学部時代、生理学者であり、進化生物学者でもある生物地理学者の著者が著した本書を読んで、学際研究の素晴らしさに感銘を受けた。改めて紐解いてみて、研究する方の問いの立て方の鋭さに目が向いた。
なぜ、ヨーロッパ人は、遺伝的に不利な立場にあったにもかかわらず、そして(現代では)知的発育にダメージをあたえうる悪影響のもとで育っているにもかかわらず、より多くの「Cargo(積み荷)」を手にするようになったのか。私がヨーロッパ人よりもずっと優れた知性を持っていると信じるニューギニア人は、なぜ、いまでも原始的な技術で生活しているのだろうか。(38頁)
現地でのフィールドワークを続けてきた著者ならではの問いではないだろうか。ヨーロッパ人はヨーロッパ人の目線から、アメリカ人はアメリカ人の目線から、そして日本人は日本人の目線から、自分たちの文明・文化の優位性を論じがちだ。とりわけ、先進国と呼ばれる一部の国家の人々以外を対象にした際にそうした傾向は顕著になるだろう。意識的ではなく無意識の言説構造においてそうした態度が出てくるものである。
しかし、客観的に事実を積み上げていった上で、比較劣位にあるかもしくはほとんど変わらないヨーロッパ人がニューギニア人よりも優位と呼ばれる文明を持っているという事実に著者は驚く。その原因を探りだすのが本書の目的だ。だからこそ、「歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない」(45頁)という本書の要約は納得的である。こうした環境の際の一つが家畜である。
家畜化できている動物はどれも似たものだが、家畜化できていない動物は何もそれぞれに家畜化できないものである。(289頁)
トルストイを意識した美しい対比の文章において、家畜化に関する差異が文化にもたらした影響を表している。多大な考察を踏まえて、さらに踏み込んだ分析の結果として現れた病原菌というアクターに読者の対象は移る。上巻における段階での以下の結論部分に注目しながら、下巻へと興味を誘われる。
病原菌が人類史上で果たした役割について考慮しながら、本書のはじめでとりあげたヤリの問いかけに答えると、どうなるのだろうか。非ヨーロッパ人を征服したヨーロッパ人が、より優れた武器を持っていたことは事実である。より進歩した技術や、より発達した政治機構を持っていたことも間違いない。しかし、このことだけでは、少数のヨーロッパ人が、圧倒的な数の先住民が暮らしていた南北アメリカ大陸やその他の地域に進出していき、彼らにとってかわった事実は説明できない。そのような結果になったのは、ヨーロッパ人が、家畜との長い親交から免疫を持つようになった病原菌を、とんでもない贈り物として、進出地域の先住民に渡したからだったのである。(394~395頁)
【第293回】『仕事に効く教養としての「世界史」』(出口治明、祥伝社、2014年)
【第270回】『世界史(下)』(ウィリアム・H・マクニール、中央公論新社、2008年)
【第268回】『世界史(上)』(ウィリアム・H・マクニール、中央公論新社、2008年)
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