論語を大胆に解釈し、物語として語られた作品。青龍社のものを今回は読んだのであるが、戦前に書かれたものを「名著発掘シリーズ」と銘打ってリバイバルした出版社の意欲にも敬意を表したい。
全編を通じて感じるのは、教師としての孔子のあり方である。多様な弟子とのやり取りでは、ハッとさせられる学びの中に人間味も感じさせられる。
「子貢、何よりも自分を忘れる工夫をすることじゃ。自分のことばかりにこだわっていては君子にはなれない。君子は徳を以ってすべての人の才能を生かしていくが、それは自分を忘れることができるからじゃ。才人は自分の才能を誇る。そしてその才能だけで生きようとする。むろんそれでひとかど世のなかのお役にはたつ。しかし自分を役だてるだけで人を役だてることができないから、それはあたかも器のようなものじゃ」(30頁)
孔門十哲の中で、実務家の匂いがする子貢にはどこか共感を覚える。その子貢に気づきを促そうとする孔子の言葉は厳しいものだが、同時に愛情にも溢れているように思える。自身がどのような人物であると師に評価されているかにばかり気を取られている子貢に対して、孔子は、自分自身へのこだわりを捨てよと述べる。
社会に対して貢献できているか、他者の役に立っているかという意識を持つことは自然なものであろう。そしてその前提として、自分自身がそれにふさわしい言動を取れているかにも意識は向かうものだ。そうした自然な意識の発露を代表しているかのような子貢に対して警句を述べることで、私たち読者が学べるものは大きくなる。
「お前は、自分で自分の欠点を並べたてて、自分の気休めにするつもりなのか。そんなことをする隙があったら、なぜもっと苦しんでみないのじゃ。お前は、本来自分にその力がないということを、弁解がましくいっているが、ほんとうに力があるかないかは、努力してみた上でなければわかるものではない。力のない者は中途で斃れる。斃れてはじめて力の足りなかったことが証明されるのじゃ。斃れもしないうちから、自分の力の足りないことを予定するのは、天に対する冒瀆じゃ。何が悪だといっても、まだためしてもみない自分の力を否定するほどの悪はない。それは生命そのものの否定を意味するからじゃ。」(62頁)
子貢と同じく孔門十哲に数えられる冉求への厳しい言葉である。私たちは自分を守るために、失敗する前に予防線を張りたがるものだ。そうして努力したのにうまくいかなかったという避けたい状況を防ぎ、かつ自身の現状をわかっているというメタ認知を誇ろうとすらしてしまう。
そうではなくて、孔子は、斃れてみろ、と冉求を諭す。斃れてみて初めて、自分自身の現状を知り、将来に向けた自身の内にある多様な可能性に気づけるのかもしれない。
【第693回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【4回目】
【第340回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)
【第642回】『すらすら読める論語【2回目】』(加地伸行、講談社、2011年)
【第207回】『孔子』(井上靖、新潮社、1995年)
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