2015年8月31日月曜日

【第480回】『真田太平記(五)秀頼誕生』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 秀吉の実子である鶴松が亡くなり、秀次が家督を継ぐことになったことで、真田昌幸と信幸は、秀吉亡き後に家康を仰ぐ必要があることで一致する。しかし、秀頼が生まれたことで、真田の本家と分家とでは、その生き残り戦略が異なってくる。両者によるえも言われぬ緊張感が増し始める第五巻である。

 すべてがわかったようなつもりでいても、双方のおもいちがいは間々あることで、大形にいうならば、人の世の大半は、人びとの[勘ちがい]によって成り立っているといってもよいほどなのだ。(52頁)

 肝胆相照らして語り合えば、お互いを理解し合うことができる。たしかにそうしたことが起こることを否定するつもりはない。しかし、すべてにおいてそれが適用できるほど、私たちが生きる社会というものは単純ではない。むしろ、語っても理解されないことや、語れないことがあるからこそ、私たちの社会や人間関係は面白いのではないだろうか。

2015年8月30日日曜日

【第479回】『真田太平記(四)甲賀問答』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 戦国の時代における人的情報網として暗躍した甲賀忍者。甲賀忍びのグループにおいて、甲賀を出た真田忍びと甲賀忍びとの戦いや駆け引きに焦点を当てながら、秀吉の迷走に伴う豊臣と徳川の微妙な探り合いが忍びの暗躍へと結びつくことが描かれた第四巻である。

 痛みをこらえつつ、お江は、いよいよ生存の自信をもつことができた。
 生きているからこそ、傷むのだ。
 傷むからこそ、癒えるのである。(197頁)

「われら、忍びの者にかぎらず、人という人は、自分のためのみに生くるのではないぞ。おのれの無事を願い、おのれのためにつくしてくれる他の人びとのために生きねばならぬ。生きぬかねばならぬ。これが人というものじゃ」(223頁)

 苦しい時にいかに気力を漲らせるか。それは自分自身のためのみならず、他者のためであるという発言は、特に心に留めておきたい至言である。

「それほどならば、いまのうちに、太閤殿下に謀叛して大坂城を乗っ取り、いさぎよく滅び消えたほうが、まだしもおもしろい。すくなくとも、殿下の朝鮮攻めをふせぐことになろう」(251頁)

 秀吉という人間を愛しながらも、朝鮮出兵の愚を感じ取る真田昌幸。後世の視点から眺めた歴史小説であるために秀吉を悪し様に捉えすぎることは不要であろうが、後世を生きる私たちであるからこそ、歴史から学ぶことこそが必要不可欠であろう。

2015年8月29日土曜日

【第478回】『真田太平記(三)上田攻め』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 徳川・北条を向こうに回しながら、上杉を巻き込み、秀吉の間接的な支援をも導き出し、北条の一部との局地戦へと持ち込む真田昌幸の戦略に唸らされる第三巻。

 そうしたときの真田昌幸は、細心というよりも、むしろ[小心]な男に見えた。
 それでいて、いったん肚が決まり、行動へ身を置くと、いささかも迷い悩むことがない。(77頁)

 リーダーの決断とはこうしたものなのかもしれない。周囲のフォロワーからすると、悩んでいる姿が見えず、何事にも果敢に挑戦しているように見えても、リーダーは、考え、悩み尽くした上で決断を下し、それを貫徹させる。

 度量がひろいというよりも、このときの上杉景勝と直江兼続が、昌幸に見せた態度は、爽快をきわめていたのである。
 昌幸の苦悩と、その苦悩が行きついた末に生まれた覚悟とを、二人は何の疑惑もなく汲みとってくれた。(161頁)

 上杉景勝と真田昌幸は、ともに事態を冷静に看て、率直に肚の内を見せ合ったことにより、豊臣秀吉の好感を層倍のものにしたことになる。(186頁)

 真田、上杉、豊臣の信頼関係が構築される様がよく描かれている。さらには、この三者による強固な信頼関係が、後の関ヶ原や大坂城での攻防での同盟関係へと受け継がれていくことが予見されるような表現とも言える。

