『論語と算盤』で有名な日本近代産業の父とも言える著者が、実に八五歳の時に刊行したのが「論語講義」である。それを編訳者が現代語訳に訳し直したものが本書である。渋沢が、西郷・大久保・木戸といった明治維新の英傑を例にしながら論語を紐解いたものを現代語で読めるという贅沢な一冊である。
論語における主要な概念の一つは仁であるが、論語の中で仁は定義されていない。渋沢は講義の中でいくつかの解釈を記しており、編訳者はそれらをもとに「人のもともと持っている愛情を、他人や社会により広く押し広げていくこと」(30頁)とまとめている。
渋沢の講義は自身に引き付けて具体的に為されている。たとえば「四十にして惑わず」で有名な為政第二・四では、「わたしのように徳の薄い者は、そうはいかない」(47頁)として、不惑を過ぎても自制を自分自身に言い聞かせてきたようだ。
また、温故知新で有名な為政第二・十一の解説では以下のように若者に対してメッセージを送っている。
さて、世の中を見ると、新しい学問を追うと、古典や伝統を忘れて着実さを欠きがちになる。これに反して古典や伝統ばかりにこだわっていると、新しい学問に疎くなって、前例主義に流れ、偏屈になりやすいのが古今万人の通弊である。今日もっぱら欧米の新しい学問にのみ没頭して、東洋二千年の道徳学を忘れ去ってしまうのは、その弊害のもっともはなはだしいことだ。
若いみなさんは、この間の事情によく心をとめて、新しい学問を追っても古典や歴史を忘れないようにするのと同時に、古典や歴史を学んでも新しいものを取り入れる気持ちを失わず、古典や歴史から新しいものを学びとらなければならないと思う。(50~51頁)
述而第七・八では、詰め込み型の画一的な教育を否定し、また学ぶ側の主体性を強調して教師による過剰な介入をも否定する。こうした状況を踏まえて理想的な教師と弟子との関係について「ある一面だけを師がひな型として告げたら、それ以外の部分が弟子が自分で考えて、逆に質問しにくるに任せる」(138頁)と端的に述べる。
孔子の教育に対する思いは他の箇所にも現れており、渋沢の解説もまた奮っている。たとえば先進第十一・二十一で子路と冉有の異口同音の質問に異なる回答をした孔子に同意し、孔子の発言の背景について以下のように解説をしている。
教育の本当の意義とは、まったくこのようにあるべきだ。その才能の違いに応じて、ふさわしい教育を施すのが、最も意義ある理想的教育である。(187頁)
付和雷同を戒めた子路第十三・二十三での解説では、春秋時代の政治家である晏嬰が和と同を峻別した解説を渋沢は引用している。
「『和』というのは、煮物のようだ、水と火、酢と醤油、塩、梅を使って魚や肉を煮る。煮るには薪を使い、調理人が味を調える。物足りなければ味を加え、濃すぎれば薄めるといったよう味加減を決めて行く。立派な人間は、これを味わって豊かな気分になるのだ。
君主と臣下の関係もまったく同じこと。君主が認めた事柄でも、問題点があれば家臣はそれを指摘して払拭されるように取り計らう、逆に君主が却下したものでも、見どころがあれば家臣はそれを指摘して、一面的な見方を取り払う。この結果、政治は安定して衝突もなく、人々から争う心も消えるのだ。
一方、水に水を加えていっても、誰がその味を喜んで飲み食いするだろう。もし琴の弦がみな同じ音しかでなければ、誰が喜んでその音楽を聞くだろう。『同』に問題があるのは、まさしくこのようなのだ」(211~212頁)
【第57回】『渋沢栄一 Ⅰ算盤篇』『渋沢栄一 Ⅱ論語篇』(鹿島茂、文藝春秋、2011年)
【第340回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)
【第92回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)