2014年12月29日月曜日

【第396回】『三国志(五)』(吉川英治、講談社、1989年)

 いわゆる赤壁の戦いへと至る過程と、その会戦の様子が丹念に描かれる本作。世紀の大戦の描写もさることながら、さらに円熟味を増すした劉備の人間性の描写もまた、読み応えがある。

「思うに、趙雲のごとき股肱の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい。……それにここは戦場である。凡児の泣き声はなおさら凡父の気を弱めていかん。故にほうり捨てたまでのことだ。諸将よ、わしの心を怪しんでくれるな」(49~50頁)

 敗戦の最中に家族とも散り散りになった劉備。その幼子を必死の思いで探し出して連れ帰ってきた趙雲を前にして、劉備は我が子を放り投げる。驚く周囲の家臣たちを前にして、劉備はこの台詞を吐いた。身震いするほど、感動する言葉を心の底から偽りなく言い切れるところが、劉備のリーダーシップの有り様であろう。彼の臣下たちは、命を投げ打ってでも劉備のために尽くそうとするだろう。

「末梢を論じ、枝葉をあげつらい、章句に拘泥して日を暮すは、世の腐れ儒者の所為。何で国を興し、民を安んずる大策を知ろう。漢の天子を創始した張良、陳平の輩といえども、かつて経典にくわしかったということは聞かぬ。不肖孔明もまた、区々たる筆硯のあいだ、白を論じ黒を評し、無用の翰墨と貴重の日を費やすようなことは、その任でない」(81頁)

 劉備が三顧の礼で迎え入れた孔明の言である。世から離れた場での生活を良しとせず、世に出て智恵を振るうことの意義を強弁するこの情景は、躍動感に溢れている。いたずらに知識や言説に耽溺して現場から遠い場所から批評をすることに意味はない。現場に生き、社会で貢献し続けたいものだ。



2014年12月28日日曜日

【第395回】『三国志(四)』(吉川英治、講談社、1989年)

 苦境に継ぐ苦境の連続で、曹操はおろか、孫権にも大きく遅れを取り、天下を取るなど夢のように遠い劉備。そうした中であっても、仁と義を重んじ、人として正しくあろうとする姿勢には思わず襟を正さざるを得ない。

「いけない。そんな不仁なことは自分にはできない。ーー思うてもみよ。人にその母を殺させて、その子を、自分の利に用いるなど、君たるもののすることか。たとい、玄徳が、この一事のため、亡ぶ日を招くとも、そんな不義なことは断じてできぬ」(281~282頁)

 苦難の中で劉備が出会い、乞いて軍師として迎え入れた徐庶。彼の智恵と策謀によって、曹操の軍隊に大勝し、他の武将からの信望も篤い中、彼の母の手によると称された手紙に因って曹操のもとに赴こうとする徐庶を、劉備は止めない。当然、曹操のもとに下ることは、優秀な軍師でありかつ自軍の内実をよく知悉している類い稀な存在を敵のもとに授けることを意味する。それでも、劉備への苦衷の心を持ちながら母への恩義に報いようとする彼を、劉備は止めようとしない。孝を重んじる行動を妨げることは、不仁であると捉えているからである。自分のことを考えず、相手を慮る徹底した君子たる行動が、その直後に孔明との出会いを導くのであるから、人生は面白い。

「ーーそうじゃ、自分のいる所ーーそれを明らかに知ることが、次へ踏みだす何より先の要意でなければならぬ。御身をこの地へ運んできたものは、御身自体が意志したものでもなく、また他人が努めたものでもない。大きな自然の力ーー時の流れにただよわされてきた一漂泊者に過ぎん。けれどお身の止った所には、天意か、偶然か、陽に会って開花を競わんとする陽春の気が鬱勃としておる。ここの土壌にひそむそういうものの生命力を、ご辺は目に見ぬか、鼻に嗅がぬか、血に感じられぬか」(318~319頁)

 あまりに有名な三顧の礼で孔明のもとを訪れる中で、劉備は、孔明と日頃付き合いのある様々な人と出会う。そうした中の一人に司馬徽がいる。ここで引用したのは、司馬徽が劉備に語った言葉である。自分自身が現在いる位置を知ること。それは自分の分を知ることでもあり、時代を知ることでもあり、多様な可能性を知ること、といったことを意味するのではないだろうか。


2014年12月27日土曜日

【第394回】『三国志(三)』(吉川英治、講談社、1989年)

 幾多の失敗や苦難を迎える劉備。そうした苦境において、リーダーはいかに構え、対応するのか。リーダーシップの教科書としても読める作品である。特に印象に残ったのは以下の二点である。

「ああ過った。ーー智者でさえ智に誇れば智に溺れるというものを、図にのった張飛ごときものの才策をうかと用いて」
 玄徳は臍を噛んだーー痛烈にいま悔いを眉ににじませているーーが彼はすぐその非を知った。
「わしは将だ。彼は部下。将器たるわしの不才が招いた過ちだ」(371~372頁)

 大成功を収めた後に大失敗を犯す張飛。温厚な劉備ですら怒りを抑えられない状況において、張飛へのいら立ちを最初は示している。しかし、その直後において、張飛の献策を受け容れた自分自身の至らなさへと意識を向け、深く反省を行なっている。戦の失敗は生き死にに関わるものであり、戦場での失敗を自分の責めに帰すことは、将兵からの信頼を失うことに繋がるだろう。そうした重たい責任を自分自身で受け容れられる度量の深さには、恐れ入るばかりである。

