ドラッカーの大著『マネジメント』と、孔子やその弟子たちによる言行録である『論語』。時空を超えた二つの書籍を読み比べるという斬新な試みを行う本書は、私の知り合いの複数の方々の推奨の声もあったので、以前から気になっていた書籍である。期待が大きいと裏切られるリスクもまた大きいものであるが、本書の場合は、良い意味で期待を裏切られた。
両者は、同じ問題、すなわち人間社会の根幹であるコミュニケーションの統御をいかに行い、それによって組織をいかに正しく運営するか、という問題についての、深い考察の書である、という結論に至った。(kindle ver. No. 21)
冒頭で著者は、二つの書籍の共通点を「人間社会の根幹であるコミュニケーションの統御をいかに行い、それによって組織をいかに正しく運営するか、という問題についての、深い考察の書である」とした。後段にある組織マネジメントに関する部分は、私たちの多くが想像している通りである一方、前段についてはいささか意外に思われる方もいるのではなかろうか。
私見によれば、ドラッカーのマネジメント論の要点は以下の三つである。
①自分の行為のすべてを注意深く観察せよ、
②人の伝えようとしていることを聞け、
③自分のあり方を改めよ。
自らの世界に生じているものごとの本質に触れたなら、世界の見え方は一変する。世界の見え方が変われば当然、そのなかにいる「自分」のあり方も改まる。この時まさしく、パッと目の前が大きく開けた感じになり、自然と涙があふれてくる。そこには「恐れ」はない。(kindle ver. No. 241)
まず『マネジメント』について著者は、上記のように端的に要諦を指摘する。管理職研修において、ManagementはPeople ManagementとTask Managementとに大別されるとよく言われる。しかし、Managementの大家であるドラッカーのマネジメント論の三つの要点は、人の管理や仕事の管理と聞いて私たちがイメージがするものとは印象が異なる。むしろ、自分自身を知ること、他者を知ること、自分と他者との関係性を知る、という深い人間観察と人間関係への思慮が挙げられていることに留意するべきであろう。
同じ趣旨のことが『論語』でも指摘されていることを、著者は以下の部分で述べている。
彼(引用者註:孔子)が着眼していたのは、儒教による人間の相互依存関係を前提とした倫理観である。
ご存知のように、儒教の倫理においては、君臣、父子、夫婦、長幼、兄弟、朋友というように人間関係を分類し、それぞれの関係において、それぞれにふさわしい振る舞いをすることが「誠実」とされる。これはつまり、関係が一方通行ではないということである。(kindle ver. No. 311)
『マネジメント』と『論語』が共通したポイントを取りあげていることをここまで見てきた。両者ともにもはや古典と呼ばれる存在である。著者は、特に『論語』に焦点を置きながら、古典を読む重要性について触れている。
古典というものに、絶対的に正しい解釈などというものはそもそもありえない。その価値は、読む者が、自らの問題を考え、乗り越えるための手がかりを与える、ということにある。
とはいえ、それは勝手に読めば良い、ということではない。それでは自分の思い込みを正当化する手段にしかならず、新しい発見の手がかりとして機能しないからである。できる限り古典の本来の姿に肉薄する、という姿勢がなければ、自分の思い込みを乗り越える手がかりとはならない。(kindle ver. No. 363)
含蓄に富んだ表現であると同時に、アンビバレントな物言いであることに着目するべきであろう。まず古典の価値の一つとして、自らの関心や視座に惹き付けて古典を自ら工夫して糧にするということが挙げられている。他方で、その古典が述べようとしている本質は何かを考え抜き、無手勝流の自己正当化に堕さないように誠実に解釈することもまた求められると指摘する。こうしたアンビバレントな試みを経て、古典から自分なりの知見を引き出すことができる可能性が出てくるのであろう。
「学び」だけでは、取り込んだ情報に振り回されるだけだ。その情報がいつしか、しっかりと身について生きた知識となるなら、これが「習う」だ。「学び」を完全に自分の一部にする。「復習をする喜び」などより、遥かに人間にとって普遍的な喜びではないだろうか。
かつて取り入れた古い「学んだこと」が鍛錬の末、新しい自分を育む。それを、親しい友人が遠くから思いがけなくたずねてくる喜びにたとえられているのではないか。つまり、古きをたずね、新しきを知る。「温故知新」である。(kindle ver. No. 429)
温故知新に関する著者の解釈である。学びを頭のレベルのみで留めるのでは、空理空論をかざすのみに留まってしまう。頭で理解したものをもとにして、自分自身で工夫を試みながら自身の経験や体験に結びつけてみること。それは自分自身の内に存在する多様な潜在的可能性の萌芽を見出すことである。時にそうした可能性の発見は、過去の自分の経験や体験を脅かす存在にもなり得るが、可能性の発見は現在や将来における喜びでもあろう。
