2015年11月15日日曜日

【第515回】『私訳 歎異抄』(五木寛之、東京書籍、2007年)

 親鸞を理解するためには、著者の本を読むのが手っ取り早いと思ってしまう。なにかを学ぶ上で素早くとか効率的にという観点はなるべく取り除きたいと思うが、こうした解説書から学ぶというアプローチもいいのではないだろうか。歎異抄そのものを読んだことはなかったが、いい入門の手引きであった。

 わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪をかかえた存在である。(中略)
 わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人びとこそ、仏にまっ先に救われなければならない対象であることがわかってくるだろう。(20~21頁)

 有名な悪人正機説を分かりやすく解説した部分である。悪人という言葉から私たちは、何らかの大きな罪を犯した人物を想像してしまう。しかし、食物連鎖の中において、私たちが他の生き物を殺して食するという行為を悪と捉えれば、悪を為さない人はあり得ない。このように考えれば、全ての人が悪人なのであり、私たちは悪を為すことによって生きているという謙虚な気持ちになれる。それと同時に、そうした自分の悪を自覚して、そこから救われるように念仏を唱えるというシンプルな発想に行きつくことができる。

 いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人びとは、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。(19頁)

 全ての人が悪を為すと考えれば、善人という存在はあり得ないことが分かるだろう。そうであるにも関わらず、自分は善人であると考えること自体に問題が内包されている。そうした人間は、自分自身を省みることがなく、自力で何でも解決できると考える。その結果、他者や他の存在に対するありがたみを感じることが疎かになってしまう。だからこそ、親鸞は、悪人を救うべき存在として提示し、善人を否定するような悪人正機説を唱えたのであろう。

 「薬があるからといって、なにもわざわざ毒を飲むことはない」(51頁)

 悪人正機を軽々に解釈して、悪を為すことを認めていると捉える誤解に対して、親鸞が述べたとされるたとえ話である。簡便な物言いの中に本質が現われている。


0 件のコメント:

コメントを投稿