 玄徳の特長はその生真面目な態度にある。彼の言葉は至極平凡で、滔々の弁でもなく、なんらの機智もないが、ただけれんや駈引きがない。醇朴と真面目だけである。内心はともかく、人にはどうしてもそう見える。(444頁)

 まっすぐに、まじめに生きること。そうした心の有り様が、周囲に対する誠実な行動となって現れるのであろう。その結果として、他者から信頼を得られることが多くなるのではないだろうか。そうであるからこそ、先述したような失敗に対する責任の取り方に対して、周囲は、頼りない存在と捉えるのではなく、信頼できる存在として好もしく捉えるのであろう。


2014年12月23日火曜日

【第393回】『三国志(二)』(吉川英治、講談社、1989年)

 本巻でも、劉備の人格者としてのリーダーシップに目がいくばかりである。

 玄徳は、義の廃れた今、義を示すのは今だと思った。強いて暇を乞い、また、幕僚の趙雲を借りて、総勢五千人を率い、曹操の包囲を突破して、遂に徐州へ入城した。(162頁)

 子供の頃には理解できなかったのであるが、こうした劉備のあり方は論語的である。中国の方々が何を善と見做すのかは、物語のなかで時代を創る人々による論語的な態度や行動として描写されるシーンを読むことで理解できるのではないだろうか。

 涿県の一寒村から身を起して今日に至るまでも、よく節義を持して、風雲にのぞんでも功を急がず、悪名を流さず、いつも関羽や張飛に、「われわれの兄貴は、すこし時勢向きでない」と、歯がゆがられていたことが、今となってみると、遠い道を迂回していたようでありながら、実はかえって近い本道であったのである。(197頁)

 目先の利害に捉われず、自分の信じる義の道を、ゆっくりとではあっても確実に進み続けること。こうすることが、結果的には、物事を成し遂げる上で効果的な方向に進むことに繋がるのであろう。

「いや、わしはどこまでも、誠実をもって人に接してゆきたい」
「その誠実の通じる相手ならいいでしょうが」
「通じる通じないは人さまざまで是非もない。わたしはただわしの真心に奉じるのみだ」(217頁)

 猛将ではありながらも、いささか義に悖ると言われる呂布からの饗応への招待に応じようとする劉備に対して関羽と張飛は止めようとする。それに対する劉備の最後の言葉が非常に重たく私には響く。

 われら兄弟三名は、各々がみな至らない所のある人間だ。その欠点や不足をお互いに補い合ってこそ始めて真の手足であり一体の兄弟といえるのではないか。そちも神ではない。玄徳も凡夫である。凡夫のわしが、何を以て、そちに神の如き万全を求めようか。(333~334頁)

 酩酊の上で大失態を犯して城を敵に取られた張飛に対する劉備の言葉である。義兄弟の契りを結んだ仲とはいえ、ここまでの寛容の精神を持てるであろうか。思わず襟を正して自身を省みざるを得ない珠玉の言葉である。


2014年12月22日月曜日

【第392回】『三国志(一)』(吉川英治、講談社、1989年)

 幼少の頃、アニメで見たり、子供向けの本で三国志には触れていた。子供の目で見ても面白い作品であり、友人と三国志を話題にしていた。中国における三国時代は、日本における戦国時代のようであり、何となく胸躍る雰囲気の漂う物語であることは言うまでもないだろう。但し、しっかりと分厚い小説で読んだことがなかったこともあり、また最近は歴史小説をよく読んでいることもあり、このたび読むことに思い至った。

 子供の時に三国志をたのしんでいたときは、冒頭の部分では、関羽や張飛と比較した劉備の「普通さ」が不思議であった。さらにいえば劉備に対して「凡庸さ」のようなイメージを持っていたと思う。なぜ、勇躍する猛将である関羽や張飛から義兄として敬愛されたのか、曹操や孫権と中国を三分して蜀を統べる存在とまでなったのか、よくわからなかった。この劉備に対する見方が変わったのが、大人としていま三国志に向き合った時に抱いた最も大きな気づきである。

 玄徳はもとより、そう腹も立っていない。こらえるとか、堪忍とか、二人はいっているが、彼自身は、生来の性質が微温的にできているのか、実際、朱雋の命令にしてもそう無礼とも無理とも思えないし、怒るほどに、気色を害されてもいなかったのである。(184頁)

 心を動かされないこと。これは、リーダーとして最も大事な要素の一つではなかろうか。リーダーシップの作用の中の動に関する要素は目立つ一方で、静に関する要素の良さはなかなか際立たない。しかし、ここで描かれている劉備の動かない心は、どこか響くところがある。

 四、五年前に見た黄河もこの通りだった。おそらく百年、千年の後も、黄河の水は、この通りにあるだろう。
 天地の悠久を思うと、人間の一瞬がはかなく感じられた。小功は思わないが、しきりと、生きている間の生甲斐と、意義ある仕事を残さんとする誓願が念じられてくる。(206頁)

 劉備における静のリーダーシップの本質の一端は、時間観にあるのではないか。目の前の時間というよりも、自分自身をも超えた広くて長い時間軸を以て世界を眺めているため、現在に一喜一憂しないのであろう。

 劉備のライバルとなる曹操も、この第一巻から登場する。鼻っ柱が強くエリートのようなイメージを持つ彼の存在がまた、劉備との好対称を為し、三国志の物語としての面白さを増している。