孔子が生きたのが、中華世界史上初の大規模組織が生まれ、官僚組織の運営というまったく新しい問題に直面した時代だということは前にも触れた。この難題に対して、孔子が出した答えこそが「仁」、つまり、学習回路を開くことができる者たちによる統率である。(kindle ver. No. 447)
温故知新に求められる態度こそが仁であり、仁とはすなわち学習回路を開くことである。『論語』はともすると、保守主義のように旧弊を墨守し、制度に固執するというイメージを持たれる。しかし、自分自身の学習回路を他者に対しても自分に対しても開くことが重要視されているという指摘に私たちは刮目するべきであろう。
「仁」という『論語』とドラッカーに共通する概念が見えてくると、『マネジメント』の要求する経営者の資質とは何か、という問いかけの答えもおのずと見えてくる。
「學而時習之」にも「フィードバックを通じた学習」にも共通して必要なことは、成功も過ちもすべてひっくるめて自分の身の回りに起きた出来事すべてを成長の機会だととらえることだ。(kindle ver. No. 493)
学習回路を開くという『論語』における仁の要素は、『マネジメント』におけるフィードバックを通じた学習と相通ずるポイントであると著者は指摘する。さらに深掘りを行い、自分自身の周囲に対してオープンマインドで接し、柔軟に対応することの重要性を指摘している。
「苦手克服」は絶対にやってはならない、という指摘は、特に重要である。そんなことをすると惨めになって自尊心を損ない、自分を見失うからだ。自分を見失うことなく、試行錯誤を常に繰り返して成長をしていく。このような不断の努力を貫く姿勢を、我々はすでに見ている。そう、これが『論語』のいうところの「仁」であり、学習回路が開いた状態であることは前も述べた通りである。つまり、「己を知る」という行為も、やはりドラッカー思想の根幹をなす「フィードバックと学習」を進めていくということなのだ。(kindle ver. No. 812)
学習回路が開いた仁の状態とは、フィードバックと学習を進められる状態に通ずる。この考え方を踏まえて、ドラッカーが述べている弱点克服ではなく強みの強化という点にまで主張をすすめていっている。では「己を知る」とはどのように行うのか。
自分が自分のことを知らないことに気づく。
これがすべての大前提である。これに気づくことで「知」というフィードバックと学習の過程が始まる。その結果として以下の作動が起きる。
①真剣に自分を知る努力をする。
②他人のことを理解することができるようになる。
③その結果、自分を他人に理解してもらうことができる。
これを図式で表すと、こうなる。
己知己→己知人→人知己
これは『論語』の議論の構造と同じである。学習を重んじる両者が、深い洞察の上で同じく「己知己」という結論に至ったというのは、ある意味では自然の流れである。(kindle ver. No. 868)
他者から自分が全うに評価してもらえないと私たちは嘆くことがある。他者から評価されるためには、評価されたい他者がどのような評価軸を持っているのか、他者の人となりはどのようなものなのか、という他者を理解することが必要である。次に、他者をありのままに理解するためには、自分自身の視座を理解し、自分の有り様を理解することが必要だ。自分の有り様を理解していなければ、自分というレンズを通じて他者を理解することなどできないからである。したがって、まず自分自身を真剣に知ろうとすることが重要なのである。
新しく学んだものを習得したということは、“新しい自分”になったとも言える。つまり、「学習」とは自らを新しくつくり変えていく作業でもある。その新しくなった自分は、自らの関わるコミュニケーションのあり方に変化をもたらす。これこそが、ドラッカーが唱える「イノベーション」である。(kindle ver. No. 1122)
ここまでの著者の論旨を踏まえれば、学習というものが現在の自分を所与のものとしてそこに何かを付与するということでないことは自明であろう。つまり、学習によって自分自身を更新しつづけ、変り続ける自分と他者との接点についても更新し続けることが必要なのである。そうした自分自身の変化、それに伴う人間関係の変化が、ドラッカーの述べるイノベーションの本質なのである。
とどのつまり、『マネジメント』とは、「学習」に着目し、いかに「自由な社会」をつくるのかという道を模索した思想書であり、その本質において、同じく「学習」による社会秩序を求めた『論語』と一致している。(kindle ver. No. 1608)
個人という視点から学習の重要性を説くということは、それを組織の視点から捉えれば、組織における個人の学習をいかに促すかという視点が生じる。こうした、組織における個人の学習を促す作用がマネジメントなのである。
