2015年11月9日月曜日

【第513回】『オリエンタリズム 下』(エドワード・W・サイード、板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳、平凡社、1993年)

 上巻に続き、知が生み出す影響について考えさせられる。

 オリエンタリストとは書く人間であり、東洋人とは書かれる人間である。これこそオリエンタリストが東洋人に対して課した、いっそう暗黙裏の、いっそう強力な区別である。このことを認識することによって、我々はオルロイの発言を説明することが可能になる。東洋人に割り当てられた役割は消極性であり、オリエンタリストに割り当てられた役割とは、観察したり研究したりする能力である。ロラン・バルトが述べたように、神話(と、それを永遠化するものと)は、絶え間なく自己をつくりだしうるものである。東洋人は固定化された不動のもの、調査を必要とし、自己に関する知識する必要とする人間として提示される。いかなる弁証法も要求されず、いかなる弁証法も許されない。そこにあるのは情報源(東洋人)と知識源(オリエンタリスト)である。つまり、筆記者と、彼によってはじめて活性化される主題である。両者の関係は根本的に力の問題であり、それについては数多くのイメージが存在している。(244頁)

 書く側と書かれる側。主体と客体。それぞれの相補関係が、それぞれの存在を固定的なものにし、動的な弁証法の成立を許さない。知をいたずらに礼讃するのではなく、知がもたらす「不都合な真実」に目を向けることもまた、私たちには求められるのではないだろうか。

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