2015年11月30日月曜日

【第522回】『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 孟子』(佐野大介、角川書店、2015年)

 孔孟と称され、孔子の儒教を引き継いだ最大の存在の一つである孟子。孟子は、論語とともに読みたい一冊なのではあるが、これまでは読んでもあまりピンとこなかった。本書はその入門書であるが、論語との関係性や、現代日本で使われる慣用句との繋がりの指摘が示唆的であり、興味深く読めた。

 王の王たらざるは、為さざるなり。能わざるに非ざるなり、と。(梁恵王上・第7章)

 私たちは何かがうまくいかないと、「できない」からであると思ってしまう。しかし、そうではなく、「やらない」のが問題であるとしている。これが、政治というマネジメントの文脈の中で述べられているところに着目したい。つまり、自分の力でなんとかできるなら容易いが、そうでない場合にうまくいかないケースにおいても、自分が為さないからであると考えられるかどうか、が大事なのではないか。

 是れに由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有るは、猶其の四体有るがごとし。(公孫丑上・第6章

 こうして、仁・義・礼・智という四端の重要性が指摘されるとともに、四端は自ずと持っているものであるとする性善説が示唆されているところが重要であろう。

 孟子曰く、人を愛して親しまれざれば、其の仁に反る。人を治めて治まらざれば、其の智に反る。人を礼して答えられざれば、其の敬に反る。行ないて得ざる者有れば、皆諸を己に半求す。其の身正しければ天下之に帰す。詩に云えらく、永く言いて命に配し、自ら多福を求む、と。(離婁上・第4章

 自らを省みることの重要性。自らの襟を正さなければ、自然の本性として持っている四端にまで、影響されるのである。

 孟子曰く、原泉は混混として昼夜を舎めず、科に盈ちて後に進み、四海に放る。本有る者は是の如し。是れ之を取るのみ。(離婁下・第18章

 水というと老子の印象が強い。老荘と対比される孔孟というイメージがあるために、水について指摘しているこの箇所を読んで驚いた。しかし、孔子から時代を経た孟子において、老子や「老子的」な考え方が孟子に影響を与えたとも考えられるだろう。

 中を執るは之に近しと為すも、中を執りて権無ければ、猶一を執るがごとし。一を執るを悪む所は、其の道を賊うが為なり。一を挙げて百を廃すればなり、と。(尽心上・第26章)

 中庸を誤読すると、極端なものではなく、間を取ることばかりが重要であると考えがちだ。しかし、必ずしもそうではなく、真ん中を選択することも大事であるし、それに固執するのではなく、臨機応変に対応することこそが、私たちにとって大切なのである。

 孟子曰く、心を養うは寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も、寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も、寡し、と。(尽心下・第35章)

 欲について述べ、欲をあまり持たないことを勧めている。これが自身の心を修養する大事なヒントである。


2015年11月29日日曜日

【第521回】『朱子学と陽明学』(小島毅、筑摩書房、2013年)

 儒教をもとに発展したと言われる朱子学と陽明学。それらの存在は、中学や高校の日本史で学ぶものであり、前者が江戸の幕藩体制を支え、後者が西郷隆盛や吉田松陰といった倒幕運動の主役たちに影響を与えたと大学で学ぶ。しかし、その内実に触れないままでいる方は多いだろうし、私もそうした一人である。本書では、朱子学と陽明学とについて、その思想史的な背景を概説する入門書である。

 同じ<格物>という語が違う意味内容に解釈される。その解釈上の相違が、朱子学と陽明学との差異を示している。性即理と心即理という標語の違いが重要なのではない。根本的には、<格物>をめぐる理解の仕方にこそ、両者の相違点がある。(99頁)

 <格>とは<至>である。<物>というのは、<事>と同様の意味である。(100頁)

 格物とは「大学」(『大学・中庸』)で取り上げられている概念として有名である。その、格物を巡る解釈の違いに、朱子学と陽明学との違いが端的に表れていると著者はしている。では、具体的にどのように捉え方が異なっているのであろうか。

 朱子学において、格物とは窮理の同義語であった。宇宙を貫く法則を理解し、それに従った生き方をすることで、人々を教導する立場に身を置くことができる。すなわち「新民」である。一方、陽明学においては、格物は「心を正す(正心)」ことと実質的に同じである。それだけではない。斉家や治国も、わが心のありかたによって実現しうるものとみなされる。朱子学のように順序をふまえ段階をおって最終目標の平天下に行き着くのではなく、各人が格物することそれ自体が、平天下の実現なのである。しかし、それは朱子学側から見れば途方もない現実遊離であった。陽明学が誕生したことによって朱子学は力を失ったわけではない。むしろ、陽明学への批判を通じて、社会秩序構想における朱子学の特質がより鮮明に浮き上がってくることになるのである。(109~110頁)

 外的なシステムによって道を実現しようとする朱子学と、内的な心的ありようによって道を実現しようとする陽明学。同じ道を目指す上で、入口とプロセスが異なることで、異なる考え方が生まれると考えるのは単純すぎるのかもしれないが、思想の違いとはそうしたものなのかもしれない。つまり、寛容な気持ちで視点を少し変えてみれば、異なる思想や宗教であっても、相互理解ができるきっかけがあるのではないか。


2015年11月28日土曜日

【第520回】『心の力』(姜尚中、集英社、2014年)

 漱石を解説する作品は、どれも興味深く読めるものであるが、やはり著者による解説はどこか心に触れるものがある。『悩む力』をはじめとした力作と比較して読み進めると興味深く、また漱石の『こころ』の続編という意欲に溢れた作品を織り交ぜることで読み応えがさらに増している。

