2015年11月29日日曜日

【第521回】『朱子学と陽明学』(小島毅、筑摩書房、2013年)

 儒教をもとに発展したと言われる朱子学と陽明学。それらの存在は、中学や高校の日本史で学ぶものであり、前者が江戸の幕藩体制を支え、後者が西郷隆盛や吉田松陰といった倒幕運動の主役たちに影響を与えたと大学で学ぶ。しかし、その内実に触れないままでいる方は多いだろうし、私もそうした一人である。本書では、朱子学と陽明学とについて、その思想史的な背景を概説する入門書である。

 同じ<格物>という語が違う意味内容に解釈される。その解釈上の相違が、朱子学と陽明学との差異を示している。性即理と心即理という標語の違いが重要なのではない。根本的には、<格物>をめぐる理解の仕方にこそ、両者の相違点がある。(99頁)

 <格>とは<至>である。<物>というのは、<事>と同様の意味である。(100頁)

 格物とは「大学」(『大学・中庸』)で取り上げられている概念として有名である。その、格物を巡る解釈の違いに、朱子学と陽明学との違いが端的に表れていると著者はしている。では、具体的にどのように捉え方が異なっているのであろうか。

 朱子学において、格物とは窮理の同義語であった。宇宙を貫く法則を理解し、それに従った生き方をすることで、人々を教導する立場に身を置くことができる。すなわち「新民」である。一方、陽明学においては、格物は「心を正す(正心)」ことと実質的に同じである。それだけではない。斉家や治国も、わが心のありかたによって実現しうるものとみなされる。朱子学のように順序をふまえ段階をおって最終目標の平天下に行き着くのではなく、各人が格物することそれ自体が、平天下の実現なのである。しかし、それは朱子学側から見れば途方もない現実遊離であった。陽明学が誕生したことによって朱子学は力を失ったわけではない。むしろ、陽明学への批判を通じて、社会秩序構想における朱子学の特質がより鮮明に浮き上がってくることになるのである。(109~110頁)

 外的なシステムによって道を実現しようとする朱子学と、内的な心的ありようによって道を実現しようとする陽明学。同じ道を目指す上で、入口とプロセスが異なることで、異なる考え方が生まれると考えるのは単純すぎるのかもしれないが、思想の違いとはそうしたものなのかもしれない。つまり、寛容な気持ちで視点を少し変えてみれば、異なる思想や宗教であっても、相互理解ができるきっかけがあるのではないか。


0 件のコメント:

コメントを投稿