2018年7月8日日曜日

【第852回】『関ヶ原(上)』(司馬遼太郎、新潮社、1974年)


 関ヶ原の戦いといえば、徳川家康と石田三成である。家康の忍従に基づく行動原理は、『覇王の家』で著者が描き出した様そのままであり、その総決算としての天下取りに向けた行動は爽快である。他方の三成については、頭脳明晰で人当たりが悪いというそのままのイメージであり、堺屋太一さんの『巨いなる企て』あたりを思い浮かべながら、どう決戦へと構想していったのかに着目しながら読み進めたいものである。

 この両者がピックアップされるが、大きな伏線となるのは、秀吉の恩顧を受けて見出された家臣たちが、三成派と反三成派とに別れた経緯である。

 三成らが淀殿に昵懇してそこにいわばサロンをつくり、尾張派の北政所閥に対抗したのも自然の勢いであろう。(47頁)
 関ヶ原という史上空前の大事件は、事のおこりを割ってみれば、ふたりの女性のもとで自然と出来た閨閥のあらそいであったといえる。(49頁)

 著者は、両者が別れてグループ形成される際に、秀吉の正妻と側室が絡んでいると言う。北政所側が尾張出身の野戦型のメンバーで形作られたのに対し、淀殿側は近江をはじめとした文政型のメンバーで構成された。秀吉亡き後でいかに秀頼を盛り立てるか、という行動原理の差が両者を分かち、前者を家康が利用して取り込む形で、次第に三成と家康が前面に押し出された。

「そのようにうまくゆくものでございましょうか。」
「ゆくように積みかさねてゆく。ばくちは勝つためにうつ。勝つためには、智恵のかぎりをつくしていかさまを考えることだ。あらゆる細工をほどこし、最後に賽をなげるときにはわが思う目がかならず出る、というところまで行ってから、はじめてなげる。それが、わしのばくちだ」(430頁)

 謀臣である本多正信に対する家康の回答に、彼の勝負勘が端的に表れている。ここまでくると、いやらしさではなく凄みしか感じられない。


【第482回】『真田太平記(七)関ヶ原』(池波正太郎、新潮社、1987年)


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