 すべてを投げ打って自らを告白する先生と、その告白を受け取る「私」。その「私」が過去をふり返りながら、亡き先生の秘密を語る『こころ』は、先生から「私」への、死者から生者への、心の相続でもあります。いまを生きる「私」は、いわば、人生の謎に迫る「秘義」を先生から授かり、それをしっかりと受け継いで、次に語り継ぐため、先生について語り始めるのです。
 この意味で死んでいった人びとは、みんな先生と言えるかもしれません。私たちは、こうした「秘義伝授」を通じて心の実質を太くし、「心の力」を自覚できるのかもしれません。(9頁)

 死という概念を考える機会がまだ少ない身であっても、『こころ』における先生の死を「私」がどのように受け取ったのかという点には共感できる部分がある。そして、死に対する意味合いも考えさせられる箇所でもある。さらに、この部分において、本書を通底するテーマである「心の力」という概念が提示されているところに着目するべきであろう。では、心とは何か、という点に関する著者の説明を見ていこう。

 心をどう捉えるかについてはさまざまな考えがあるでしょうが、心は、自分が何者であり、自分がこれまでどんな人生を歩んできたのか、「そして、それから」どう生きようとするのかという、自分なりの自己理解と密接に結びついています。その意味で、心は、人生に意味を与える「物語」においてのみ、理解可能なのです。(18頁)

 心とは、単独でその実質を捉えられるものではなく、どのような文脈においてどのように語られるのかという関係性によって理解できるものである。したがって、多様な解釈が可能な中で、自分自身の主観によって選び取るということが心の本質と捉えることができるだろう。

 代替案を考えられない心は幅のない心であり、体力のない心だと思います。言い換えれば、心の豊かさとは、究極のところ複数の選択肢を考えられる柔軟性があるということなのです。現実はいま目の前にあるものだけではないとして、もう一つの現実を思い浮かべることのできる想像力のことなのです。(71頁)

 主観的に選び取るということは、一つのものを選び取りながらも、もう一つの他のものをも選び取れるという感覚を持つことをも意味する。著者は、そうした他の選択肢を考えられることが心の柔軟性であり、そうした有り様が健康的な心的状況を担保するものであると喝破する。

 私は、人間と人間の信頼関係というものは、「自分を投げ出す」「相手を受け入れる」というやりとりによって成り立つのではないかとつねづね考えてきました。先生と「私」の間に最後に交わされたものは、まさにそれであったと思います。漱石の表現で言えば、とても「真面目」な、真剣そのものの関係の構築であったと思います。(173頁)

 個人の内面における柔軟性と共に、人間どうしの間においては、ありのままの投げ出しと受け容れとによって信頼関係が成り立つ。これはなかなかできるものではない。だからこそ、師弟関係や夫婦関係というものは、人にとって大事であり生涯にわたって紡ぎ上げていく関係なのではないだろうか。

 「偉大なる平凡」にはもう一つだいじな要素があります。それは、人の意見をたくさん聞きながらも「染まらない」ということです。(146頁)

 最後に、なんとなく心が惹かれた部分を引用してみた。おそらく、私を含め、この世にいきる大多数の人々は「平凡」な人々である。『こころ』における「私」がそれに該当すると著者はした上で、そうした人々が生きていく上で、他者の意見を真摯に聞きながら、それに完全に迎合しないことの重要性を説く。つまり、相手を受け容れる姿勢を持ち、自分自身を投げ出しながらも、自身を売り渡すことまでは行なわず、しぶとく生きていくことが、現代には求められるのである。


2015年11月23日月曜日

【第519回】『母ーオモニー』(姜尚中、集英社、2010年)

 著者の文章を読むのは心地がよい。おそらく、誠実な想いで、飾らない言葉で、紡ぎ出された言葉からなる文章からではないだろうか。本書もまた、自身を扱った重たいテーマであるにも関わらず、肩肘張らない筆致によって、リラックスして噛み締めながら読むことができた。

 その悲しみに打ちひしがれながらも、わたしはどこかで、母(オモニ)という「運命」から解き放たれていくような安堵感も味わっていた。(20頁)

 母への愛情や、母を大事にする想いに終始する本書において、母の死の直後の感想を記したこの部分だけが異彩を放っているようにも感じられる。しかし、深い愛情によって母を送り出した後には、こうした開放感のような感覚をおぼえるものなのかもしれない。それは、薄情なのではなく、相手を大事にし尽くした後に感じる達成感のようなものなのではないだろうか。

 すべてが変わり、そして変っていないように思えた。フーッと深い息を吐き出すと、頭上はるか遠くで鳶の鳴く声が聞こえた気がした。(296頁)

 母の死後に、母のルーツである故郷を訪れた著者。気負わないタッチで、美しい描写が為されるので、著者の文章を読みたくなる。


2015年11月22日日曜日

【第518回】『すらすら読める論語』(加地伸行、講談社、2005年)

 論語は、それ自体を何度も読み返すだけではなく、その解説本も何冊となく読み漁ってしまう、私にとって稀有な書である。勿論、読んで感銘を受ける解説本もあれば、あまり響かないものも存在する。本書は、明確に前者に該当する解説本であり、編集のしかたが秀逸で、新たな気づきを読者に提示するしかけが為されている。論語じたいがそうした書でもあるのだが、読み手が直面している課題や心に留めているものを写す鏡として、自分にとって大切な存在を投影してくれる。そうした文脈において、今回、いたく気づかされた二点について、以下に取り上げてみたい。

