コミュニケーションを実際に「ブロック」しているものに各自が充分に注意を払い、適切な態度で、コミュニケートされている内容に参加すれば、何か新しいものを人々の間に創造できるかもしれない。(41頁)
ダイアローグとは日本語に訳せば対話であろう。対話について書かれた小論において、まず著者はコミュニケーションについて述べるところから始めている。その中において、何を話したり聴いたりするかということではなく、何に意識を当てるかという態度から述べているところに注目するべきであろう。つまり、意識を当てる焦点は、話し手である自分自身の態度であり意識である。具体的には、自分自身が何に対してオープンなコミュニケーションを取れていないか、を自覚することが重要なのである。
こうした自分自身のコミュニケーションに対する自覚を前提とした上で、類似した概念であるディスカッションとダイアローグとを以下のように定義している。
ディスカッションはピンポンのようなもので、人々は考えをあちこちに打っている状態だ。そしてこのゲームの目的は、勝つか、自分のために点を得ることである。(45頁)
ディスカッションにおいては、そこに参加する人々は対峙してお互いの意見を言い合う。そうした意見には、どちらが正しくてどちらが間違っているという価値判断が為される。自分自身の意見の正当性を主張するためにも、お互いの意見を守るために議論が展開される。
対話には、ともに参加するという以上の意味があり、人々は互いに戦うのではなく、「ともに」戦っている。つまり、誰もが勝者なのである。(46頁)
それに対して、対話ではお互いが対峙するということではなく、それぞれが同じ方向を向いて一つの場を形成しようとする。したがって、発現者が自身の意見に拘泥するというよりは、全体としてより良いものを一緒に創り上げていくプロセスに参画することになる。むろん、そうした対話自体への参加というだけに留まらず、その結果として生じる組織としての行動にコミットすることにも繋がるだろう。
私たちが自分自身の意見にこだわろうとするのはある面では自然な行動である。では、いかにしてそうした拘泥から逃れて、場に対して貢献するという意識に集中することができるのであろうか。
想定は必ず発生する。自分を怒らせるような想定を誰かから聞いた場合、あなたの自然な反応は、腹を立てるか興奮するか、またはもっと違った反撃をすることだろう。しかし、そうした行動を保留状態にすると考えてみよう。あなたは自分でも知らなかった想定に気づくかもしれない。逆の想定を示されたからこそ、自分にそうしたものがあったとわかったのだ。他にも想定があれば、明らかにしてかまわない。だが、どれも保留しておいてじっくりと観察し、どんな意味があるかを考えよう。
敵意であれ、他のどんな感情であれ、自分の反応に気づくことが必要だ。(69~70頁)
ある発言や状況に対して自分自身がどのような反応をするかを観察し、その結果として自分自身が無自覚に保有している想定を自覚すること。これが、他者の意見に対して反応せずに、ありのままのものとして保留するために必要であると著者は述べる。むろん、自分自身が保有する想定もまた変化するものであろうし、状況によっても変わるものだろう。したがって、自分自身の反応を内省することで、想定を自覚し続けることが私たちにとって大事なことなのである。
自分の好みに従って行動することが、自由である場合はめったにない。人が好むものは、考えた事物によって決定されるし、それは決まりきったパターンである場合が多いからだ。そのため、我々には新しい方法でグループを動かすための、創造性が必要である。(74頁)
好みに従って行動すれば良いと私たちは考えがちだ。しかし著者は、好みに基づいた言動とは自分自身の決まりきったパターンが現れているにすぎないとする。したがって、対話においては、自由にお互いが話すということではなく、創造性を発揮するためにも何らかのテーマを置いた方が良いという。
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