携わりながら考えをすすめていきたい。

<参考文献>
ハーミニア・イバーラ(2003)『ハーバード流 キャリア・チェンジ術』翔泳社
J・D・クランボルツ+A・S・レヴィン(2005)『その幸運は偶然ではないんです!』ダイヤモンド社
中原淳(2010)『職場学習論』東京大学出版会
鈴木竜太(2013)『関わりあう職場のマネジメント』有斐閣

2015年5月5日火曜日

【第440回】『「孫子」の読み方』(山本七平、日本経済新聞社、2005年)

 孫子と言うと兵法というイメージがあるし、実際にそうした内容も含まれている。しかし、本書を読むことで、孫子は、戦争を一つの最終的な手段にすぎないものとして述べた書籍であることがよくわかる。

 [このような訳で百戦百勝しても、それは自国と自軍を損傷させるから、最上の方法ではない]敵と戦うことなくして、計略をもって敵の兵を屈服させることが最上の方法である。それゆえ、敵と戦うに際し取るべき最上の戦術は、敵のはかりごとを未然に挫折させることである。(63頁)

 この部分に関してはクラウゼビッツを彷彿とさせる。戦争とは、あくまで外交の手段であり、それに頼る時点で既に上策ではないことを私たちは強く意識するべきである。

 「形」を外的静的量的とすると「勢」は内的動的質的で両者は密接に関連しており、この二つが逆転したのが「形勢逆転」である。そして大体、「形が変わると勢もかわる」と見てよい。(91頁)

 形と勢とをここまで対比的に特徴づけて説明しているのは大変興味深い。とりわけ「形が変わると勢もかわる」という部分は面白い。組織論で言えば、組織デザインを変えることによって、組織行動が変わるというように解釈することも可能であろう。飛躍を恐れずに書けば、マインドセットを変えたり人間の行動を変えようと研修やトレーニングを導入するのは勢に関する議論であろう。それをワークショップと呼んでも同じだ。しかし、勢は形と結びついてはじめて変容を為せるものであり、仕事のデザインや組織のデザインといったものとセットでなければなにも変わらないのではないか。研修を受けたり、ワークショップに参加してやる気になっても、それが維持しないのは、形の変容が為されないからである。

 決断とは「形」を決定すること、それによって「勢」が生ずるのである。(103頁)

 したがって、組織を変える意思決定を行なう組織のトップは、それによって人々の行動の拠り所となる戦略を立てておく必要がある。不要な組織変更は、人々を不要に混乱と困惑させるだけである。

 「歴史の教訓」はあくまでも「教訓」であって、同じことが再現すると思ってはならないし、現状が半永久的に固定すると思ってもならない。そのため、常に正確な情報を獲得し、組織はあくまでも柔軟にし、運用は常に新しい情勢に対応したものでなくてはなるまい。そのすべての動き方は、『孫子』の言う「水の流れ」のように、自己を規制して来る外部の変化に対応していなければ、新しい危機に自ら落ち込むであろう。(116頁)

 もちろん歴史の重みが薄れるということを著者は述べているわけではないだろう。しかし、私たちが重視すべきなのは、状況の変化である。外的な状況の変化は形の変化であり、それに応じて勢を変えるべく内的な変化を自ら仕掛けていくこと。こうした内的なダイナミクスを通じて、自らを変容させることが私たちにとって必要不可欠なのではないだろうか。


2015年5月4日月曜日

【第439回】『ビジョナリー・ピープル』(ジェリー・ポラスら、宮本喜一訳、英治出版、2007年)

 「ビジョナリー・カンパニー」シリーズを著した著者たちが、論じる対象を組織から人へと変えた本作。

 著者が学んだのは、並はずれた人たちやチームそして組織というのは、たいていの場合、ごく普通の人たちが自分自身にとって大切だと思っていることが、結果的に並はずれているにすぎない、という事実だった。(12頁)

