漱石を解説する作品は、どれも興味深く読めるものであるが、やはり著者による解説はどこか心に触れるものがある。『悩む力』をはじめとした力作と比較して読み進めると興味深く、また漱石の『こころ』の続編という意欲に溢れた作品を織り交ぜることで読み応えがさらに増している。
すべてを投げ打って自らを告白する先生と、その告白を受け取る「私」。その「私」が過去をふり返りながら、亡き先生の秘密を語る『こころ』は、先生から「私」への、死者から生者への、心の相続でもあります。いまを生きる「私」は、いわば、人生の謎に迫る「秘義」を先生から授かり、それをしっかりと受け継いで、次に語り継ぐため、先生について語り始めるのです。
この意味で死んでいった人びとは、みんな先生と言えるかもしれません。私たちは、こうした「秘義伝授」を通じて心の実質を太くし、「心の力」を自覚できるのかもしれません。(9頁)
死という概念を考える機会がまだ少ない身であっても、『こころ』における先生の死を「私」がどのように受け取ったのかという点には共感できる部分がある。そして、死に対する意味合いも考えさせられる箇所でもある。さらに、この部分において、本書を通底するテーマである「心の力」という概念が提示されているところに着目するべきであろう。では、心とは何か、という点に関する著者の説明を見ていこう。
心をどう捉えるかについてはさまざまな考えがあるでしょうが、心は、自分が何者であり、自分がこれまでどんな人生を歩んできたのか、「そして、それから」どう生きようとするのかという、自分なりの自己理解と密接に結びついています。その意味で、心は、人生に意味を与える「物語」においてのみ、理解可能なのです。(18頁)
心とは、単独でその実質を捉えられるものではなく、どのような文脈においてどのように語られるのかという関係性によって理解できるものである。したがって、多様な解釈が可能な中で、自分自身の主観によって選び取るということが心の本質と捉えることができるだろう。
代替案を考えられない心は幅のない心であり、体力のない心だと思います。言い換えれば、心の豊かさとは、究極のところ複数の選択肢を考えられる柔軟性があるということなのです。現実はいま目の前にあるものだけではないとして、もう一つの現実を思い浮かべることのできる想像力のことなのです。(71頁)
主観的に選び取るということは、一つのものを選び取りながらも、もう一つの他のものをも選び取れるという感覚を持つことをも意味する。著者は、そうした他の選択肢を考えられることが心の柔軟性であり、そうした有り様が健康的な心的状況を担保するものであると喝破する。
私は、人間と人間の信頼関係というものは、「自分を投げ出す」「相手を受け入れる」というやりとりによって成り立つのではないかとつねづね考えてきました。先生と「私」の間に最後に交わされたものは、まさにそれであったと思います。漱石の表現で言えば、とても「真面目」な、真剣そのものの関係の構築であったと思います。(173頁)
個人の内面における柔軟性と共に、人間どうしの間においては、ありのままの投げ出しと受け容れとによって信頼関係が成り立つ。これはなかなかできるものではない。だからこそ、師弟関係や夫婦関係というものは、人にとって大事であり生涯にわたって紡ぎ上げていく関係なのではないだろうか。
「偉大なる平凡」にはもう一つだいじな要素があります。それは、人の意見をたくさん聞きながらも「染まらない」ということです。(146頁)
最後に、なんとなく心が惹かれた部分を引用してみた。おそらく、私を含め、この世にいきる大多数の人々は「平凡」な人々である。『こころ』における「私」がそれに該当すると著者はした上で、そうした人々が生きていく上で、他者の意見を真摯に聞きながら、それに完全に迎合しないことの重要性を説く。つまり、相手を受け容れる姿勢を持ち、自分自身を投げ出しながらも、自身を売り渡すことまでは行なわず、しぶとく生きていくことが、現代には求められるのである。
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