 幼少のころから、幸村には、さんざんに嘲弄され、力くらべでは負けぬ角兵衛も、幸村の才智に結局は屈服せざるを得なかった。
 そうした長年にわたる鬱憤と劣等感が、関白殿下から拝領の短刀を奪うという、当時の武士の常識では考えられぬ所業に、角兵衛を駆り立てたのやも知れぬ。
 幸村は、騒動が長引くことをおそれてか、国俊の短刀を角兵衛にゆずった。
 角兵衛にしてみれば、
 (おれは、源二兄上に勝った……)
 のである。
 勝ったことがみとめられたからには、
 (短刀なぞ、いらぬ)
 というわけなのだろうか。いや、そのことにも増して、幸村が昌幸に、
 (おれと刀一つとが、引き替えになろうか、と、いうてくれた……)
 その言葉が、角兵衛を感動させたことは、事実であった。(358~359頁)

 お互いにぎこちない幼少からの関係が続いていた、真田幸村といとこの樋口角兵衛。対立の氷解の美しさが描かれる感動的なシーンである。

2015年8月24日月曜日

【第477回】『真田太平記(二)秘密』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 徳川、北条、上杉とのパワーバランスの不均衡状態という不確かな状況の中で、存分に悩みながらも決然とリスクを取って上田城築城を決断した真田昌幸。その見事なリーダーシップが凝縮されたシリーズ第二巻である。

 長倉の寺へ泊まった翌日、一行は軽井沢を経て、碓氷の峠を越えた。
 さいわいに晴天がつづいている。
 だが、峠を越えるときに、雪が風に乗って吹きつけてきた。
 碓氷峠は、上信二州の国境である。(260頁)

 本シリーズを読んでいると、人物描写が卓抜であり、人物の内面や関係性に関するこまやかな記述にばかり目が向いてしまう。そうした中で、情景や気候が美しく描かれた箇所を読むのもまた、趣き深い。加えて、こうした情景描写にも、真田家の置かれる周囲の他国との緊張感のある状況が暗喩されているようだ。

 むろん、腹の中ではあきれもし、怒りもしていたろうが、これほどのことに感情を激発させるような家康ではない。これまでに彼が体験してきた突発的な異変の数々にくらべれて、問題にならぬ事といってよい。(428頁)

 小牧・長久手の戦いにおいて、織田信雄が単独で秀吉と講和を取り結んだ報を聞いた後の、家康の描写である。大坂夏の陣まで続く、真田家と大きな因縁を持つ徳川家康。その深謀遠慮に思わず嘆息させられる箇所である。

2015年8月23日日曜日

【第476回】『真田太平記(一)天魔の夏』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 シリーズものの歴史小説を読み始めるというのは、いささかハードルが高い行為である。駄作であればすみやかに読むのを終えられるのであるが、そうでない場合、つまり読み進めたいと思う場合には、他に読みたい書籍を読むことが停滞してしまう。多少の「積ん読」を覚悟して本シリーズに向かったのは、真田幸村という人物を、子供向けの漫画でしか読んだことがなく、その魅力的な人物像を改めて理解したいと思ったからである。

 真田家のような小勢力が、しだいに、武田、上杉、織田などの大勢力にふくみこまれてゆき、大勢力と小勢力との激突によって、戦乱の波動が日本の首都である京の都を中心に煮つめられはじめた。
 こうなると、真田家のような小勢力でも、単に、自分が臣従し、追従している大勢力のことのみへ眼を向けていたのではすまなくなってくる。
 今度の、武田家の滅亡に際しても、真田昌幸のように、
 「深く頼む……」
 草の者たちをうごかし、京の都から近畿一帯、近江から尾張、東海地方にいたるまで、諸国の情勢を探り取らせていた武将たちには、危急に対する術も、おのずから生まれて来るはずであった。(192頁)