 第一は、率直にフィードバックすることの重要性について。

 子曰く、巧言令色(言を巧みにし色を令くするは)、鮮なし仁。(学而篇一・三)(20頁)

 名言の多い学而編において、恥ずかしながら私は、この言葉にほとんど注目してこなかった。というのも、巧言令色という言葉のイメージとして、いわゆる「ヒラメ社員」のように、自分より上位職の人々に媚び諂う感じがして、自分とは遠い行為のように思えていたのである。しかし、著者は、引用の後の解説文で、「他人に対して人当たりよく」することは「実は自分のためというのが本心」であり、「他者を愛する気持ちは少ない」としている。つまり、他者のことを思って他者を傷つけないようにかつ自分が悪く思われないように言葉を選ぶことは、自分のためにする行為であって他者のためにする行為ではない。加えて、そうした言葉は、「仁」の気持ちには遥か遠く至らない精神から出される言葉にすぎないのである。都合の良い拡大解釈も含まれるのであろうが、今の私にとって、考えさせられる至言である。

 第二は、視野を広げ全体を理解すること。

 子曰く、君子は上達し、小人は下達す。(憲問篇一四・二三)(111頁)
 子曰く、君子は器ならず。(為政篇二・一二)(121頁)

 著者は、知識を持ち細かい領域に卓越して分析や批判ができる存在を知識人、見識を持ち全体を俯瞰して把握して実行する存在を教養人として解釈を加える。したがって、小人が前者に、君子が後者に該当することは自明であろう。 憲問篇一四・二三に鑑みれば、前者は物事の末端や部分について理解している存在で、後者は物事の根本や全体について理解している存在である、とも換言できるだろう。さらに、為政篇二・一二における「器」をこれまではよく理解していなかったが、著者はこれを「一技・一芸(器)」として捉えている。このように考えれば、器というものを必ずしも肯定的に解釈していないことがわかるだろう。同じ器でも、広く大きな器を持つこと、さらにはそうした器を多様に持つこと、が君子として重要な有り様なのではないだろうか。

2015年11月21日土曜日

【第517回】『儒教とは何か』(加地伸行、中央公論社、1990年)

 著者の「論語本」における解説に魅了されて、論語に改めて興味が湧いたとともに、著者が論語や儒教をどのように捉えているかを知りたく、本書を紐解いてみた。儒教とは、歴史的な視座に立っても、現代の地理的な拡がりという視座に立っても、中国をはじめとした東北アジア圏を理解する上で外すことのできない鍵概念である。むろん、日本社会を考える上でも同様である。

 最初に、論語を形成する文字である、漢字の特徴について、西洋におけるアルファベットとの対比から見てみよう。

 中国人の思考は、漢字ならびに漢字を使った文章によってなされる。とりわけ漢字が重要である。この漢字は本質的には表意文字である。その表意とは、物の写しのことである。物の写しであるから、まず先に物があり、それに似せた絵画的表現として漢字の字形が生れる。とすると、なによりもさきに、物体(自然的存在)があるということになり、物の世界が優先する。「はじめにことば(神)ありき」ではなくて、「はじめに物ありき」なのである。だから、形而上的世界よりも形而下的世界に中国人の関心が向かうようになる。こういう構造から、中国人はものごとに即して、事実を追って考えるという現実的発想になったのである。現実とは何か。それは物に囲まれた具体的な感覚の世界である。このため、感覚の世界こそ中国人にとって最も関心のある世界とならざるをえなかったのである。(14~15頁)

 アルファベットなどに典型的な表音文字に対する、表意文字としての漢字の特徴が端的に示されている。表音文字の代表であるアルファベットを用いるキリスト教圏の社会においては、まず神が存在し、神が創りたもうたイデアとしての抽象的観念の世界があり、それを言葉として表現するという形而上的世界観が存在する。その結果として、文字は抽象的な思考を表現するためのツールとして創り出されることになる。それに対して、現実世界を認識し、その事象を表現しようとする形而下的世界把握をする表意文字の社会においては、具体的に世界を把握するためのものとして文字が生み出される。儒教が現実主義的なテクストである点は、こうした表意文字としての漢字によって生み出されているということが強く影響しているのであろう。

 儒教とは何かーーその歴史を本書は、(一)発生期の原儒時代、(二)儒教理論の基礎づけをした儒教成立時代、(三)その基礎理論を発展させた経学時代に分けて述べてきた。要するに、儒教は礼教性(表層)と宗教性(深層)とから成り立っており、大きく言えば、(一)は、礼教性と宗教性との混淆時代、(二)は、両者の二重構造の成立時代、(三)は、両者の分裂とその進行との時代である。その礼教性は公的・社会的(ただし、家族外が中心)・知的性格を有し、知識人(読書人)・官僚(士大夫)を中心にして深化した。一方、宗教性は私的・社会的(ただし家族内が中心)・情的性格を有し、一般庶民を中心に受け継がれてきた。(220頁)

 現実をいかに生きるかを考え詰めれば、それは内面と外面という私たちの両面を丁寧に扱うことになる。したがって、これだけ長い歴史の中でかつ一定の広まりを持っている儒教に関しても、両面を扱う存在として、礼教的な内容と宗教的な内容とが混ざったものと言える。そうであるからこそ、儒教の中心的なテクストの一冊である論語は、読み返すたびに何らかの新たな示唆を私たちに提供してくれるのではないだろうか。


2015年11月16日月曜日

【第516回】『百代の過客』(ドナルド・キーン、金関寿夫訳、講談社、2011年)

