2014年10月3日金曜日

【第350回】『私本太平記(五)』(吉川英治、講談社、1990年)

 尊氏の天下を取るための深謀遠慮の計が徐々に明らかになる『私本太平記』の中盤である。

 他のどんな軍事上の提携よりも、高氏は、このクサビに他日のふくみを打ちこんでいた。ーー子を鎌倉の質子として去る親の立場から、その千寿王の生命を、義貞に保護させておくことにもなるし、また、
 (鎌倉攻めは、新田だけの催しでなく、足利の一子と一軍も、参加していた)
 となす、発言権をも、ここで将来のために、確保しておこうという考えがある。(153~154頁)

 自らは六波羅に向けて西上する一方で、同時に新田が鎌倉へ東上するように示し合わせ、北条幕府を滅亡させるという戦略。その見事さもさることながら、六波羅討伐への武勲のみならず、鎌倉討伐への武勲をも得ようという両面戦略、かつ新田との連携を強化する外交戦略も兼ね備えた卓越した大戦略である。

 世良田のみなみへ半里、利根川べりに行きあたる。
 そこの川岸の里は地名を徳川といい、新田家の一支族、徳川教氏の住地だった。ーーこの世良田徳川の子孫が、遠いのちに、江戸幕府の徳川将軍家となったのである。だから代々の徳川家は、祖先新田氏をおろそかにしなかった。(124頁)

 やや余談となるが、不勉強ながら、徳川家が新田家の子孫であるとは知らなかった。自分への備忘録として記載しておく。

 そのうえにも、後醍醐は、
 「わが諱(実名)の一字をとらす。……以後は、高氏をあらためて、尊氏となすがよい」
 といった。
 (中略)
 高氏は、感激した。彼には愚直な一面もある。かほどまでに自分を知ってくれるお人には何らの異心も抱けはしなかった。かつは、帝王でいながら今日までの迫害と艱苦に克ちとおしてきた後醍醐を、彼は、平等な人間としても、心から尊敬していた。勲位は、その傑出した人からみとめられたということで、いちばい、うれしかったようだった。(349~350頁)

 あまりに深謀遠慮で人間性が見えづらい尊氏ではあるが、感動しやすい性質もまた内奥にはあるのであろう。違う側面から捉えれば、自分という人間をよく理解してくれることに感動するというのは、多くの人間に共通することなのかもしれない。他者のつぼを抑えるという点から鑑みれば、後醍醐もまた、リーダーの素養ゆたかな人物であったのであろう。



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