 戦国時代における「忍び」の存在に対する需要がここに端的に表現されている。情報技術が未発達の状態において、情報の持つ価値は現代の私たちが考えるより遥かに高いものである。ことに、変化が激しい状況においては、最新の情報を入手しているかどうか、また情報発信によって印象操作をすることの重要性は大きい。したがって、忍者が活躍できる素地は充分にあったのである。現代の視点からその重要性を認識するのは可能であるが、当時の時代においてその重要性を認識するのは難しいだろう。しかし、それを成し遂げていたのが織田・羽柴・徳川・武田といった有力な武将であり、武田の影響を受けて本書の主題である真田家も間諜のネットワーク構築に注力していた。

 高遠城で嗅いだ土の春の香りは、左平次の[死]とむすびついていたが、いま、胸いっぱいに吸い込んでいる春の大気は、彼の[新生]に直結している。(270頁)

 こうした真田家に寄宿する忍びの者たちから救い出された向井左平次。死地での香りと、生き長らえて感じる空気の香りとの対比が、きれいに表現されている。こうした文章表現が心地よい読書体験を生み出してくれるものである。

『真田太平記(二)秘密』(池波正太郎、新潮社、1987年)
『真田太平記(三)上田攻め』(池波正太郎、新潮社、1987年)
『真田太平記(四)甲賀問答』(池波正太郎、新潮社、1987年)
『真田太平記(五)秀頼誕生』(池波正太郎、新潮社、1987年)
『真田太平記(六)家康東下』(池波正太郎、新潮社、1987年)
『真田太平記(七)関ヶ原』(池波正太郎、新潮社、1987年)
『真田太平記(八)紀州九度山』(池波正太郎、新潮社、1987年)
『真田太平記(九)二条城』(池波正太郎、新潮社、1987年)
『真田太平記(十)大坂入城』(池波正太郎、新潮社、1987年)
『真田太平記(十一)大坂夏の陣』(池波正太郎、新潮社、1987年)
『真田太平記(十二)雲の峰』(池波正太郎、新潮社、1987年)

2015年8月22日土曜日

【第475回】『宴のあと』(三島由紀夫、新潮社、1960年)

 小説の作品としての価値もさることながら、プライバシー違反に関する憲法学の判例として出版後における一連の出来事でも有名な本作。学部時代に、憲法の授業で取り上げられていたことは記憶している一方で、本作を読むのは今回がはじめてである。政治というテーマを掲げ、東京都知事選という現象を扱いながら、主要な登場人物が少数で構成されていることに読後に気づかされ、驚かされた。現象を描き出すのではなく、人物を描き出すことに注力して物語を創り上げている点は、著者の力量の為せるわざと言えるのではないだろうか。

 革新党も労組も、今まで三十万票までの選挙なら経験があったが、五百万票を相手にすると、作戦も立たず、途方に暮れているばかりだ、と山崎の言った言葉が、いよいよかづに確信を与え、選挙こそかづの天与の仕事だと考えるようになった。それはほとんど空虚を相手にして全精力を使うゲームであり、どこにも確証のないものへ向って不断に賭ける行為だった。いくら昂奮しても昂奮し足りないような気がし、いくら冷静になっても冷静になり足りないような気がしたが、そのどちらにも目安というものがなかった。かづが一つ免れているのは、「やりすぎたのではないか」という惧れだった。これには山崎も顔負けで、この革新党きっての選挙のヴェテランが、いつしかかづの何でも大ぶりなやり方に敬服するようになっていた。(127頁)

 智謀をめぐらし、他者を動かし、結果を出し、自分にとって重要な存在から認められること。プロジェクト・マネジメントを行なった経験のある方であれば、本書の主人公である福沢かづの抱く感情に共感できるのではないか。

 かづにとってこの一言はどんな打擲よりも怖ろしかった。彼女の目前に暗い大きな穴がひらいた。『離縁されたら……私は無縁仏になる』……そう思うとかづはどんな代償をも仕払う気持ちになった。(132頁)

 その一方で、信頼できるパートナーと一生を添い遂げ、死後にかけて永遠に落ち着ける場所をも求めている点が興味深い。独立心と依存心というアンビバレンスがあまりに大きいことは、人間としての魅力として他者から認識される一方で、自分自身を苦しめる要素にもなり得るのではないか。