 日本文化を論じる碩学が、数十に及ぶ日本文学における日記を読み解き、日本人の有り様を提示した本作。他者から秘したものでありながら、読者という存在を前提にし、客観的事実よりも自身の内面を重視して内省的に述べるというスタイルは、日本人の書く日記に特有の特徴であると喝破する。以下では、本書で取り上げられている数十の日記文学の中から、書名にもなっている『奥の細道』について取り上げる。

 なるほどこの日記といえども、全篇を通じて、いつまでも記憶に残るような、まぶしいばかりの名文の連続とは言いがたい。といって芭蕉が、そのような中だるみのない日記を書く能力がなかった、と考える理由もないのである。芸術的緊張度が最も高い章句の間に、いわば「息抜きの場」を意識的に与えるという、あの形式感覚に、彼も従っていたのにちがいない。(492頁)

 私たち一般人の感覚からすると、文章のきれいな作家の書く文章は、最初から最後まできれいであると思いがちだ。しかし、名文ではない「息抜き」のような文章を意識的に間に挟むことによって、作品の素晴らしさを上げるという芸術的な有り様が日本文学にはあるのだと著者はする。芭蕉が『奥の細道』を書き上げる際にも、そうした作用が施されているのである。

 芭蕉の作り話や事実からの乖離は、作品のさらに永続的な全体的真実感を、かえって高めている。彼は、印象主義的な意味においてのみ「事実」に基づくフィクションを書いたのだ。旅の間につけていた覚書や俳句の初稿が、「事実」にさらに近いこと、これは疑いを容れない。だが芭蕉にとって「事実」は、芸術となるにはやはり不十分だったのである。(494頁)

 「息抜き」の箇所を入れるのに加え、フィクションを入れることによってより真実感を高めるという技巧を芭蕉は凝らしていたと著者はする。そうした全体的真実感を持たせることで、『奥の細道』の芸術性を高めていたというのだから、そのパラドキシカルな発想に驚くしかない。

 月日はまことに「百代の過客」である。しかしそれもひとえに、この永遠の、だが天文学的には意味をなさぬ事実に人が心を向け、言葉の美によって、その深長な意味を保ち続けてきたからにほかならない。何百霜も隔てたその昔に書かれた日記が、今ここにある。文学という芸術への、これ以上に壮麗な捧げ物が、他になにかあるだろうか?(500頁)

 究極の称揚と言えるのではないだろうか。日本文学の古典を、改めて紐解きたくなる。


2015年11月15日日曜日

【第515回】『私訳 歎異抄』(五木寛之、東京書籍、2007年)

 親鸞を理解するためには、著者の本を読むのが手っ取り早いと思ってしまう。なにかを学ぶ上で素早くとか効率的にという観点はなるべく取り除きたいと思うが、こうした解説書から学ぶというアプローチもいいのではないだろうか。歎異抄そのものを読んだことはなかったが、いい入門の手引きであった。

 わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪をかかえた存在である。(中略)
 わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人びとこそ、仏にまっ先に救われなければならない対象であることがわかってくるだろう。(20~21頁)

 有名な悪人正機説を分かりやすく解説した部分である。悪人という言葉から私たちは、何らかの大きな罪を犯した人物を想像してしまう。しかし、食物連鎖の中において、私たちが他の生き物を殺して食するという行為を悪と捉えれば、悪を為さない人はあり得ない。このように考えれば、全ての人が悪人なのであり、私たちは悪を為すことによって生きているという謙虚な気持ちになれる。それと同時に、そうした自分の悪を自覚して、そこから救われるように念仏を唱えるというシンプルな発想に行きつくことができる。

 いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人びとは、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。(19頁)

 全ての人が悪を為すと考えれば、善人という存在はあり得ないことが分かるだろう。そうであるにも関わらず、自分は善人であると考えること自体に問題が内包されている。そうした人間は、自分自身を省みることがなく、自力で何でも解決できると考える。その結果、他者や他の存在に対するありがたみを感じることが疎かになってしまう。だからこそ、親鸞は、悪人を救うべき存在として提示し、善人を否定するような悪人正機説を唱えたのであろう。

 「薬があるからといって、なにもわざわざ毒を飲むことはない」(51頁)

 悪人正機を軽々に解釈して、悪を為すことを認めていると捉える誤解に対して、親鸞が述べたとされるたとえ話である。簡便な物言いの中に本質が現われている。


2015年11月14日土曜日

【第514回】『心』(姜尚中、集英社、2013年)

 著者と学生とのメールのやり取りという形式で展開される物語。お互いが、真摯に自分の心情と対話し、丁寧に文章に紡ぎ出されていて、読んでいて清々しい心持ちがする。

 与次郎がなんで死んだのかわからないと思いはじめたら、与次郎がなんで生まれてきたのかもわからなくなりました。となると、僕がこの世に生まれてきて、こうして生きている意味もわからなくなりました。(18~19頁)

 与次郎君はただ無意味な死を迎えたわけではない。無意味な死ではなかったのですから、彼の人生も無意味ではなかったのです。彼は、絶望的な状況の中でその都度彼にしかできないやり方で人生が彼に課した問いに答えようとしたのです。(27頁)

 親友の死に戸惑い、その意味を問い続ける中で、自分自身の生についても疑問を持つ学生。若い時分には一つのことを考え続けると、次から次へと問いが生まれてきて、自問自答によって自分を苦しめるということがよくあるだろう。それに対して、著者は、限られた人生の中に意味があったと断言をする。生きる意味について、何らかのシンプルなメッセージで表すのではなく、自分で課した自分への問いに答え続けるプロセスとして捉えているところが考えさせられる。

