2014年10月25日土曜日

【第363回】『豊臣秀長(上)』(堺屋太一、文藝春秋、1993年)

 私が、「この人」に関心を持つようになったのは、むしろ、この「語られなさ」のためだったように思う。史料と史家に等しくその才能と功績を認められながら、語られることのきわめて少なかった人物、ということが、とかく喧しい自己宣伝の多い現代社会の中でひどく特異に思えたのだ。(3~4頁)

 豊臣秀長という存在自体は知っていた。しかし、その伝記はもちろんのこと、秀吉関連の書物でも何らかのエピソードを読んだ記憶はない。他方で、ここで引用しているように、秀吉の天下統一において唯一無二の働きをしている。なぜ、そうした人物がこれまで書かれることがなかったのか。著者の着眼点は鋭く、また唸らさせられる。

 「確かに俺は嘘が多い。しかし、生れも賎しく力もない俺が出世して行くためにはそうもせにゃならんのじゃ。俺はこうなると先に決めてから励む、これはこうするというてからやってみせる、まずは自分を追い込んでしもうてから、生きるためにあがく。それでのうては、這い上ることはできんのじゃ。分ってくれや、小竹……」
 (中略)
 「汝に頼みたいのはそこじゃ。俺は、とにかく、前に走る。上を見ながらひたすらに走る。なればこそ、汝にあとはしっかりと支えてもらいたいんじゃ」(68頁)

 生家での農業を営む秀長(幼名は小竹)に対して、秀吉が武士になるよう訴えかけるシーンである。まず、秀吉が凄いと感じるのは、なり上がるための自身の役割を理解している点と、それを補佐する役割が必要でありかつ肉親にしか頼めないことを悟っている点である。次に、秀長が凄いと思うのは、そうした補佐役という役回りを基本的に受け入れながらも、客観的な条件をつけて秀吉に提示した点である。この、理解力と冷静さとが補佐役に求められる素養なのであろう。

 では、具体的に、秀長は補佐役として何を為したのか。特徴的であるとともに、企業においても参考になりそうであると感じたのは以下の三つのエピソードである。

 なかでも小一郎が精を出したのは、喧嘩・もめ事の仲裁だった。双方から念を入れて事情を聞いたし、当事者以外の証言も求めた。悪い者には雑役を命じたり厳しい教練をさせたりする一方、悪くない者には酒などを飲ませた。苦情処理ともめ事の仲裁は、生涯「この人」の最も得意とした所である。(81頁)

 現代では、人事の役割と置き換えてもいいのではないか、と思えてしまう至言である。心に留めておきたい考え方である。尚、小一郎とは、武士になる上で自身の幼名を変えたものであり、秀長のことを指す。

 その日の夜、兄は小一郎を長屋に訪ねて来て、
 「小一郎、よう辛抱してくれた……」
 と、礼をいった。
 「なんの、俺は兄者の弟じゃからなあ……」
 小一郎は笑ってそう答えた。
 「そうよ。お前にその分別があればこそ、わが家は安泰じゃ……」
 兄は、ただそれだけをいった。いつもに似ず兄は寡黙だったが、千言万語にも尽せぬ意思の疎通があった、と「この人」は感じた。(208頁)

 竹中半兵衛を三顧の礼で迎え入れ、彼の面前で、秀吉の弟として対等にではなく、臣下として謙った挨拶をした秀長の分別に秀吉が感謝を伝えるシーンである。分別を持ってことに対応できる秀長の人間性の素晴らしさとともに、それを理解してくれる秀吉という存在のすごさもまた、しみじみと伝わってくる場面である。

 毎日を足利義昭やその側近たちとの面倒臭い交渉に費やし、不慣れな文書の点検や慣例調査に努めなければならなかった秀吉にとって、「この人」が部下の将兵をよく把握し、その規律と士気を保ってくれたことは、大変有難かった。もし、木下組の将兵の中から婦女暴行や金品掠奪の罪を犯すものが出たとしたら、義昭らはこれ幸いと信長に訴え、この下賎の出の奉行を罷免するよう要求したに違いない。そうなれば、信長とて拒み難かったことだろう。(278頁)

 補佐役とは、単に上の者の指示を忖度するだけではない。自分自身の考えを持って、上の者が行うであろうことを代わりに、かつ場合によってはその者よりも優れた行動として行うことである。その上で、自分自身の評判ではなく、上の者の評判になるように節度を保つことである。

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