 かづが追いやられる結論は、金が不足だったという嘆きよりも、自分の心情も野口の論理も無効に終ったという嘆きである。あの精魂こめた運動のあいだに、かづが一旦は信じた人間の涙や、微笑や、好意的な笑いや、汗や、肌の暖かみや、……そういうものもすべて無効に終ったという嘆きである。(190頁)

 多様な自分像を持ち、それぞれが強い個性を主張している人物の場合、挑戦している最中や、自身が納得のいく結果がでている際には、それが好もしいものとして現出する。しかし、結果が出なかったり挑戦が得られない時には、自分で自分を苦しめるのであろう。それは、なにも特別な存在だけではなく、程度の差はあれども、私たち全員に当てはまるのではないだろうか。人間はすべからく多様な自画像から構成される存在である。したがって、特に逆境の中にいる時ほど、多様な自分という存在に自覚的になり、それらを統合するという意識が重要なのではないだろうか。


2015年8月16日日曜日

【第474回】『パイドロス』(プラトン、藤沢令夫訳、岩波書店、1967年)

 プラトンの書籍は、「水戸黄門」を観るかのように、パターンは決まっているがオチに至るプロセスをたのしむことができる。本書も同様に、ソクラテスが登場し、最初は相手が威勢良くリードするかたちで対話が進み、後半からはソクラテスの独壇場で有無を言わせぬロジックが展開される。

 ひとは、この自己自身によって動かされるということこそまさに、魂のもつ本来のあり方であり、その本質を喝破したものだと言うことに、なんのためらいも感じないであろう。なぜならば、すべて外から動かされる物体は、魂のない無生物であり、内から自己自身の力で動くものは、魂を持っている生物なのであって、この事実は、魂の本性がちょうどこのようなものであることを意味するからである。しかるに、もしこれがこのとおりのものであって、自分で自分を動かすものというのが、すなわち魂のほかならないとすれば、魂は必然的に、不生不死のものということになるであろう。(57頁)

 魂という概念がやや抽象的にも感じられるが、外なる声によって他律的に動かされるのではなく、内なる声を聴いて自律的に動くことが重要なのであろう。こうした内なる声の重要性と、そうした存在を大事にするということが指摘されている。

 話や書きものの中で取り上げるひとつひとつの事柄について、その真実を知ること。あらゆるものを本質それ自体に即して定義しうるようになること。定義によってまとめた上で、こんごは逆に、それ以上分割できないところまで、種類ごとにこれを分割する方法を知ること。さらには魂の本性について同じやり方で洞察して、どういうものがそれぞれの性質に適しているかを見出し、その成果にもとづいて、複雑な性質の魂にはあらゆる調子を含むような複雑な話をあたえ、単純な魂には単純な話を適用するというように、話し方を排列し整理すること。ーー以上挙げただけのことをしないうちは、言論というものを、その技術的な取りあつかいが本来可能な範囲で、技術にかなった仕方で取りあつかうということは、けっしてできないであろう。これは、その目的とするところが教えることであれ、人を説得することであれ、同様である。(141頁)

 これが本書のメッセージの要約であろう。十全に理解できているとはまだ思えないが、繰り返し噛み締めたい部分である。

2015年8月15日土曜日

【第473回】『本能寺の変 四二七年目の真実』(明智憲三郎、プレジデント社、2009年)

 姓を見れば分かるように、著者は明智光秀の末裔の方である。主君討ちという反逆の徒として描かれる明智光秀による本能寺の変について、史実をもとにしながら新たな解釈を試みる意欲作だ。むろん、史実というものは、誰がどのように解釈するかという主観が入るために、唯一無二の正しい歴史というものは存在しない。しかし、著者の主張は、合理的で納得性の高いものが多く、本能寺の変に関する一つの解釈として傾聴に値するのではないだろうか。

 光秀を本能寺の変へと駆り立てた理由として、光秀と信長との性格の相違や相性の悪さという属人的な要素が取り上げられることが多いが、著者はこうした要素を取り除いている。要約すれば、織田軍内の権力構造、土岐氏復権への想い、徳川家康との共闘体制の構築、という三点から本能寺の変が成立したと著者は主張していると言えよう。

