2018年7月28日土曜日

【第858回】『伝わる・揺さぶる!文章を書く』(山田ズーニー、PHP研究所、2001年)


 新卒で入社した会社では、著者のブログや書籍が流行っていて、入社当時はバイブルのように読んだものである。対象の違いはあれども、教育を志すという共通の想いと、若手のビジネスパーソンとして大小の壁にぶつかる私たち読者が共感できる内容だったからであろう。

 年齢を重ねるにつれて、いつしか著者の文章から離れていたが、しばらくぶりに読んで心地よい感じがした。以前読んだときに印象的だったために線を引いている箇所とは違うところに感銘を受けることが多かった。この気づきもまた、興味深い。

 著者は、自分で考えて、自分で書くことを一貫して主張する。別に考えなくてもいいし、書かなくてもいいとも思えるのだが、その主張の背景には以下のような想いがある。

 それでも思考を前にすすめたとき、見えてくるのは、他のだれでもない「自分の意志」だ。
 さらに、自分の意志を書き表すことによって、人の心を動かし、望む状況を切り開いていけるとしたら、こんなに自由なことはない。(24頁)
 自分自身に納得し、その結果として他者に何かが伝わることを目的として、私たちは考え、書くことが求められる。考え、書くことを通じて、自由を手にすることができる、という箇所には、著者の想念のようなものを感じる。

 エゴから発した表現が人の心を動かすことはない。そういう気持ちにとらわれた時は、書くのをやめ、少し、根本思想が変わるのを待つ。根本に人や、社会に対して、温かい、ポジティブなものがわいたら、また書きはじめる。(105頁)

 考えて書いた結果として、書き手の根本思想が伝わる。それは良くも悪くもということなのであろう。邪な想いで真剣に書かれたものからは、曰く得体の知れない怨念のような気持ちの悪さが読者には伝わってくる。現実的な私たちの方針として、ポジティヴな明るい想いが出てくるまではアウトプットを控えるという指摘はありがたい。

 自分の想いを語れば、孤立する。自分の考えで行動すれば、打たれる。そのどこが自由なのか、と言う人がいるかもしれない。でもそれは、他ならぬ自分の内面を偽りなく表し、自分として人に関わっていけるということは、極めて自由なことだと私は思う。(中略)
 だからこそ、早いうちから、自分の意志を表現して打たれ、失敗を体の感覚にやきつけていかなくてはならない。表現力を磨き、成功体験を重ね、熟練して、自分の意志で人と関わっていけるようにしていくのだ。そういう自由を私は欲しい。そのための思考力・表現力の鍛錬なのだ。(219~220頁)

 表現することには多大な影響力があり、それは、ポジティヴにもネガティヴにも大きな作用をもたらす。だからこそ、努力して、アジャストできるように、表現力を練磨していくことが私たちには求められる。著者にとっては、そうした人たちをサポートすることが、表現力を鍛える根本思想なのではないだろうか。

【第10回】『「働きたくない」というあなたへ』(山田ズーニー、河出書房新社、2010年)

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