 戦は、実に惨憺たる敗北だったが、その悲境の中に、彼らは、もっとも大きな喜びをあげていたのだった。
 曹操は、臣下の狂喜している様を見て、
 「アア我誤てり。ーーかりそめにも、将たる者は、死を軽んずべきではない。もしゆうべから暁の間に、自害していたら、この部下たちをどんなに悲しませたろう」と、痛感した。
 「訓えられた。訓えられた」と彼は心で繰返した。
 敗戦に教えられたことは大きい。得難い体験であったと思う。
 「戦にも、負けてみるがいい。敗れて初めて覚り得るものがある」
 負け惜しみでなくそう思った。(474~475頁)

 初めての敗戦で死地から辛くも免れた後に、曹操が帰って来たことを喜ぶ将兵たちの様子から学ぶシーンである。天才肌の奸雄として描かれてきた曹操が、純粋な気持ちで反省し、学ぶ姿が、美しさすら感じさせる。

2014年12月21日日曜日

【第391回】『日本教徒』(イザヤ・ベンダサン、山本七平訳編、角川書店、2008年)

 本書は、著者が戦国時代から江戸時代を生きた不干斎ハビヤンをして、「日本教」の開祖であるという大胆な仮説を提示したものである。ハビヤンという名前から外国人をイメージされる方もあろうが、日本人である。彼の思想および宗教における変遷を要約した以下の箇所が、彼の特異な来歴を理解すると共に、それを通じて「日本教」の内容を理解できると言えよう。

 彼を「棄教者」とか「転びキリシタン」とか「転向者」とか呼ぶのは誤りである。彼自身は少しも変っていない。彼はその人生を仏教の僧侶としてはじめ、ついでキリシタンの修道士となり、おそらく最後には儒教的道教的(?)思想家として終ったと思われるが、この間の彼の態度はむしろ、真摯なる求道者のそれである。そしてその態度に明確に見られるのが一種の「個人主義」である。彼は、彼のいう意味の宗教乃至は思想と「自己」とを対等の関係におき、「ハビヤン個人」が、いずれの宗教乃至は思想を選択するのも自由だ、という態度をとった。すなわち彼の“転向”は常に自らの意志に基づく「選択」であって、ある思想を基準とした「転向」ではない。この点その態度は非常に“近代的”といえる。そしておそらく日本人における“個”の自覚は、常に、「宗教・思想の自主的選択」いわば、「人が神を選択する」という彼の思想的遍歴と同じ形でなされているのであろう。(148~149頁)

 故・小室直樹氏も指摘しているように(『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社、2002年))、日本人は、「規範に合わせて人間の行動が変わるのではなく、人間に合わせて規範が変わる。」(同書、124頁)と考える人々である。したがって、ハビヤンは、自分自身が拠って立つ宗教や思想ありきではなく、自分自身の有り様を表す手段として宗教や思想が存在するに過ぎない。私自身が特定の宗教を持たない人間だからかもしれないが、こうした「日本人」像は私にはしっくりくるように思える。

 さらに興味深いのは、こうした自分自身の有り様や世界観を積極的に提示するのではなく、消極的に提示するという「日本教」の特色である。

 「日本教徒」が寓意でなく「実在」することは、彼が証明している。何ものにも動かされない独特の「世界」を自らのうちにもった一人物が、ここにいる。だが彼はその世界を一度も積極的に提示せず、いわば「消去法」で提示しているのである。(29頁)

 自分自身を提示する際に、「私は○○である」と定義するのではなく、「Aでなく、Bでもなく、Cでもない人物である」と消去法で定義する。良く捉えれば、柔軟に自分自身の有り様を定義することができると言えるし、悪く言えば日和見主義と言われる考え方であろう。

 では引き算の考え方によって定義される「日本教」においては、何をもって是とされるのであろうか。著者は、謀叛についての考察から、その内容を明らかにしている。

 「人をも人と思わず」「世を世とも思わぬ」罪に対する告発であり、その罪の行為に対する正当防衛ともいうべき一種の抵抗の権利の発動であり、しかもその発動が、「理念としての血縁への忠誠」に抵触しないからであろう。ということは、ここに、謀叛を起す側にも起される側にも、ともに共通する一つ[の]「義」への忠誠が要請されており、それが基準となって、それにはずれた者の方が不当なのであって、「起す側」「起される側」「天皇家の介入」といったことで、「正当」「不当」がきまるわけではないことを示している。そしてこの基準がハビヤンにとっては「聖」であり、神に等しい絶対であったのであろう。(124頁)

 「人をも人と思わず」「世をよとも思わぬ」行為が、義に悖るものとして認識される。したがって、そうした行為と見られないものが正当な謀叛として大義を持っていると人々に認識され、その一つの例としてハビヤンは、平家打倒を目指す源頼朝の挙兵を挙げる。もっと時代を下れば、明智光秀の信長に対する謀叛が不当なものと認識され、その光秀を討とうとした羽柴秀吉が認められたのかを考えれば、より分かり易いだろう。