 第一に、織田軍内の権力構造について見てみよう。

 第一次構造改革は(中略)譜代の家臣である佐久間信盛、林通勝、安藤守就、丹羽右近らを追放して大幅な政権・領国の再編を実施しました。「譜代から実力派へ」の再編で、これにより譜代家臣を退けて光秀、秀吉、滝川一益ら実力派家臣を織田家臣団の主流に引き上げたのです。(中略)
 これに対して第二次構造改革は、今度は「実力派から織田家直轄へ」の再編でした。
 信長はすでに二十代半ばとなっていた三人の息子、信忠、信雄、信孝に重要な地位と領地を与える一方、それまで信長を支えてきた武将たちは各方面軍司令官として遠国に派遣し、征服した地に移封し始めていました。(81頁)

 第一次構造改革において取り立てられた実力派の武将が、当時の改革段階においては、天下統一の名の下に中国、四国、北陸、関東といった地方へと配置換えされていた。そうして、京都や安土の近くには信長の息子たちの領土にすることで、織田家による中長期的な政権運営へと信長は舵取りを切っていた。したがって、光秀にとっても領地替えは時間の問題であったわけであるが、そこに光秀の出自に伴う異動への強い抵抗感が生じた。これが第二の土岐氏の復権への想いである。

 信長は、光秀が土岐氏の盟主であることの意味を見落としたのです。この一件が光秀を極限状態にまで追い詰めることになるとは、信長は露とも気づかなかったのです。信長が光秀の謀反に最後まで全く警戒心を持たなかった謎、その理由の一つはここにあったのです。
 土岐氏は足利幕府を支えた名門であり、美濃・尾張・伊勢を基盤として一族の結束を誇っていました。それが三十年前に美濃守護を追われて没落、「落ちぶれ果てた」状態に陥っていたところに土岐氏再興の盟主として現れたのが光秀でした。光秀のもとに土岐桔梗一揆といわれる強固な結束力を誇る家臣団が再結成されたのです。この家臣団は、美濃を中心とした父祖伝来の地へのこだわりと一族の結束への願望を強く抱いていました。
 そこへ降って湧いたこの移封は、光秀家臣団の分断・弱体化を意味するものでした。(115~116頁)

 信長の息子たちによる政権運営への移行は、必然的に、安土と京都の間に領地を持つ光秀の領地替えを伴う。合理的な思考の持主である信長にとっては、家や土地といったものに対する愛着や尊敬の念を理解できず、現在の領地より客観的に好条件の場所への移封を拒否されるとは想像できなかったのであろう。合理精神では測れない理性を超えた範疇にある土岐氏再興への想いが、光秀を精神的に追い詰め、信長の思い描く政権運営を否定すること、すなわち謀叛を考えせしめた。こうした土地や領土に対する愛着や移動への拒否反応はなにも光秀に限定されるものではない。多寡の差はあれども、第一次構造改革時に取り立てられた武将たちにも共通する感覚であったであろう。これが第三の理由、つまり家康との連携による信長への対抗へと繋がる。

 光秀は家康に対して、家康自身と徳川家の危機について説明し、それを救うためにも謀反を起こして信長を討つこと、その後の政権樹立のために手を結ぶことを申し入れたに違いありません。家康はこの申し入れを受け入れました。光秀は家康の命を救ってくれるだけでなく、嫡男信康と正室築山御前の仇も討ってくれるのです。(中略)
 こうして、家康は信長の招きに応じて上洛する決心をすると同時に、いざという時に大坂・堺からどう脱出するかを周到に準備したのです。信長が家康を油断させるために中国出陣でカムフラージュしたのと同じように、家康は信長を油断させるために、わざと信長の術中にはまったように振舞ったのです。(152頁)

