2014年10月6日月曜日

【第354回】『私本太平記(八)』(吉川英治、講談社、1990年)

 最終巻の冒頭では、物語の最後を飾るにふさわしい、異なる二人の間の関係性が描き出される。

 正成は思う。敵はわざと自分らに時を仮して、いかに死ぬかの、自滅を見物せんとしているのだろう。ーーきょうの合戦では、たえず尊氏の胸に、正成が在ったように、正成の胸にも、尊氏が在った。(39頁)

 湊川での勝敗の帰趨が決まり、死地を探す正成。その正成を尊重して、尊氏は深追いをしない。敵同士である両者が、両者を思いながら戦う様は、どこか美しく、どこかものかなしい。

 尊氏はといえば、彼もまた、むかしと変る容子はない。勝者が敗者に臨むといったようなおもむきはすこしも出さず、台座から一だん低いところに平伏して、俄にはことばもなかった。ーー後醍醐もものいわず、彼もいわず、ふたりは、ふたりの感慨の中にしばらくはそれそのままな態だった。(116頁)

 敗軍に担がれた後醍醐と、勝者の将として会見に臨む尊氏。敵味方に分かれても、変らないお互いへの感情が、ここにもある。

 ある大事なものが、人間社会からいつか失くなっていた。それは曲りなりにもまだ護持しあっていた道徳というものだが、一たんこれを無視し出して、無視する方が、世の勝利者だとなって来れば、いたるところでこの約束の破棄は始まッてくる。悪が悪でなくなり勝利者だけがいくらでもあとから自己を正当づけ得る。(281頁)

 湊川までが、太平記の猛々しい中にも人間の美しさが垣間みれる物語なのだろう。それ以降は、勝者と敗者の苛烈なやり取りであり、仲間・兄弟・親子の間における醜い争いが頻発する。そこに、人間社会に対する歴史の警句が込められているともいえようが、あまりに読んでいて心地の悪い物語へと変る。そうした物語の最後に、著者は、覚一法師という尊氏の従兄弟にあたり、物語でも随所に現れる法師と、他者との問答を取りあげている。尊氏に対して好意的である覚一法師にして、辛辣に語らせる武士という存在に対する表現を、私たちは心して読みたい一節だ。

 なべて人に役立つものは亡びない。けれどどんな英傑の夢も武力の業はあとかたもなくなる。ですから、もののふとは、あわれなのです。とくに尊氏さまの御一生などは、無残極まるものでしかない(376頁)



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