続いて著者は、現代における情報および知識との関係性についてテーマを移行させている。
データを情報に転換するには、たゆまぬ「学習」が必要不可欠であるということだ。データに「関連性と目的」を与える、という行為は、実はデータそのものと独立にできることではない。事前に想定した関連性・目的にこだわっていると、有効な意味を生成することはできない。データとの対話のなかで、それにふさわしい関連性・意味を見出し、その対話を通じて自分を新しくしていく。このプロセスに身を任せてこそ、データは「情報」たりうるのだ。(kindle ver. No. 1756)
データそのものは価値中立的なものであり、私たちにとって意味のあるものではない。そこに関連性と目的を与えようとして、自分たちとデータとの関係性を創り出そうとする営為を加えることによって、私たちにとって意味のある情報になる可能性が生まれる。
これからの組織にとって本当に大切なことは、情報をたれ流すことではない。いかにしてメディアを機能させ、コミュニケーションを生み出すかが重要である。(kindle ver. No. 1879)
データを情報へと変容させる努力を行う個々人が集まることで組織は形成される。では、組織としてはそうした情報の蓄積をどのように活用するのか。組織は、情報を発信するだけでは、その受け手にとって必ずしも意味があるものにはならない。そうではなく、情報の受発信が起こるようなメディアを設え、それによって組織内外でのコミュニケーションを発生させるしかけこそが肝要なのである。このように考えると、インターフェイスとしてのインターネットの可能性が見えてくるだろう。
インターネットで「外の世界の情報」を得る目的は「学習」である。だから、大切なのはいかに多くの情報を得るかでも、いかに多くの情報を流すかでもない。目的と関連性とを明確にしてコミュニケーションを創出することにある。そのような本来の目的を見失ってしまうと、情報に基礎を置く組織をつくることができない。(kindle ver. No. 1945)
こうしたメディアを考える上で、インターネットの持つ最大の可能性の一つが学習であると著者は喝破する。単に情報を蓄積したり開示することにインターネットの利用を限定するのではなく、それを通じて双方向のコミュニケーションが生じるように、換言すればオープンな学習が生じるようにすることが、情報を重視した組織づくりなのである。むろん、インターフェイスとしてのインターネットの可能性は大きいが、オフラインの領域でも多様なインターフェイスを設えることはできる。
孔子が主張したことは、社会の様々の場所に君子が出現し、自分の身の回りに秩序を形成することが、社会を秩序化する唯一の道だ、ということである。これはつまり、個々の主体が、社会に参画するなかで、秩序化された社会のサービスを受け取るばかりではなく、自分自身が社会を秩序化するサービスの提供者たるべきだ、という主張である。(中略)
では、何をすれば社会は秩序化されるのだろうか。それは本書をここまで読まれた読者であれば、もうおわかりであろう。学習回路を開くこと、これである。それが「仁」である。(kindle ver. No. 2468)
『論語』は君主について扱ったものと誤解されることがあるが、そうではなく君子について扱ったものであると著者は明確に断言する。組織において一人しか存在しない君主に対して、君子はあらゆる場所に複数現れるものである。そして君子とは、仁としての存在であり、学習回路を開いた状態を継続している人のことである。
孔子は、そういう隠者になることを拒絶する。そして、自分自身に向き合い、自分自身のコミュニケーションを統御する。遠くから友だちがたずねてくれることを楽しみにしつつ。自分自身を場として開き、仁を志す人々と、命がけでつながっていく。それが社会を秩序化するP2P型の倫理である。二一世紀を生き抜くためには、そうやっていくしかない。
それがドラッカーの教えであり、孔子の教えである。(kindle ver. No. 2482)
仁としての存在である君子がいたるところにいる理想の状態を創り出すことを考えれば、社会を悪しきものとして忌み嫌い隠者として生きる道が否定されることは自明だろう。隠者とは、閉じた状態の存在だからである。どのような社会や組織で生きている場合であっても、自分自身を開き、常に自己を更新しつづけて、他者との関係性も更新しつづけること。そうすることが苦境を招くこともあるだろうが、懸命に粛々と努力するプロセスじたいをたのしむことで、コミュニケーションがゆたかなものになるのであろう。そうしたプロセスの中でこそ、「朋あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや」(論語 巻第一 學而第一・一)という僥倖が時に訪れるのではなかろうか。
本書を読み、『論語』や『マネジメント』を改めて読んでみたくなった。