 まず第二の理由に基づき、信長や家康の領地を没収し自身の子息に譲ろうとしていたと著者はしている。その上で、東の武田とのパワー・バランス上で必要であった家康が、武田亡きあとには不要になり、むしろ信長にとって脅威にしかならなくなった。したがって、「本能寺の変」とは、家康に小人数しか手勢を連れて来ないように信長がしむけ、本能寺で光秀によって家康を討たせるためのものとして信長が画策していたのではないか、という仮説が提示される。そうであればこそ、信長が非常に少ない家来しか連れていないこと、慎重な家康が京都に小人数の家来しか連れて来なかったこと、が説明できるのである。つまり、光秀は、信長の指示に従って京都に向けて発しているように見せかけて、家康と密約を交わした上で、本能寺で討つべき敵を家康ではなく信長に換えたのではないか、ということである。


2015年8月14日金曜日

【第472回】『日本人のためのピケティ入門』(池田信夫、東洋経済新報社、2014年)

 トマ・ピケティを読まねばと思いながらも、その厚さに恐れをなして避け続けてきた。Twitterでも興味深く拝読させていただいている著者が書かれた入門書を思い出し、今回、まずは手軽に勉強するために読んだ次第である。学部時代の初期は、経済学、特にマクロ経済学を好んで学んだものであるが、月日が経つのは恐ろしいもので、概念的な整理の部分から失念している。そうした初学者として臨んだ状態で学んだものを記していく。

 資本主義では歴史的に所得分配の格差が拡大する傾向があり、それは今後も続くだろうということです。(12頁)

 これが著者による『21世紀の資本』の要約である。続けて、あまりに有名な「r>g」という不等式についても簡潔明瞭にポイントを述べてくれている。

 「資本家のもうけが一般国民の伸びより大きく増えるので格差が拡大する」という意味です。おまけに資本ストックは蓄積されて相続されるので、資産の格差はますます広がります。(15頁)

 では、こうした資本主義が抱える根本的な構造に因る事象をどのように解決することが私たちに可能なのか。

 ピケティが提案するのは、グローバルな累進資本課税と、世界の政府による金融情報の共有です。しかしそれを実施するには、世界の主要国がきわめて高いレベルの国際協調を実現し、税率やその分配方法などについて合意する必要があり、今のところそれが実現する見通しはまったくありません。(75頁)

 ここで述べられている累進資本課税とは何か。最後に著者は、その意義を述べて本書を締め括っている。

 資本課税は、それに比べるとずっと控えめな改革です。それは資本主義と所有権を守りながら、r>gの生み出す危険な結果を防ごうとするものです。それは21世紀のグローバル資本主義をコントロールするための新しい制度です。その目的は所有権を尊重して個人の権利を守ることであって、所得の再分配ではないのです。(77頁)

2015年8月13日木曜日

【第471回】『吉本隆明が語る親鸞』(吉本隆明、東京糸井重里事務所、2012年)

 親鸞については、『代表的日本人』(内村鑑三、鈴木範久訳、岩波書店、1995年)や五木寛之さんの一連の著作で触れられているのを読み、興味を持ってきた。本書では、糸井重里さんとの対談を皮切りに、著者が親鸞について存分に語った一冊である。悪人正機や自然法爾といった、親鸞の語る言葉について、著者の解説が加えられており、私のような初心者にとって学びやすい一冊である。

 親鸞ははっきりと言っています。「善悪の問題を、第一義のことと錯覚してはいけない」とね。何かをしたほうがいい、あるいはしないほうがいいといった判断を「善悪」に基づいてしてしまうと、どうしても自己欺瞞に陥ってしまいます。そうではなく、「人には『契機』というものがあり、それによって『おのずから』何かをしたいと思ったらすればいいし、したくないと思うならしなくていい。そう考えればいいんだ」と言っています。「自然法爾」という言葉が仏教用語にありますが、これはまさに、人為ではなく、あくまでも「おのずから」に任せる、つまりは他力という状態でものごとを考えるということで、親鸞の考え方の、一つの核となる部分だと思います。(21頁)

 自然法爾や他力といった概念に関する簡潔かつ示唆に富んだ説明である。作為的な行動をなにもしない、善悪の判断を下さない、といった行なっては行けないことを述べた上で、具体的に何をするかに関して他力を中心に深掘りを行なっている。