 勇気づけられる言葉であると共に、厳しい言葉でもある。誰もが並はずれた成果を出せるという意味では私たちをなにかに熱中させ、動機づけるものである。他方で、成果を出していくために絶え間ない、努力を注ぎ続けるという文脈では、厳しい言葉とも言えるのではないか。

 辺縁思考には、自分の内側で出番を待っている化学反応を触媒となって引き起こすだけの潜在的な力がある。つまり、われわれが共有している世界を、善の方向へと動かせる一連の情熱があるということだ。自分自身のそうした部分を称えよう。毎週少しだけ時間をやりくりし、仕事中、あるいは仕事のあと、なんらかの方法で持っている他の情熱を試してみることだ。(91頁)

 私たちはともすると、「本当にやりたい唯一のこと」を探そうとする。いま自分が行っていること以外のものはよく見えるものであり、そうした視点で現在の自分自身を眺めると物足りない思いがするものだ。しかし著者は、辺縁思考をもとにしながら、私たちには複数の情熱の源泉が存在するとする。さらに、そうした複数の情熱の元を自分自身で呼び覚ます行動を意識して持つことが、情熱と情熱の相乗効果を与える。

 多くの人たちは自己啓示を待っている。つまり、閃光に打たれる、あるいはロックコンサートの大音響から明解な答えを聞く瞬間を待っている。ことがこのように運ぶことはめったにない。現実には、何とも言えない日々、試行錯誤と苦難の日々が何年も続くのが普通だ。努力しても望ましい結果が得られない、しかし本物に少しずつ近づいている、しだいに熱が入ってくるのを感じる、そんな日々が続くのだ。これは表現しがたい点と点をつなぐような現象なのだ。(156頁)

 外的な変化であれ内的な変容であれ、劇的ななにかが起こるわけではない。手応えを必ずしも得られない一つひとつのステップが、少しずつ私たちの内部の変容を導くのである。そうしたプロセスにおいて、私たちの多様な情熱の源泉がお互いに影響を与え合うのである。

 自分にとってきわめて大切なテーマについての奥深い知識を結集させるとき、そこにカリスマ性が生まれる。自分の情熱を周りの人たちに伝えようという勇気がわきあがり、そして伝えることによって、周りの人たちはついてくる。(176頁)

 ここに私たちはリーダーシップの源泉を見出すことができる。情熱と情熱とが結びつき、予期し得ない化学反応が起きるとき、私たちはそれを他者に伝え、他者と共に協働しながら何かを為したくなる。これがリーダーシップの発露であると共に、フォロワーシップの誕生なのではないか。

 ビジョナリーな人たちは、逆境こそ仕事の実力を向上させるチャンスを与えてくれるものだと信じている。つまりそれは凡庸から非凡へと向かう道筋だ。そしてそれが、自分にとって本当に関心のあることが何かを確かめるチャンスにもなるのだ。(194頁)

 逆境こそがチャンスである。よく言われることでもあるが、それは苦しいものであることに違いはない。しかし、逆境の中においても、自分がやりたいと心から思えることや、自然とチャレンジしようと思えることが見つかるという意味でチャンスなのであろう。

『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)

2015年5月3日日曜日

【第438回】『論語の読み方』(山本七平、祥伝社、1995年)

 本書は、著者による論語の「入門書の入門書」(7頁)である。論語じたいの魅力は言うまでもなく、論語を解説される方々の解説もまた魅力的である。こうした解説されることで魅力が増すものが、古典と呼ばれるものなのかもしれない。

 小林秀雄は、「伝統とは放置しても継続するものでなく、こちらが何もせずともそこにあるものでもなく、過去の中から救い出して獲得しなければならないものである」という主旨のことを述べている。この観点で孔子を見ると、彼は一面では当時すでに古典であったものを救い出し、編集して『五経』とした編集者なのである。(45頁)

 論語の中における数ある言葉の中でも有名な温故知新。古典を紐解き、それを現在の文脈に置いて編集し直すこと。こうした作用が、私たちが健全に伝統を重視するということなのではないか。何かを墨守するのではなく、活用すること。

