NHK・Eテレの「100分 de 名著」で般若心経の解説を担当されている著者の言動を見て、興味を持っていた。まずは、本書を著した著者の想いについて見てみよう。
この本の目的は、釈迦という人物の素晴らしさを広く知ってもらうこと、そしてその釈迦が説いた「生き死に」の方法を、読者のみなさん自身で深く静かに考えてもらうことにある。(13頁)
では、どのように生きよと仏教は述べているのか。
間違うこともある、失敗することもある。だが、間違ったら直せばよいし、失敗したらやり直せばよい。ともかく、日々の努力なくしては何も始まらない。そうやって日々、迷いながら正しい方向を求めて努力していく。そこに仏教が目指す生き方がある。(18頁)
何を成し遂げるかという結果ではなく、日々の努力というプロセスが重要だとしている。日々の地道な努力が、翻って長期的な視点に立った時に成果に繋がることもある。
人の偉さは、一事の華々しさではなく、日々の誠実さを一つずつ積み上げていく、その確固とした道程に現れるのである。(84頁)
では、日々、一歩一歩進むためのプロセスとは何か。釈迦が述べる結論はシンプルだ。
自分にとって気持ちがいいから信じるのである。自己満足の欲求が合理性を押しつぶす。このような、自分本位の妄念に基づく根源的な愚かさを、仏教では無明と言う。「無明を捨てて、合理的に世界を見よ」と釈迦は言い、そのための方法を示してくれた。それが、修行による智慧の獲得である。(54頁)
日々の努力という文脈において、修行という概念が生じてくる。さらに、そうした修行そのものは自分にとって気持ちがいいものであるとまで著者はしている。日々の努力とその果てにある成し遂げられるものがある。こうした釈迦における時間観とは何か。
時間という特別なものがあって、それに沿って物事が進むと考えるのではない。そうではなくて、すべてが生まれては消えていく、その「諸行無常」の世界を、私たちが「時間」としてとらえているだけなのである。そして、その「生まれては消えるすべてのもの」を仏教語では有為と呼ぶ。「いろは歌」にある「うゐ」のことだ。仏教が目指すのは、「有為の奥山」を超えたところにある、もはや時の流れに翻弄されることのない平安の境地なのである。(168頁)
西洋的な有限な存在としての時間を超越したものが、仏教における時間観であり、それを有為と呼んでいる。最後に、修行の結果としていたる真理に関して、理科系であった著者ならではの数学との関連性が面白いので引用して終りたい。
私たちはなぜ数学を学ぶのか。今になってようやくその答えが分かってきたように思う。計算力が日常生活で役に立つとか、論理的な思考力を養えるとか、そんなことはどうでもいい。大切なのは、最初から目の前にあるのに、自分の心が迷っているせいで気づかずに見過ごしていた真理に、ある瞬間ハッと気がつく、その体験である。数学を学ぶことの意味は、集中した精神を使って自分で真理を発見し、その喜びを全身で感じるところにある。そして、そういう自力で見つけた真理こそが、自分にとっての本当の真理となるのである。(40頁)
『老荘と仏教』(森三樹三郎、講談社、2003年)
『中国思想を考える 未来を開く伝統』(金谷治、中央公論社、1993年)
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