 こうした「日本教」においていかに生きることが求められているのか。そこにおいては中庸と形容できるような有り様が理想像の一つとして描かれている。

 人間の一生の「貸借対照表」は、その人の終末において決算をすれば、結局は勝者も敗者も同じであるという考え方なのである。いわば頼朝のように、この貸借のバランスをとっていれば、すなわち「人間相互債務論」に基づく「負債」を意識してその意識に基づいて行動していれば、その生涯は、勝者として終りを迎えうる。しかし「受恩」の義務を認めず、一方では「施恩」を権利と意識して、その権利を乱用して自己の「資産」を浪費してしまえば、結局、破産者=敗者として、生涯の終りにそれを清算しなければならぬ、しかし、清算がすめば、人間は結局同じだというところに、いわば彼の「救い」があるわけであった。(145頁)

 ポジティヴとネガティヴの絶妙なバランスを取ること。換言すれば、物事がうまくいっている時には分をわきまえてほどほどのところで前進することを慎み、うまくいっていない時には諦めずに打開しようとする。「日本教」が他国から理解されにくく、また私たち自身もよくわからない原因の一つが、こうした極めて曖昧でハイコンテクストな部分にあるように、私には思える。


2014年12月20日土曜日

【第390回】『菜根譚』(今井字三郎訳注、岩波書店、1975年)

 NHK教育の「100分 de 名著」での2014年11月放送分で取り上げられた本書。今日的な表現で言えば自己啓発書とも捉えられかねないものであるが、私にはそのように思えない。というのも、現代における自己啓発書がハウツーを提示するのに対して、本書は多様な考え方の存在を示唆させるような逆説的な表現に満ちているからである。人間の持つ多様な価値観の存在を前提にして、自分自身が見ていない側面に焦点を当てる論法は刺激に満ちている。珠玉の言葉の数々を、いくつか紹介していきたい。

 君子の心ばえは、青天白日のように公明正大にして、常に人にわからないところがないようにさせねばならぬ。然し才智の方は、珠玉のように大切に包みかくして、常に人にわかりやすいようにしてはならない。(その心事が明白でないと陰険だと思われ、その才華を表わしすぎると、衒うと思われるから。心事が本で、才華は末である。)(前集・三)

 意図は明確に示す一方で、能力は全てを見せないようにする。これと逆のことを想起すれば、この指摘のポイントが分かり易いだろう。つまり、能力があることが明白であるのに、何をしようとしているのか意図が不明瞭な人物がいたら、周囲は警戒するだろう。

 (人情は翻覆常なく愛憎は忽ちに変ずる)。恩情の厚いときに、昔から、ややもすれば思わぬ災害を生ずることが多い。それ故に、恩情が厚くて得意な境遇のときに、早く反省して後々の覚悟をしておくがよい。また物事は失敗した後に、かえって成功の機をつかむことが多い。それ故に、失敗して思うにまかせぬときにこそ、手を放し投げ出してしまってはならない。(前集・一〇)

 他者から評価されている間に自分自身を省みるようにし、うまくいかないときに諦めずに努力しようとすること。自明の理であるとともに、行なうことは難しい真理である。

 苦心して仕事にはげむのは、たしかに美徳である。しかし、あまり苦心してあくせくしすぎると、本性を楽しませ心情を喜ばせることがなくなってしまう。また、さっぱりして執着がないのは、たしかに風格が高い。しかし、あまり枯れて干からびすぎると、人を救い世に役立つことがなくなってしまう。(前集・二九)

 こうした逆説的表現が本書の最大の魅力であろう。執着せずに淡々と仕事をしすぎることも良くないし、また苦労を買ってしゃにむに働きすぎるのも良くない。どちらとも自分の中に思い至ることがあるポイントであり、心がけるようにしたいものだ。

 古人の書物を読んでも、字句の解釈だけで聖賢の心に触れなければ、それでは文字の奴隷となるにすぎない。また、官位にあっても、俸給を貪るだけで人民を思い愛さなければ、それでは禄ぬす人となるにすぎない。また、学問を講じても、高遠なりくつを説くだけで実践躬行することを尊重しなければ、それでは口先だけの禅となるにすぎない。また、事業をおこしても、自分の利益だけを計って後々のために徳を植え育てておくことを考えなければ、それでは目先だけの花となるにすぎない。(前集・五六)

 テクストを理解することだけではなく、そのテクストを書く背景にある著者の心を感じ取ろうとすること。「文字の奴隷」という言葉が重たく刺さる至言である。

 心はいつも空虚にしておかねばならぬ。空虚であれば、道理が自然にはいってくる。また、心はいつも充実しておかねばならぬ。充実しておれば、物欲がはいる余地はない。(前集・七五)

 これまた難しい二律背反である。空虚にしながら、充実させておく。考え続けたいテーマである。

 人格が才能の主人で、才能は人格の召使いである。才能だけがあって人格の劣ったものは、家に主人がいなくて、召使いが勝手気ままにふるまうようなものである。どんなにか、もののけが現われて、暴れまわらないことがあろうか。(前集・一三九)

 人格の陶冶なくして、才能を活かすことはできない。そうであるにも関わらず、能力や才能の向上を徒に煽り、人格に焦点を当てる書籍がいかに少ないか。しかし、そうであるからこそ、人格に焦点を当てることの重要性が高いというのもまた、皮肉な現象である。

 つまらぬ小人どもを相手にするな。小人には小人なりの相手があるものである。また、りっぱな君子にこびへつらうな。君子はもともとえこひいきなど、してくれないものである。(前集・一八六)

 前段には目新しさを感じなかったが、後段にまでは思いが至っていなかった。たしかに、自分が尊敬する相手には媚び諂ってしまうことがあるにもかかわらず、それをそのまま受け取ってもらえない感覚を持つことがよくある。その理由は、ここでの指摘にある通りなのであろう。

