本書のエッセンスは、冒頭の「序」において、明瞭かつ簡潔に以下のように述べられる。
本当の読書は、単に表面的な知識で人を飾り立てるのではなく、内面から人を変え、思慮深さと賢明さとをもたらし、人間性に深みを与えるものである。そして何よりも、ゆっくり時間をかけさえすれば、読書は楽しい。私が伝えたいことは、これに尽きると言っていい。(9頁)
こうした読書の意義を考えれば、読む本を考える必要もあるだろう。表面的なものや、即物的なものを扱ったものでは、深みのある読書のしようもないだろう。と同時に、自分自身のペースで、自分の好きなものを読めば良いとも考えられる。
読書という行為は、読み終わった時点で終わりというのではない。ある意味で、読書は、読み終わったときにこそ本当に始まる。ページを捲りながら、自分なりに考え、感じたことを、これからの生活にどう生かしていくか。ーー読書という体験は、そこで初めて意味を持ってくるのである。(37頁)
深みをもたらしくれるからこそ、読書をしている最中だけではなく、その後の人生においても考えさせられるものである。さらに言えば、本を読んでいない時に、ふとしたタイミングで気づきや考えが進むものが、読書の醍醐味の一つではないか。
小説を読む理由は、単に教養のため、あるいは娯楽のためだけではない。人間が生きている間に経験できることは限られているし、極限的な状況を経験することは稀かもしれない。小説は、そうした私たちの人生に不意に侵入してくる一種の異物である。それをただ排除するに任せるか、磨き上げて、本物同様の一つの経験とするかは、読者の態度次第である。(142頁)
深みの一つには、自分自身が経験できないことであり、かつ共感できるものへの気づきを得られるということが挙げられるだろう。こうした小説を読むことの意義の一つは、私自身、藤村を読んだ際に実際に体験して、感動をおぼえたものである。(『破壊』(島崎藤村、青空文庫))
さらに、プロの小説家である著者による比喩のレクチャーがあるのもまた、うれしい。
「僕の毎日は、印刷したように同じだ。」
この一文から、人が想像するのは、具体的な内容は不明だが、多分、朝出勤して仕事をし、夕方帰宅して一日を終えるだけというような単調な生活である。「印刷したような」という比喩は、まったく同じだ、ということをイメージによって端的に説明する。しかし、こう続けばどうだろう?
「それでも、生活の実感は同じじゃない。たくさん刷り過ぎてインクが薄くなってきたように、近頃僕はその同じ繰り返しを、以前よりも希薄に感じ始めている。」
さらにこうだ。
「そうして不安に駆られて、自分の生活にもう一度目を凝らしてみると、思いがけない発見をすることもある。とはいえ、それだって、せいぜい誤植を見つけたくらいの興奮だが。」
比喩がキマッている、というのは、提出されたイメージ(ここでは「印刷」)が、喩えられるべき現実に重層的に対応しているときである。これは、必ずしも今のように明示的に展開されている必要はない。考えてみるとそうだ、でいいのである。逆に、上滑りしている比喩とは、イメージのほんの些細な一点だけがかすっていて、全体としてみればむしろ対応しない要素のほうが多いというケースだ。(203~204頁)
0 件のコメント:
コメントを投稿