 孔子にとって「学」とはそのようなものでなく、「学は及ばざるが如くするも、なおこれを失わんことを恐る」(泰伯第八202)で安井息軒(幕末の儒者)はこれを「学は逃ぐる者を追うて及ぶ能わざるがごとくすべし」の意味としている。一心不乱に追いかけても、学ぶところを見失いがちのものなのである。(104頁)

 学びには終わりがない。学べば学ぶほど、次に学びたい対象が次々と生まれ、自分自身が過去に学んだものと新しい学びとが結びつく。結びつきが増えていくことによって精神作用がゆたかになる。しかし同時に、その過程において、目的地が遠くなるように思えたり、見えなくなったりすることもあり、学ぶことがたのしく思えないこともある。そうした苦しい状況において、自分自身を動機付けながらも砂を噛むように学び続けること。すると、新たな学びのたのしさに気づく瞬間がある。だから、学びとは、終わりがないプロセスであり、プロセス自体にゆたかさを感じることができるのではないだろうか。

 「喜怒哀楽未だ発せざる、これを中という」と。いわばこのような感情に動かされていない状態である。そしてこの状態にあることが前提で、そこではじめて「徳」に至ることができる。(150~151頁)

 中庸に関する解説である。私たちはともすると、中庸とは二つの極地の間を取ることというように捉えてしまう。著者はそうした考え方を否定した上で、極端な感情が発せず、何事にも同じない状態であることを中庸として捉える。そうした状態であればこそ、論語が説く「徳」へと至る可能性が生じるのである。

 何かが起こった場合、まず自分の責任を深く反省し、たとえ他人を責めることがあっても薄くすれば、怨まれることは少ない。(270頁)

 上達について著者が解説を試みた箇所である。当り前のことのように思えることこそが、長い時代を経ても色あせない至言なのではないだろうか。


2015年5月2日土曜日

【第437回】『ゆるすということ』(G・G・ジャンポルスキー、大内博訳、サンマーク出版、2000年)

 その本を読んだという事実が、自分自身のその後の行動を律することができる、ということが時にある。むろん、全てを制御して行動することは難しいが、その規律をもとにズレた行動を後から振り返ることができる書籍である。本書は、そうした書籍の一冊ではないだろうか。

 裁きの思いとは、自分自身に対する裁きであることがわかりました。空き缶を捨てた人をゆるすプロセスによって、私自身、過去の行動について引きずっていた感情から解放されたのです。
 その瞬間、ゆるしが癒しになるのだと、私はつくづく実感しました。ゆるすことで過去から解放され、いまこの瞬間を百パーセント生きる喜びを味わえるのです。(20頁)

 本書のエッセンスはここで引用した箇所に凝縮されていると言えよう。ゆるすという行為は、過去の他者を対象とした行為のように一見して思えるが、そうではなく、現在以降の自分自身のための行為である。反対に、過去における他者の行動をゆるさないと、現在以降の自分自身にとって不具合が生じる。たとえば、他者の行動を断罪しようとする気持ちを持つことによって、自分自身の今の自分に集中できなくなるということは、私たちの多くが日常的に経験していることだろう。自分自身のためにゆるすというと功利的な要素が強くなってしまうが、自他ともに健全な状態になるという観点で、ゆるすということを心がけたいものだ。

 そうは頭で分かっていても、他者の行動や自分自身の現状をゆるすということは、なかなかできるものではないと思うかもしれない。また、ある部分まではゆるせても全てをゆるすことはできない、と考えることもあるだろう。しかし、著者は、全てをゆるさなければ、ゆるしにはならないと断言する。その上で、何か行動を変えるということではなく、まずはマインドセットが肝要であるとして、以下の言葉を述べている。

 「ゆるそう」という心が、ゆるしへの鍵。(54頁)

 折に触れて思い出したい言葉である。