 倹約はたしかに美徳ではあるが、度を過ごすとけちになり、卑しくなって、かえって正道を損なう結果になる。また、謙譲は良い行為ではあるが、度を過ごすとばかていねいになり、慎みすぎで卑屈になって、たいてい何かこんたんのある心から出ている。(前集・一九八)

 後段は、慇懃無礼を指しているのであろう。しかし、丁寧すぎると翻って礼を失するということに加えて、何らかの良くない意図が内包されているようにすら見えてしまうものだという指摘を心して受け止めたい。

 思い通りにならないことを気にかけすぎるな。また、思い通りになってもむやみに喜んではならない。いつまでも平穏無事であることをあてにするな。また、最初から困難を思って気おくれするな。(前集・一九九)

 考えさせられる逆説の繰り返しである。スタティックな状態を期待してはいけない一方で、ダイナミックな変化を恐れてアクションを起こさないこともまた戒められている。

 歳月は、元来、長久なものであるが、気ぜわしい者が、自分自身でせき立てて短くする。天地は、元来、広大なものであるが、心ねの卑しい者が、自分自身で狭くする。(方々に不義理を重ねたりして)。春は花、夏は涼風、秋は月、冬は雪と四季折々の風雅は、元来、のどかなものであるが、あくせくする者が、自分自身で煩わしいものとしている。(すべて、その人の心の持ち方によるものである)。(後集・四)

 読むだけで長閑な気持ちになる箇所である。このようにありたいものだ。

2014年12月15日月曜日

【第389回】『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎、朝日出版社、2011年)

 <欲望の対象>と<欲望の原因>の区別を使って次のように言い換えてもいい。人は、自分が<欲望の対象>を<欲望の原因>と取り違えているという事実に思い至りたくない。そのために熱中できる騒ぎをもとめる。(39頁)

 原因があるから対象が存在するのではない。欲望の対象を所与の前提として、そうした欲望を持っているから行動するかのように人は思うようだ。欲望の多くは、自分自身に備わっているものではなく、外界から与えられるものなのではないか。これが著者の本書における問題意識である。

 欲望を取り巻く外界に対する認識の一つに、暇と退屈という似て非なる二つのものがある。それぞれの意味合いについて、著者は以下のように定義づける。

 暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方は無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件に関わっている。
 それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。(100~101頁)

 暇が客観的なものであるのに対して、退屈は状況に対する主観的な捉え方に基づくものである、と著者はしている。そうであれば、退屈という状態において、いかに欲望の対象が形成されるのか、ということが問題になってくる。その際の一つのテーマとして、現代社会においては消費行動が挙げられる。

 消費者が受け取っているのは、食事という物ではない。その店に付与された観念や意味である。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから消費は終わらない。(147頁)

 冒頭で引用した通り、自身の中に欲望の原因があるから欲望の対象を欲するということではなく、外部から与えられた観念や意味によって対象を欲するようになる。したがって、消費行動の主要な原因は自分自身にあるものではなく外部から与えられるものである。だからこそ、自分自身に必要なもの以上のものを、絶え間なく外部から与えられることによって、欲望に歯止めがかからなくなる。これが現代社会における消費行動であると著者は喝破する。

 労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。
 だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。(152頁)

 消費の対象が労働関係にまで及んでくると、その影響は労働以外の時間としての余暇の時間にまで及んでくることとなる。こうした現象はSNSで飛び交う情報を見れば、嫌が応にも首肯せざるを得ないだろう。むろん、私はSNSが悪いというつもりは毛頭ないし、実際に私も楽しんで使っている。このブログを書いているのもその一環だ。ただし、「自分が余暇を楽しんでいる」ということを不必要に、または他者からの目を気にしてアピールしようとする、という心持ちがあるかどうか。この点に留意しながら、もしそうした心持ちがある場合にはSNSへの投稿を一旦留保するというゆとりを持ちたいと思う。

 「決断」という言葉には英雄的な雰囲気が漂う。しかし、実際にはそこに現れるのは英雄的有り様からほど遠い状態、心地よい奴隷状態に他ならない。(299頁)

 余暇の消費の延長上で起こるのは、何かを始める、組織を立ち上げる、新しいことにチャレンジする、といった決断をSNSでアピールすることであろう。私自身も二十代の後半まではそうしたことをよくやっていたし、頻度は少なくなれども現在でもそうした行動を時に取ってしまう。ここで著者が指摘しているのは、決断した対象に対する結果に関してではなく、決断することによって他の対象への関心がなくなり、一つのものだけにフォーカスできるという心理状態である。これを奴隷状態と呼んでいることから考えればその含意は分かるだろう。つまり、本来は多様な関心があって揺れ動くのが本性であるのに対して、自分自身が決断したことに焦点を当てることは本性から離れ自分で自分を奴隷状態にしていることに過ぎない。さらには、そうした自縄自縛や疎外といった状態に心地よさを感じるのが、決断をアピールすることが持つ危険性であろう。決断が必要な時もあろうが、常にそうした状態を繰り返したくなる常習性に対して、著者は警鐘を鳴らしているのである。


2014年12月14日日曜日

【第388回】『易経』(高田真治・後藤基巳訳、岩波書店、1969年)