 世界との関係を断ってはいけないけれども、また、自分の殻にこもってはいけないけれども、だからといって孤独を恐れてはいけない、と。キャラや自分が何であるかは、そうした孤独であることの中から初めて自分なりに発見されるものですから。(66頁)

 自分とはなにかという問いに対する著者の返信である。他者との関係性や、表面的な特徴ということではなく、孤独の中で自分の内側と向き合うことによって自分自身を知ることができるとしている。まじめに自分自身に向き合うことで近代的な自我を見出すというように捉えれば、著者の『悩む力』でも述べられた印象的な点とも繋がっている。

 君がやったことは生にとって意味のないことではけっしてありません。そんなはずがありません。そうではなく、君は人が「生きた」という人生の証をはっきりさせるための“ピリオド”を打つ仕事をしたのです。君は人の魂の“看取り”をする仕事に取り組んだのですよ。君がそれをやったからこそ、君が見つけた遺骸は単なる物体でなくなったのです。単なる死者でなくなったのです。生き生きとした、輝くような過去を持った永遠の人になったのです。
 君の取り組みを見て、わたしは改めて死は生の中にくるまれて存在していることを実感しました。死と隣り合わせ、死と表裏一体でつながっているからこそ、生は輝き、意味のあるものになる。そのことを改めて感じました。
 死の中に生が含まれている。
 生の中に死がくるみこまれている。
 それは矛盾ではありません。それが人間というものの尊厳を形成しているのです。(167頁)

 3・11後に、津波で流された方々の遺骸を海中から探し出すボランティアを行なってきた学生は、変わり果てた遺体と遭遇して探し出したことへの恨みの言葉を吐く遺族と接してショックを受ける。死を受け容れることの意義を見出せずに悩む若者に、著者は、死と生とが表裏一体であるという考え方を提示する。さらに、生と死とが相互依存関係にあることによって、そこから人間としての尊厳が形成されるという考え方が、趣き深い。


2015年11月9日月曜日

【第513回】『オリエンタリズム 下』(エドワード・W・サイード、板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳、平凡社、1993年)

 上巻に続き、知が生み出す影響について考えさせられる。

 オリエンタリストとは書く人間であり、東洋人とは書かれる人間である。これこそオリエンタリストが東洋人に対して課した、いっそう暗黙裏の、いっそう強力な区別である。このことを認識することによって、我々はオルロイの発言を説明することが可能になる。東洋人に割り当てられた役割は消極性であり、オリエンタリストに割り当てられた役割とは、観察したり研究したりする能力である。ロラン・バルトが述べたように、神話(と、それを永遠化するものと)は、絶え間なく自己をつくりだしうるものである。東洋人は固定化された不動のもの、調査を必要とし、自己に関する知識する必要とする人間として提示される。いかなる弁証法も要求されず、いかなる弁証法も許されない。そこにあるのは情報源(東洋人)と知識源(オリエンタリスト)である。つまり、筆記者と、彼によってはじめて活性化される主題である。両者の関係は根本的に力の問題であり、それについては数多くのイメージが存在している。(244頁)

 書く側と書かれる側。主体と客体。それぞれの相補関係が、それぞれの存在を固定的なものにし、動的な弁証法の成立を許さない。知をいたずらに礼讃するのではなく、知がもたらす「不都合な真実」に目を向けることもまた、私たちには求められるのではないだろうか。

2015年11月8日日曜日

【第512回】『オリエンタリズム 上』(エドワード・W・サイード、板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳、平凡社、1993年)

 学部の頃から本書には興味関心を持って読んできたが、これまではなかなか馴染めなかった。今回、改めて読んでようやく、しっくりきた感じがする。まだ読解できない部分もあるが、学びに繋がったポイントをいくつか記していきたい。

 オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式なのである。(21頁)

 一つの概念としてオリエンタリズムを描き出そうとした著者。上記の端的な定義づけに、その内容が凝縮されている。

 バルフォアにとって、知識の意味するところは、文明をその起源から、盛時、衰退に至るまで概観することーーそして、もちろん、概観することが可能だ、ということである。そしてまた、知識とは、直接性を乗り越え、自我を超え出て、異質性、遠隔性の彼方にまで上昇することを意味している。こうした知識によって対象化されるところのものは、本来、調査=詮索にもてあそばれる脆弱性を帯びざるをえない。しかもここでの対象とは、たとい諸文明の変遷に見られるごとく、それ自体、発展・変化・変形をとげることがあるにせよ、それにもかかわらず基本的に、いや存在論的にさえも、不変の安定した「事実」そのものなのである。そのようなものについて先述のごとき知識をもつということは、それを支配すること、つまり、それに対して権威を及ぼすということにほかならない。ここでいう権威とは、「我々」が「それ」ーーオリエントの国ーーの自主性を否認するということを意味する。なぜなら、我々はそれを知っているとともに、またそれがある意味で、我々が知っているがごとくに、存在しているからである。(82~83頁)

 知識とは対象を客観的に把捉することを可能とし、そうして把捉できるものに対して、私たちはあたかもそれを支配しているかのような感覚を抱く。そうした認識は主体者の認識におけるパラダイムとなり、特定の知識によっては、あまねく対象を特定の内容にしか理解できないように、認識のフォーカスが狭められる。知識の可能性というよりも、その内在的な制約に焦点を当てたこの指摘は、心して受け止めたい部分である。

