家康と三成について記し、またその周囲の人物とのエピソードを挟みながら、関ヶ原へといかに至るかを描き出している。戦闘は一日に満たないものであったのだから、その戦いを描こうとしたら、そこまでのプロセスに焦点が当てられるのは必定であろう。結果へと向かうプロセスの中に、結果の解答の多くは含まれているのである。
両大将を著者は均等に書いているのかもしれないが、私には家康に関する記述ばかりが印象的であった。戦乱の少ない長きに渡る平和な時代を、戦乱によってもたらした、徳川家康という人物はどのような人間だったのか。
家康は、元来、自分の疲労に対して用心ぶかい男だ。疲れれば物の考え方が消極的になり知恵もにぶる、ということをよく知っている。(169頁)
秀吉と比較して、家康の最も大きな利点は、健康な状態で長く生き、後継者を育てたということであろう。自分一代で終わるのではなく、永続する政権を作り上げるためには、後継者育成は必要不可欠であり、当時の状況を考えれば子孫へのバトンタッチの体制を作ることが肝となる。そのためには健康が第一であり、家康は、天下を取るということまでは思っていなかったのかもしれないが、少なくとも徳川家を永続させるために健康に留意をしていたのであろう。
家康は考えている。この器量人は、信長や秀吉のような電発的に才気がはたらくたちではなく、わかりきった問題でも熟慮をかさねてゆく。(123頁)
さらには、忍従の精神で取り組むべき問題に熟慮を重ねるという行動指針があったようだ。他の天下人と自身との差異を理解していたのか、元来の特性なのか。いずれにしろ、スピードが重視される戦乱の時代において、結果を導く速度を担保しながらプロセスにおいて熟慮を重ねたことが彼の特徴なのであろう。
家康は、目をつぶった。家康はもともと天才的な冴えをもった男ではない。自分の独断を信ずるより、一同の賢愚さまざまの意見をききながら自分の意見をまとめてゆくという思考法をとってきた男だ。幕僚たちは家康のそういう思考法を知りぬいているから、互いに大いに論じはじめた。(151頁)
家康は、熟慮を重ねる際に、他者に対してオープンに接し、広く多様な意見を聴いたという。家臣たちが「大いに論じはじめた」と書かれているのだから、形だけ他者の意見を聞いて自身に忖度した意見が出ることを求めるのではなく、率直に真摯に聴いたのであろう。最終的に意思決定を下すのは自身であり、決断した後は揺らいではならない。意思決定とその後の遂行に自身があるからこそ、他者の意見に対して開いた態度を取れるのかもしれない。
【第482回】『真田太平記(七)関ヶ原』(池波正太郎、新潮社、1987年)
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