 先日、自分にとってのベスト10冊を選ぶというワークを行なった。その相手が、ベスト1として挙げていたのが本書である。そこまで勧められれば読んでみたいと思うのが心情である。しかし、率直に言ってよく分からなかったというのが印象である。

 ただし、そうした中でも興味深かった部分はある。本書を読むまでは、易というものを単なる占いとして認識していた。「当たるも八卦当たらぬも八卦」や「乾坤一擲」といった言葉は易経から来ており、どちらも博奕で使われることの多い言葉であろう。しかし、博奕のように、ある目が出た時にそれが一対一で意味合いを持つという論法を易経を取っていない。たとえば、以下の箇所を見てほしい。

 无妄は、虚妄なきこと、自然のままにして真実なこと。卦徳の天道をもって動くに取る。この无妄真実の道をもって事を行なえば大いに亨るが、そのためには貞正をとり保つことがよろしい。もし動機が不正であるならば、かえってみずからわざわいを招くことになるであろうから、進んで事を行なうにはよろしくない。(上巻・233

 「自然のままにして真実なこと」とは良い意味合いを持つものであろう。しかし、動機が不正である状態であれば良くない意味合いになると結んでいる。以下の箇所も同様だ。

 凶ではあるが静かにしていれば吉だというのは、道に順う心があれば害にはならぬということである。(下巻・15頁)

 凶という悪い内容のものであっても、それをいかに回避するかという方法が書かれている。ここに、占いとは異なる思想を私たちは易経に見出すことができる。

 易は天道を推して人事に及ぼし、広大ことごとく備わらざるはない。易は修養の書であり、経綸の書であり、立命の書である。以って身を修むべく、以って事業を興すべく、以って尊富安寧を保つべく、以って貧賎不遇に処すべきである。(上巻・28頁)

 易経は修養の書なのである。占いというものには、楽をしようとするものというイメージがあるが、自分自身を修養させるための書物なのである。


2014年12月13日土曜日

【第387回】『国盗り物語(四)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

 読後の今、不思議に思うことがある。本作の主人公は、前作と同様に信長であったのであろうか。少なくとも私は、明智光秀に心境を照らし合わせながら読んでいた。

 まずは、信長に対して光秀が抱く人物評を取りあげたい。

 勁烈な目的意識をもった男で、自分のもつあらゆるものをその目的のために集中する、つまり「つねに本気でいる」男だ、と光秀はいった。(147

 (信長は自分の先例を真似ない)
 ということに光秀は感心した。常人のできることではなかった。普通なら、自分の若いころの奇功を誇り、その戦法がよいと思い、それを摸倣し、百戦そのやり方でやりそうなものだが、信長というのはそうではなかった。(169頁)

 強烈な目的意識とそれを唯一の拠り所に断固として行動する。また、その達成のためには手段に捉われず、自分自身の成功体験すらも捨て去ることができる。リーダーシップの発揮の有り様として、信長が後世において賞讃されることの多い理由が、光秀の目から端的に語られている。しかし、そのようなトップに仕える身であるからこそ感じる苦労もまた、多いものだ。

 光秀の胸中には、生き身の義昭とはべつの、光秀の放浪期の偶像ともいうべき義昭がいまなお棲みつづけている。それを討ち、さらに足利将軍家をつぶすとなれば、光秀のこれまでが何のためにあったのか、わからない。
 (おれ自身の過去を討つことになる)(511頁)

 この夫は外で心気を労しきるために、内でこのような大言壮語を吐いてかろうじて心の平静を保とうとしているのであろう。(550~551頁)

 独自の正義感が強い信長に否定されないよう、自身のかつての主人を追放するというアクションすら、拒絶することはできない。内省的な人物として描写される光秀にとって、意志を持って取りつづけた過去の自分の行動を、自分自身で否定することは辛かったに違いない。そうした辛さを外で吐露することはできないため、内において大きなことを言いたくなる気持ちというのは、痛いほどによく分かる。

 リーダーシップの朗らかな側面と沈鬱とした側面とを併せ持つ信長。彼に対して、最終的に論理よりも感情面での決断によって謀反を決断した光秀。感情の最も大きな部分の拠り所となったのは以下の部分に凝縮されているのではないか。

 光秀は、教養主義者である。粗野で無教養な男というものを頭から軽侮する癖をもっている。信長を、その軽侮の対象として見た。(18頁)

 ある人物に対するプラスの感情とマイナスの感情。通常、私たちは二つの側面を抱くものだろう。何らかの事情でそのどちらか一つを選択しなければならない時。自分の領国を返上させられた揚句に中国の刈り取りを許可された毛利討伐に赴くか、主殺しの悪名を享けてでも天下を自分自身の理想に近づけるために本能寺に進路を取るか。究極の二択が眼前にあった時に、その決断は、論理ではなく感情が為したのではないだろうか。光秀にとって、最初に抱いた信長への感情が、その後の経験則に基づいた理性的判断に優り、本能寺の変は起ったのであろう。

『明智左馬助の恋』(加藤廣、文藝春秋社、2010年)

2014年12月8日月曜日

【第386回】『国盗り物語(三)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

 物語の主人公は、斎藤道三からその婿である織田信長へと移る。信長を主題にした歴史小説は多い。戦国という乱世において、旧来の価値観を一変させ、領国の政治や対外的な戦争を併せて遂行するリーダー。こうしたイメージは本作を読んでも変らない。しかし、そうしたイメージから飛躍しながら踏襲する、以下の二点の描写が印象的であった。