 クローマーとバルフォアの言葉は、東洋人をば、あたかも(法廷で)裁かれるような存在として、あたかも(カリキュラムに沿って)学習され、図画として描かれるような存在として、あたかも(学校や監獄で)訓練を施されるような存在として、またあたかも(動物図鑑において)図解されるような存在として描出するものであった。要するに、東洋人は、いずれの場合にも、支配を体現する枠組のなかに封じ込められ、またそのような枠組のもとで表象される存在なのである。(中略)
 オリエントは、まさしく、教室や刑事裁判所や監獄や図鑑というような枠組によって規定される存在として眺められた。つまりオリエンタリズムとは、オリエント的事物を、詮索、研究、判決、訓練、統治の対象として、教室、法廷、監獄、図鑑のなかに配置するようなオリエント知識のことなのである。(100~101頁)

 知識として同定されると、それは既存の体系の中に整理されることになる。こうして、主体者は知識によって客体を支配する構図ができあがる。subjectという単語が、主体と対象という意味合いを同時に持つことから、主体と対象とは相互依存的に成立するということがよく言われる。知識というレンズを用いて、客体を支配することで主体意識が生まれる構図は、ここでの著者の指摘を読めばよく分かるだろう。

 知とは本質的に素材を可視的にするものであり、一覧表の目的とは一種ベンサム式の一望監視施設を建設することであった。こうして学問的規律=訓練は特殊な能力の応用技術となる。それは、使用者(やその弟子たち)のために、(もしその使用者が歴史家であるならば)これまでは見失われていたもろもろの道具と知識とを獲得させるものなのであった。(295頁)

 可視化されることによって、その存在は、常に観察可能な対象として、主体から監視される対象となる。その様をベンサムのパノプティコンを用いて表していることが、私たちの理解をより進めていると言えよう。

 何かある現実についての知識が一杯つまっていることを謳い文句としつつ、いま私が述べたのと似たような状況から生み出されてきたテクストは、そう簡単なことではお払い箱にされることがない。これは専門的著作と呼ばれ、場合によっては、学者や研究機関や政府がそれにお墨付きを与えることもある。そのおかげで、そのテクストは、現実的成功が保証する以上に大きな威信を担うことになる。そしてもっとも重要なことは、こうしたテクストが、たんに知識だけではなく、そのテクストが叙述しているかに見える当の現実をさえも創造することが出来るという点である。やがて、こうした知識と現実とは、一種の伝統を、つまりミシェル・フーコーが言説と呼ぶところのものを生み出すことになる。(223~224頁)

 さらに、知識が権威ある主体によってテクストとして編纂されることで、知識それ自体に権威づけがなされる。ここまで進むと、知識により描き出させる現実によって、ある種の現実解釈が創造されるということになる。こうした新しい解釈構造が、フーコーの言う言説として呼び表されている。

 文化とはすべて、生のままの現実に矯正を加え、これを捉えどころのない対象から一定の知識へと変化させるものである。これは我々が忘れてはならぬ事実である。問題は、こうした変換が生じること自体にあるのではない。これまで扱ったことのない未知の物体の攻撃を受けたとき、人間精神がそれに抵抗するのは至極当然のことである。だからこそ、文化はつねに異文化に対して完全な変形を加え、それをあるがままの姿としてではなく、受け手にとってあるべき姿に変えてから受けとろうとしてきたのである。(157~158頁)

 生活や現実解釈の集合である文化もまた、知識の積み上げとして創造される。そうした文化の出自を認識することで、異「文化」理解という、本質的に異なる「文化」を支配する言説構造を自覚することができる。そうした態様こそが、異「文化」の受容に繋がるのではないだろうか。

2015年11月7日土曜日

【第511回】『ワーク・ルールズ!』(ラズロ・ボック、鬼澤忍・矢羽野薫訳、東洋経済新報社、2015年)

 Googleの人事トップが自社の人事施策を詳らかに記した本書。ビジネス書というものは、そこに書かれているものを鵜呑みにしてそのまま自社に適用しようとしても無理が生じる。元のものと元の状態で適用としてうまくいかずに「使えない」というのではなく、自社にとって適切なものを、いったん抽象化して具象化する。こうした謙虚な知的作用の繰り返しを行なうことが、他社の事例から学ぶということではないだろうか。

 示唆的な内容に富んだものであるが、ここではポイントを絞って書いていく。まずはマネジャーについて。

 問題は「最高の人材」の定義が人によって異なることだ。あるいは、あなたにとっての最低の人材が私にとっての最高の人材より優れている可能性もある。この場合、全員を昇進させるべきであると同時に、ひとりも昇進させるべきではないことになってしまう。組織全体が最も公正な状態になるよう求めるならーーそうなれば社員は会社をいっそう信頼するようになるし、報酬はいっそう有意義なものとなるーーマネジャーはこうした権力を手放し、いくつものグループを通じて結論が調整されるようにしなければならない。
 これらの昔ながらのアメとムチを使えないとしたら、マネジャーはどうすればいいのだろうか?残された道はひとつしかない。グーグルのエリック・シュミット会長の言葉を借りれば「マネジャーはチームに奉仕する」のだ。(Kindle No. 467)

 マネジャーは権力を徒に行使するべきではない。部下に対して上から指示を下すことも時には必要であろうが、チームが価値貢献できるようにチームに対してエネルギーを注ぐ
こと。自身のいる組織という個別具体的な状況を絶対視するのではなく、そうした状況を客観視し、チームとしてどのように対応するべきかを考える。これがマネジャーに求められる最も大切な役割の一つなのであろう。

