2014年10月13日月曜日

【第357回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【3回目】

 論語は、何度も紐解きたい書籍であると以前も書いた。しかし、ともすると再読というものは後回しにされるきらいがある。少なくとも、私にとってはそうである。今回、再読しようという想いに駆られたのは、安冨歩さんの『ドラッカーと論語』(『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年))を読んだのが直接的な原因である。改めて原典を当たろう。このように思ったのである。再読してみて、以前の論語に関する自分自身のエントリーを読み返してみると、感受した部分が異なっており、面白い。今回は以下の四点に絞って印象に残ったことを記していきたい。

 事に敏にして言に慎しみ、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。(巻第一・學而第一・一四)

 先日お会いした学恩ひとかたならぬ二人の恩師から言われたメッセージがいみじくも含まれており、驚いた。一人の師からは「事に敏にして」の部分、つまり、粛々と仕事に接することを説かれ、もう一人の師からは「言に慎しみ」について、すなわち言葉を大事にせよと仰られた。温故知新ではないが、現代の私たちの社会状況においても、事程左様に多様な解釈によって知見を見出せるテクストこそが、古典と呼ばれる存在なのであろう。

 文質彬彬として然る後に君子なり。(巻第三・ 雍也第六・一八)

 一方の極と他方の極とをいかに両立させるか。単純にバランスさせるのではなく、学習回路を開いた状態としての仁の状態であり続けるために、中庸を志す必要がある。あまねくビジネスパーソンにとって中庸は必要なのであろうが、とりわけ人事には中庸が求められるのではないかと感じる。経営と現場との板挟み状態をケアし、部門ごとのサイロ化を軽減する。こうした利益相反状況に対処せざるを得ない、また対処でき得るのは、中庸を発揮する人事としての醍醐味であろう。

 過ちて改めざる、是を過ちと謂う。(巻第八・衛霊公第十五・三〇)

 失敗することが過ちなのではない。失敗しても、それを改善しないことが過ちなのである。ここには二つの含意があるように私には思える。一つめは、失敗をした後のリフレクションの重要性である。松尾睦先生の『「経験学習」入門』(『「経験学習」入門』(松尾睦、ダイヤモンド社、2011年))によれば、実施中の振り返りが事後の振り返りの質を規定する。したがって、失敗を経験している最中にいかに意識を持って振り返ることができるかが、後における改善に繋がる。二点目は、失敗から学ぶためには失敗しうる環境を自ら創り出すことが重要だ。つまり、自分にとってチャレンジできる職務を与えられるように日々の職務に取り組んだり、日々の職務の中に工夫を創り込み続けることである。

 子張が曰わく、何をか四悪と謂う。子の曰わく、教えずして殺す、これを虐と謂う。戒めずして成るを視る、これを暴と謂う。令を慢くして期を致す、これを賊と謂う。猶しく人に与うるに出内の吝なる、これを有司と謂う。(巻第十・尭曰第二十・四)

 特に一つめの部分が印象的である。私の職務に惹き付けて考えれば、developmentの機会を与えずに、demotionを掛けたりjob changeを図ったりすることがあってはならない。そうした行為をしてしまえば、君子の状態ではいられなくなる。自分への今後の戒めとして心に留めておきたい。

『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)
『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【2回目】
『孔子伝』(白川静、中央公論新社、1991年)
『韓非子』(西野広祥+市川宏訳、徳間書店、2008年)

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