 蝮は、自分と会った四月二十日を選び、おのれの命日にしたかったのではあるまいか。いやそうにちがいない。四月二十日を命日にしておけば道三のあとを弔うべき信長にとって二重に意味のある祥月命日になるのであった。されば信長は生涯道三を忘れぬであろう。
(あの男は、そこまでおれを思っている)
 若い信長にとって、この発見は堪えられぬほどの感傷をそそった。(245

 信長にはウェットなイメージはなかなかない。ドライな人事を行ない、感情に流されずに大局で判断する。しかし、そうした信長であっても、著者は、二人の人物のみから理解されていて、彼らに対して感情的な親近感を抱かせている。一人は実父である織田信忠であり、もう一人がこの義父である斎藤道三である。道三が勝ち目のない死に戦に赴かざるを得ない状況に陥った時に、その戦の日付を、信長と道三とが初めて面会した日にしたのではないか、と信長に感じさせている。信長の伝記において、数少ない感動できるシーンの一つである。

 信長には、稀有な性格がある。人間を機能としてしか見ないことだ。(中略)
 その男は何が出来るか、どれほど出来るか、という能力だけで部下を使い、抜擢し、ときには除外し、ひどいばあいは追放したり殺したりした。すさまじい人事である。(520~521頁)

 こちらは、信長の典型的なイメージに基づいた特性を簡潔にして明瞭に表現している箇所だ。人間を人間性として認識するのではなく、何を為すかという機能として認識する。そうであるからこそ、諸機能の統合体としての人間にどのようなことをしても罪悪感を感じなかったのであろう。自分にとって、また自分が描く戦略にとって、必要な機能を選択し、それを適材適所に配置する、という発想であれば、何でも大胆にすることができよう。これが信長の圧倒的な強みであり、さらには絶対的なリスクを内包していたのであろう。そうであるからこそ、そうした信長の発想を理解する人物を、信長は大事にしたのではないか。


2014年12月7日日曜日

【第385回】『国盗り物語(二)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

 前作から時代が進み、いよいよ美濃の「国盗り」の総仕上げへと着手する斎藤道三。その人間性の成熟と、類い稀な意志の描写とが興味深い一冊。

 美濃をわが力で征服し、あたらしい秩序をつくることこそかれの正義である。
 庄九郎の道徳ではそのためには、いかなることをしてもよいのである。旧来の法をまもり、道徳をまもり、神仏に従順な者が、旧秩序をひっくりかえして統一の大業を遂げられるはずがない。(100

 旧来の秩序ではなく、自分自身が正義と信じるものに突き進む。見えないものを見て、その実現に向けて周囲に影響を発揮していく。リーダーシップの有り様を見るようである。

「人間、大をなすにはなにが肝要であるかを知っているか」
 (中略)
「義だ。孟子にある。孟子が百年をへだてて私淑していた孔子は、仁だといった。ところが末法乱世の世に、仁など持ちあわせている人間はなく、あったところで生まれつきのお人好しだけだろう。そこで孟子は、義といういわばたれでも真似のできる戦国むきの道徳を提唱した。孟子の時代といまの日本とは、鏡で映したほどに似ている」(202頁)

 何を以て自分自身の拠り所とするか。道三は、それを義であるとしている。むろん、自分自身が抱く大望もあるだろう。しかし、その大望を律する思想を自分で持つようにしているところが、道三の凄みを増しているのではないだろうか。

 人間、善人とか悪人とかいわれるような奴におれはなりたくない。善悪を超絶したもう一段上の自然法爾のなかにおれの精神は住んでおるつもりだ(300頁)

 善や悪という判断を下すには主観が入り込む。主観が入り込むということは、そこに無理が加わる。道三の場合は、無理を加えるのではなく、自然を重んじる。リーダーであるということは、自然体であるという側面もあるのだろう。

 こうした道三の帝王学を学んだ者が二人いた、と著者はしている。織田信長と明智光秀である。本作のこの後の展開を予告するような以下の箇所が印象的である。

 道三が、娘をもつ。その娘の婿になるのが織田信長である。信長と道三の交情というのは濃やかなもので、道三がもっている新時代へのあこがれ、独創性、権謀述数、経済政策、戦争の仕方など世を覆してあたらしい世をつくってゆくすべてのものを、信長なりに吸収した。
 さらに、道三には、妻に甥がいる。これが道三に私淑し、相弟子の信長とおなじようなものを吸収した。しかし吸収の仕方がちがっていた。信長は道三のもっている先例を無視した独創性を学んだが、このいま一人の弟子は、道三のもつ古典的教養にあこがれ、その色あいのなかで「道三学」を身につけた。この弟子が、明智光秀である。(181頁)

2014年12月6日土曜日

【第384回】『国盗り物語(一)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

 戦国時代を描く小説、とりわけ信長や秀吉を主題とした著作を読むと出てくる「蝮の道三」。子どもの頃から斎藤道三の存在は知っていたが、主人公として描かれた作品を読むのは初めてであった。一介の油売りから身を起こしたとよく形容されるが、本作を読めば、それどころか寺を抜け出て何もない所から国のトップに立つところまで至ったことが分かる。その希有な人間性の本質は何か。三つほど挙げてみたい。

 澄んでいる。この男の声をきく者は、すべて、これがなまな人間の穢身から出た声か、とおもうほど、清らかである。自分のやることのすべてが正義だ、と信じている証拠だろう。(22