 次に、採用について。

 この問題に対処すべく、私たちはそれぞれの求職者が受ける面接の回数を思い切って減らした。また、紹介してもらった人向けに最高のサービスを開発した、紹介してもらった人には48時間以内に電話をかけ、紹介してくれたグーグラーには求職者の状況に関する最新情報を毎週提供するのだ。(Kindle No. 2014)

 社員紹介制度に対する不満への対処方法である。極めてテクニカルな内容であり、一つひとつのアクションは難しいことではない。しかし、社員紹介制度を企画・運用したことがある方にとっては自明であろうが、これらを愚直にやり続けることは存外手間であり、完遂するには時間と労力が掛かる。そうだからといってできない理由にはならないだろう。なぜなら、グーグルのような数万人規模の大企業でかつ就職希望者が多い企業において、きめこまかな対応ができているのであるから、他の企業でできないことはないだろう。

 採用マシーンをつくるための第1段階は、あらゆる社員をリクルーターに変えるべく、人材の紹介を依頼することだ。しかし、友人をひいきするという誰もが持っている自然なバイアスを抑制するため、客観的な立場の人に採用を決めてもらう必要がある。組織が成長すると、第2段階として、最高のネットワークを持つ人々に優秀な人材の確保にもっと時間を割いてくれるよう頼む番だ。人によっては、それがフルタイムの仕事になるかもしれない。(Kindle No. 2136)

 採用は、Hiring Managerや人事のみが扱うイシューではない。全ての社員をリクルーターとして捉えるということは、採用をイベントではなく日常業務の一つとして捉える視座の変容を意味する。

 第三に、業績管理について見てみよう。

 多くの組織で実行されている業績管理は、規則にもとづく官僚的プロセスになっていて、実際に業績を改善するというより、管理自体が目的になってしまっているということだ。社員もマネジャーもそれを嫌っている。人事部門でさえ嫌っているのだ。(Kindle No. 3563)

 手段の目的化としての業績管理に意味はない。というよりも、多くの手段の目的化と同じように、むしろ害悪となりかねない。著者の痛烈な指摘に、公然と反論できる人事担当者がどれほどいるだろうか。

 多くの企業が業績評価を完全に放棄しつつあるのに、グーグルが評価システムにこだわるのはなぜか?
 それは公正さのためだと私は思う。
 業績評価はツールであり、マネジャーが給与や昇進について決定を下す過程を簡素化するデバイスだ。ひとりの社員として、私は構成に処遇されたい。(中略)業績評価がしっかりしていれば、社内の異動もしやすくする。(中略)数百人以上のメンバーがいるチームなら、社員は個々のマネジャーよりもしっかりしたシステムのほうが安心して信じられる。それは、必ずしもマネジャーが不当だったり偏見を持っていたりするからというわけではなく、キャリブレーションを含む業績評価の手続きによって、不当さや偏見が積極的に排除されるからなのだ。(Kindle No. 3852)

 日本の多くの企業では、業績管理システムは一つの主要な人事管理システムとして機能しているが、米国ではその潮流に変化が生じてきている。そうした中でグーグルがなぜ業績評価を続けているのか。著者は、その理由を端的に、マネジャーの恣意性を排除した客観的かつ簡素なプロセスによって給与や昇進を構成に行なうための手段であるからとしている。

 最後に、著者がグーグルで得られる経験の要諦について述べている印象的な箇所を引用して、本稿を終えることとする。

 本書の執筆に際して私が願っていることのひとつは、読者がみずからを創業者だと考えるようになってほしいということだ。会社全体の創業者ではないとしても、チーム、家族、文化の創始者なのだと。グーグルの経験から得られる基本的な教訓は、自分は創業者になりたいのか、それとも従業員になりたいのかを最初に選ばなければならないということだ。これは、文字どおりの所有権の問題ではない。態度の問題なのだ。(Kindle No. 783)

2015年11月3日火曜日

【第510回】『キャリアという言葉に抵抗を感じるあなたへ』(石山恒貴、ヒューマンバリュー、2015年)

 キャリアという言葉は、誤解して受け取られたり、否定的に捉えられたりしてしまうことがある。人事管理や組織行動論を専門にしているごく一部の人々を除けば、決して分かりやすい概念ではないからであろう。その結果、キャリアという言葉を嫌うことによって、自分自身のキャリアについて考えられなかったり、充分にキャリア開発を行なえなくなってしまうという皮肉な事象も生じているのではないか。著者は、そうした状況を憂慮し、大学、学校、企業、NPOといった様々な組織において、キャリアという概念を広げる活動を展開されている。本書も、本日現在、Kindleで無料でダウンロードできるなど、キャリアの伝道師として真摯に活動される姿には、頭が下がる想いである。

 本書は、タイトルにもある通り、キャリアという概念を否定的に捉えている方にこそ読んでいただきたい書籍である。そうした方々が気軽に手に取ってもらえるように、副題には「1時間で読める」という文言があり、実際に一時間前後で読み終えることができる。入門書として、また楽な気持ちでキャリアについて触れてみる書籍として、非常に適した一冊である。

 では、そもそもなぜキャリアという概念を私たちは考える必要があるのであろうか。いくつか理由はあるが、端的に、ビジネスを取り巻く環境要因が変化し、私たちの仕事じたいも変化する、という変化の時代を生きるために重要な考え方だからである。以下からは、変化という側面に焦点を当て、変化に対応するためのキャリア理論としてサビカスのキャリア・アダプタビリティーに関する議論に着目してみたい。サビカスが提示するConcern、Control、Curiosity、Confidenceという4つのCを重視することによって、キャリアの変化に適応できる力を高めることができる、と著者はしている。その結果として、働く個人は、「自分の人生を自分の視点で見つめ直せる」(Kindle No. 427)という効用を見出すことができる。

