孔孟と称され、孔子の儒教を引き継いだ最大の存在の一つである孟子。孟子は、論語とともに読みたい一冊なのではあるが、これまでは読んでもあまりピンとこなかった。本書はその入門書であるが、論語との関係性や、現代日本で使われる慣用句との繋がりの指摘が示唆的であり、興味深く読めた。
王の王たらざるは、為さざるなり。能わざるに非ざるなり、と。(梁恵王上・第7章)
私たちは何かがうまくいかないと、「できない」からであると思ってしまう。しかし、そうではなく、「やらない」のが問題であるとしている。これが、政治というマネジメントの文脈の中で述べられているところに着目したい。つまり、自分の力でなんとかできるなら容易いが、そうでない場合にうまくいかないケースにおいても、自分が為さないからであると考えられるかどうか、が大事なのではないか。
是れに由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有るは、猶其の四体有るがごとし。(公孫丑上・第6章)
こうして、仁・義・礼・智という四端の重要性が指摘されるとともに、四端は自ずと持っているものであるとする性善説が示唆されているところが重要であろう。
孟子曰く、人を愛して親しまれざれば、其の仁に反る。人を治めて治まらざれば、其の智に反る。人を礼して答えられざれば、其の敬に反る。行ないて得ざる者有れば、皆諸を己に半求す。其の身正しければ天下之に帰す。詩に云えらく、永く言いて命に配し、自ら多福を求む、と。(離婁上・第4章)
自らを省みることの重要性。自らの襟を正さなければ、自然の本性として持っている四端にまで、影響されるのである。
孟子曰く、原泉は混混として昼夜を舎めず、科に盈ちて後に進み、四海に放る。本有る者は是の如し。是れ之を取るのみ。(離婁下・第18章)
水というと老子の印象が強い。老荘と対比される孔孟というイメージがあるために、水について指摘しているこの箇所を読んで驚いた。しかし、孔子から時代を経た孟子において、老子や「老子的」な考え方が孟子に影響を与えたとも考えられるだろう。
中を執るは之に近しと為すも、中を執りて権無ければ、猶一を執るがごとし。一を執るを悪む所は、其の道を賊うが為なり。一を挙げて百を廃すればなり、と。(尽心上・第26章)
中庸を誤読すると、極端なものではなく、間を取ることばかりが重要であると考えがちだ。しかし、必ずしもそうではなく、真ん中を選択することも大事であるし、それに固執するのではなく、臨機応変に対応することこそが、私たちにとって大切なのである。
孟子曰く、心を養うは寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も、寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も、寡し、と。(尽心下・第35章)
欲について述べ、欲をあまり持たないことを勧めている。これが自身の心を修養する大事なヒントである。