 一つめは、自分自身がやることを、どのようなことであれ、正義であると信じ込んでいる点である。自分に対する自信が揺らがず、信じて疑わない。少しでも自分を疑ってしまうとその自信の欠落が表面に現れ、他者にも伝わる。それがないため、他者から信頼を得られる。その信頼のもとが、道三の虚構であろうとも、他者はともすると進んで道三を頼ってしまうのであろう。

 庄九郎も、手をにぎった。冷徹な計算力が働くかとおもえば、ときに激越な感情家でもある庄九郎は、手をにぎりながら懐かしさに堪えきれず、涙がこぼれた。(247頁)

 第二は、人間味である。第一の点からは、計算づくで自信を持って行動する冷徹な切れ者という人間像がイメージされるのに対して、第二の点はそれを打ち消すかのような人間性である。情熱と冷静さというともすると相反するように見える二つの性質を併せ持つが故に、道三には不思議なエネルギーが宿されたのではないか。

 庄九郎は、昂奮している。この男ほど人間を馬鹿にしながら、この男ほど人間に惚れやすい男もめずらしい。(489頁)

 第三のポイントは、人間関係についてである。冷静に状況を観察しながら、自分自身が情熱的に振る舞う。こうした人を巻き込むリーダーとしての資質を持ち、他者から惚れられる存在でありながら、他者に惚れやすい存在でもあるというのだから、面白い。

2014年12月1日月曜日

【第383回】『暗夜行路』(志賀直哉、新潮社、1990年)

 幼い頃から本を読んできた。正確には、小学生時代には、両親の教育方針により、朝食の前に約十分の読書時間というものが設けられ、読む機会を強制的に作られていたという表現が適切である。古今東西の偉人の伝記や、名作と呼ばれる書物を紐解くことはそれなりにたのしく、嫌々ながら本を読むということはなかったように記憶している。

 読書との蜜月状態が一時的に中断していたのは、中学生から高校生の時分である。両親は、子どもに読書を勧めるにも関わらず、自分たち自身は本を読む習慣を持っていなかった。また、私は四人きょうだいの長子であり、ガイドとなるような書物を勧めてくれる人物は、当時の私の周りにはいなかった。そのため、中学時点において読める書籍と、その時点ではその善さが分からない書籍との峻別ができなかったのである。そのような私にとって、朝の読書は次第にフラストレーションとなることが多くなっていった。読書の習慣を辞めさせる決定打となったのが、本書、つまり『暗夜行路』であった。主人公の出自の設定が過酷すぎて共感できなかったのであろうか、本書のメッセージや意味が分からなかったのである。

 高校を卒業し大学に入学する十八歳の春から、再び書籍とは良好な関係を築き始めたのではあるが、本書を読むことは私にとって二十年ぶりのリベンジであった。数年前から小説も好んで読むようになってから、いつかは本書に再挑戦したいと思っていたが、なかなか踏ん切りがつかなかった。今回、一大決心をして読んでみて、非常に惹き付けられたというような劇的な変化はなかったが、しみじみと噛み締めながら読むことはできた。とりわけ印象的であった部分を抜き書きしてみたい。

 船は風に逆らい、黙って闇へ突き進む。それは何か大きな怪物のように思われた。(150頁

 自身の境遇にまつわる暗い状況を振り払おうとする、主人公の苦闘ぶりをアナロジーとして描いているのであろうか。感ずる部分の大きい箇所である。

 自分のような運命で生れた人間も決して少なくないに違いない。謙作はそんな事を考えた。道徳的欠陥から生れたという事は何かの意味でそれは恐しい遺伝となりかねない気もした。そういう芽は自分にもないとは云えない気がした。然し自分には同時にその反対なものも恵まれている。それによって自分はその悪い芽を延ばさなければいいのだと思った。本統につつしもう。自分は自分のそういう出生を知ったが為めに一層つつしめばいいのだ。(200頁)

 自身ののろわれた生まれについて兄から知らされた後の主人公のモノローグである。苦しい状況の中で、どのように対処していくかを自分自身で試行錯誤しながら考えているシーンである。こうした考え方をすることによって、悩みがなくなるというわけではない。しかし、考えを巡らせることによって、自分自身の精神状態を安定させる作用にはなり得るのではないか。

 人と人との下らぬ交渉で日々を浪費して来たような自身の過去を顧み、彼は更に広い世界が展けたように感じた。(518頁)

 結婚後にも主人公に襲いかかる不幸の連続。それらの果てに、一人旅に出て山寺での生活の中で会得した認識の変容が描かれている。苦境の中で苦しみながら、自分自身の認識を変容させようともがくことが、自分の人生を切り拓くということなのではないか。単に、過去の経験を応用するのではなく、過去の有り様をアンラーニングして、自分自身の内にある可能性を開拓すること。キャリアに関する考え方とも通ずる(『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年))ように私には読める。

 本書を読めるようになったのは、二十数年という決して短くはない人生経験を経たからだけではないように思う。小説というものを、登場人物に共感しながら読もうとすると、心理的に入り込めないケースもある。しかし、以前の島崎藤村の『破壊』に関するエントリー(『破壊』(島崎藤村、青空文庫))でも述べたように、自分が知らない他者の世界観や、自分が知らない自分自身の多様性への感受性を耕すこともまた、小説を読む醍醐味なのではないか。このように考えれば、私にとって本書もまた、感ずるところの多い小説であったと言える。