 真実の信仰は、自分のほうから「こうすればこうなるに違いない」という計らいを一切出さない、あるいは、自分がなにか善い行いをすれば浄土へゆけるとか、一切考えない。ただその願いを込めた時にすでに、阿弥陀如来の光のなかに包まれてしまうという心の状態を実現する。そういう状態で念仏を十ぺんも称えれば浄土へゆける、という意味合いです。願うところですでに弥陀の光のなかに包まれてしまうという状態が重要なんだという言い方で、親鸞はそれを他力、あるいは他力のなかの他力だと註釈しています。(36~37頁)

 個々別々の短期的な判断を下すということではなく、生涯を通じた長い期間において念仏を称えること。親鸞は、短期的な結果を追うことではなく、永続的な世界の平安を視野に入れて他力の重要性を指摘しているのであろう。こうした考え方の規定には、彼の人間観が現れている。

 「人間は、真実の信仰の場所にいける時もあるし、また時に応じてそこにいけなくて、不信の状態に陥ることもある。人間はそういうものなんだ。だからそういうものにとって真宗の信仰は、どうなるのがいいのか」という具合に、親鸞は人間を理解しているわけです。(43頁)

 短期的な判断は、その時における人の状態や情況によって異なるものだ。親鸞は、こうした人間の情況による多様な側面という現実的な人間観を持っているために、他力や自然法爾に至ったのであろう。このように考えれば、彼の有名な悪人正機も同じ方向性にある思想であると理解できそうだ。その上で、悪人正機に対する大きな誤解の一つである、敢えて悪事を為そうとする態度に対して、以下のように述べているのではないかと著者は解説する。

 「わざと悪いことをするのはあんまり善いことじゃないよ」ということです。「でも、わざとということじゃないとすれば、いかような悪でもする可能性は誰にでもあるんだよ」という人間の理解の仕方を、していると思います。(57頁)

 あらゆる人には悪事をはたらく可能性があり、そうであっても念仏を称え続けることで浄土へいくことができる、ということが悪人正機説の捉え方であろう。したがって、敢えて、自分の判断を下して悪事を為すことは、悪人正機の射程外であり、そうした行為は善くないことであるとして親鸞は述べていることに留意が必要だろう。こうした悪事をなぜ人が行なうのかという点については、悪いと言われる嗜好をなぜ人が止められないのかをもとに例示した以下の部分が分かりやすい。

 人類はなぜ、体には悪いとわかっている、一時しのぎや一時の苦悩からの解放に過ぎない酒、煙草、麻薬を嗜むのか。誰でも契機があれば嗜むようになり得るのはなぜか。それは人間性にとって何なのかという問題も、また解かなければいけないわけです。
 こういう課題は、たぶん人類が理想的な社会制度をつくったそのあとでなお残される課題のような気がしますし、解決しなければならない問題のひとつのような気がします。(中略)
 こういう問題に対して、親鸞は「慈悲っていうのはふたつあるんだぜ、<往相の慈悲>と<還相の慈悲>というのがあるんだぜ」と言っているわけです。
 これをたとえば煙草問題でいえば、「煙草は吸うよりも吸わないほうが体にいいですよ」と勧めるのが、<往相の慈悲>だということです。一方、<還相の慈悲>というのがあって、<向こうから来る視線>で照らさなければ解決できない問題はありますよ、そうでなければ慈悲というのは間違いますよ、ということです。(188~189頁)

 ここでも自力と他力、短期と永続、という二つの軸の違いから理解できるだろう。つまり、<往相の慈悲>は短期的に自力で解決しようとする慈悲であり、<還相の慈悲>は永続的に他力に委ねようとする慈悲と捉えられるのではないか。前者の文脈でばかり物事を捉えようとする現代の私たちにとっては、特に後者のアプローチが重要なのではないだろうか。


2015年8月9日日曜日

【第470回】『二百十日』(夏目漱石、青空文庫、1906年)