 自分自身のキャリアを自らの視点で見つめ「直せる」という表現が示すように、ここでのキャリアの捉え方は、静的なものではなく動的なものであることに留意する必要がある。変化の時代においては、キャリア意識そのものもまた、動的に変化し続けるものであり、視点によって異なる意味合いを有する柔軟な考え方が求められる。こうしたサビカスの理論に影響を与えたものが、フーコーの提唱する言説である(Kindle No. 443)という指摘は興味深いし、充分に首肯できるものであろう。

 このように考えれば、サビカスのキャリア適応をはじめとしたキャリア構築理論の体系は、私たちが抱く「さまざまな思い込みに対し、自分のキャリアを言葉で再構築し、自分を見つめ直すための理論」(Kindle No. 459)であると言える。私たちの多くは、安定を求めて変化を嫌う弱い存在なのではないだろうか。目標を宣言してその目標達成のためにカスケーディングした行動に邁進したり、固定的に自分のミッションやバリューを捉えることで、安心して生きていきたいと考えてしまう。むろん、目標を創り上げたり、理念や価値観を紡ぎ出すことが悪いわけではない。そうしたものを固定的に捉えて、自分自身の内なる可能性に目を向けなくなり、変化を否定的に捉えてしまうことが問題なのである。だからこそ、自身の考え方を相対化し、意味づけし続けるための一つのツールとして、私たちは、キャリア適応の考え方を意識するのが好ましいのではないだろうか。


2015年11月2日月曜日

【第509回】『濹東綺譚』(永井荷風、新潮社、1951年)

 途中まで書き進めてきた小説を書き上げようとする主人公の視点によって淡々と物語が展開される。分かりやすいクライマックスが訪れることもなく、粛然とした状態のままに物語は終わりを迎える。

 毎夜電車の乗降りのみならず、この里へ入込んでからも、夜店の賑う表通は言うまでもない。路地の小径も人の多い時には、前後左右に気を配って歩かなければならない。この心持は「失踪」の主人公種田順平が世をしのぶ境遇を描写するには必須の実験であろう。(41頁)

 小説家が小説家を描くという、屋上屋をかけるような書かれ方によって、不思議と静謐な印象を本作には感じる。ドラマチックな小説も良いが、静かな小説というものも良いものだ。

2015年11月1日日曜日

【第508回】『動的平衡』(福岡伸一、木楽舎、2009年)

 ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」という回答である。
 そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。
 サスティナブルであることを考えるとき、これは多くのことを示唆してくれる。サスティナブルなものは常に動いている。その動きは「流れ」、もしくは環境との大循環の輪の中にある。サスティナブルは流れながらも、環境との間に一定の平衡状態を保っている。(中略)
 サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって「進化」と呼べることに、私たちは気づくのだ。(232~233頁)

 動き続けることによって、自分という存在の身体や人格における安定を保つ。私たちの細胞が常に更新し続けて、少し前の身体的な自分と現在の自分とが全く異なるのであるから、動的に平衡を保つということは私たちの使命となる。見かけの上では、変っている様子が分からないためにイメージしづらいことを、著者は分かりやすく解説してくれている。

 人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」なのである。
 つまり過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。(中略)
 細胞の中身は、絶え間のない流転にさらされているわけだから、そこに記憶を物質的に保持しておくことは不可能である。それはこれまで見てきたとおりだ。ならば記憶はどこにあるのか。
 それはおそらく細胞の外側にある。正確にいえば、細胞と細胞とのあいだに。神経の細胞(ニューロン)はシナプスという連繋を作って互いに結合している。結合して神経回路を作っている。
 神経回路は、経験、条件づけ、学習、その他さまざまな刺激と応答の結果として形成される。回路のどこかに刺激が入ってくると、その回路に電気的・化学的な信号が伝わる。信号が繰り返し、回路を流れると、回路はその都度強化される。(36~37頁)

 記憶に関しても「動的平衡」はもちろん適用される。私のような、自然科学に疎い人間としては、記憶が頭の中のどこかに引き出しのように存在していて、それを探し出す作業を行っているように思ってしまうが、そうではない。細胞が入れ替わることを考えれば、新しい細胞同士を結合する作用こそが、記憶というメカニズムを解き明かす鍵となる。このような構造となっているからこそ、何かを記憶しようとするときに、私たちはそれを既存の知識と結びつけてエピソードとして関連づけることを行なうのである。

 自然界は渦巻きの意匠に溢れている。巻貝、蛇、蝶の口吻、植物のつる、水流、海潮、気流、台風の目。そして私たちが住むこの銀河系自体も大きな渦を形成している。
 私たちは人類の文化的遺産の多くに渦巻きの文様を見る。それは、人類史の中にあって、私たちの幾代もの祖先が渦巻きの意匠に不可思議さと興味、そして畏怖の念を持っていたからに違いない。
 渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。
 そのように考えるとき、私たちが線形性から非線形性に回帰し、「流れ」の中に回帰していく存在であることを自覚せずにはいられない。(251頁)

 私たちは、仕事においてもプライベートにおいても、過去からの連続で物事を考えたり、目標から落とし込んで計画を立てるなど、線形的な思考の慣れ過ぎているのではないか。しかし、自然界や伝統的な文化といった過去からの遺産に目を向けると、そこには非線形性の叡智が溢れている。