2015年5月3日日曜日

【第438回】『論語の読み方』(山本七平、祥伝社、1995年)

 本書は、著者による論語の「入門書の入門書」(7頁)である。論語じたいの魅力は言うまでもなく、論語を解説される方々の解説もまた魅力的である。こうした解説されることで魅力が増すものが、古典と呼ばれるものなのかもしれない。

 小林秀雄は、「伝統とは放置しても継続するものでなく、こちらが何もせずともそこにあるものでもなく、過去の中から救い出して獲得しなければならないものである」という主旨のことを述べている。この観点で孔子を見ると、彼は一面では当時すでに古典であったものを救い出し、編集して『五経』とした編集者なのである。(45頁)

 論語の中における数ある言葉の中でも有名な温故知新。古典を紐解き、それを現在の文脈に置いて編集し直すこと。こうした作用が、私たちが健全に伝統を重視するということなのではないか。何かを墨守するのではなく、活用すること。

 孔子にとって「学」とはそのようなものでなく、「学は及ばざるが如くするも、なおこれを失わんことを恐る」(泰伯第八202)で安井息軒(幕末の儒者)はこれを「学は逃ぐる者を追うて及ぶ能わざるがごとくすべし」の意味としている。一心不乱に追いかけても、学ぶところを見失いがちのものなのである。(104頁)

 学びには終わりがない。学べば学ぶほど、次に学びたい対象が次々と生まれ、自分自身が過去に学んだものと新しい学びとが結びつく。結びつきが増えていくことによって精神作用がゆたかになる。しかし同時に、その過程において、目的地が遠くなるように思えたり、見えなくなったりすることもあり、学ぶことがたのしく思えないこともある。そうした苦しい状況において、自分自身を動機付けながらも砂を噛むように学び続けること。すると、新たな学びのたのしさに気づく瞬間がある。だから、学びとは、終わりがないプロセスであり、プロセス自体にゆたかさを感じることができるのではないだろうか。

 「喜怒哀楽未だ発せざる、これを中という」と。いわばこのような感情に動かされていない状態である。そしてこの状態にあることが前提で、そこではじめて「徳」に至ることができる。(150~151頁)

 中庸に関する解説である。私たちはともすると、中庸とは二つの極地の間を取ることというように捉えてしまう。著者はそうした考え方を否定した上で、極端な感情が発せず、何事にも同じない状態であることを中庸として捉える。そうした状態であればこそ、論語が説く「徳」へと至る可能性が生じるのである。

 何かが起こった場合、まず自分の責任を深く反省し、たとえ他人を責めることがあっても薄くすれば、怨まれることは少ない。(270頁)

 上達について著者が解説を試みた箇所である。当り前のことのように思えることこそが、長い時代を経ても色あせない至言なのではないだろうか。


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