 タイトルは、立春から数えて209日後を指す雑節から取られたと言われる。圭さんと碌さんという二人の男性が、阿蘇山へ登ろうとする旅中の対話が延々と続く。漱石特有の風刺に富んだユーモアが随所に織り交ぜられており、小気味好いテンポで読み進めることができる。

 言い棄てて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、黙然と、眉を軒げて、奈落から半空に向って、真直に立つ火の柱を見つめていた。(No. 451)

 淡々ととりとめもないことを話しながら、いよいよ阿蘇山へと登る前日に二人が眠りにつくシーンの描写である。圭さんの描写に、それまでと異なる雰囲気を感じ、阿蘇山でシリアスな出来事を予見したのであるが、結論としては特段のことは起こらない。私だけなのかもしれないが、こうしたちょっとした裏切られた感覚もまた、心地よい。

「しかし阿蘇へ登りに来たんだから、登らないで帰っちゃ済まない」
「誰に済まないんだ」
「僕の主義に済まない」
「また主義か。窮屈な主義だね。じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ」
「出直して来ちゃ気が済まない」
「いろいろなものに済まないんだね。君は元来強情過ぎるよ」(No. 879)

 なんとなくハッとさせられるやり取りである。まず、主義というものは自らで創り出して自分自身を拘束するもの、つまり疎外を生み出すものなのではないか、ということ。次に、何に対しても「済まない」という態度を取ることによって、自身だけではなく他者に対しても強い制約を与えてしまうということ。こうした二点を考えさせられた。

 二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出している。(No. 926)

 圭さんによる慷慨が碌さんにも伝染し、二人して社会への非難を述べながら物語が終わりに近づく。二人が気炎を吐く様子を、阿蘇山が放出する熱として形容する様は、落ち着きのある終わり方のようだ。

2015年8月8日土曜日

【第469回】『舞姫』(森鴎外、青空文庫、1890年)

 余が幼き頃より長者の教を守りて、学の道をたどりしも、任の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一条にたどりしのみ。余所に心の乱れざりしは、外物を捨てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。(Kindle No. 92)

 幼少の頃より天才の誉れの高い主人公。天才ゆえの苦悩に関する著者の表現が印象的である。傍からは悩みなどなさそうに見え、順風満帆に生活やキャリアを送っているような人間であっても、その人なりに悩みはつきものなのであろう。

 恥かしきはわが鈍き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人の事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。(Kindle No. 353)

 順境で決断を下す能力と、逆境で決断を下す能力とは、異なるものなのであろう。順境では、予定調和性の高い状況に対して合理的な最適解を導いて判断することは可能であろう。しかし、変化が激しく予定調和性の低い状況においては、そうした判断では対応することが難しく、非連続な決断が求められる。順境において判断を論理的に導き出せる人物こそ、逆境の中で決断を下せない自分に対して、苦しみを感じるものなのかもしれない。こうした順境における優秀な人物の、逆境における苦しさの吐露が、著者ならではの表現で為されているシーンである。


2015年8月2日日曜日

【第468回】『吾輩は猫である』(夏目漱石、青空文庫、1905年)

 漱石は好きで、よく読み返す。しかし、記憶が正しければ、本書を読んだのは小学生以来のはずだ。本書は、幼い頃に読んでもたのしめる作品だろう。彼独特の諧謔に富んだ表現は、老若男女問わず、その面白さを、その読み手なりに感得することができる。

 元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来て窘めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。(Kindle No. 162)

 猫の視点から、近代における人間を痛烈に風刺している箇所である。小気味好い表現であるとともに、反芻してみるとハッとさせられるものだろう。

 大きく云えば公平を好み中庸を愛する天意を現実にする天晴な美挙だ。(Kindle No. 2061)

 近代という社会においては、Aと非Aという対立構造をもとに、どちらかを選択し、その論拠を論理立てて説明することが求められる。それはさながら一つのゲームの様式のようである。しかし、ここで漱石は、そうしたゲームから外れて孔子における中庸の重要性を示唆している。

 なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥ずかし気もなく吐呑して憚らざる以上は、吾輩が金田に出入するのを、あまり大きな声で咎め立てをして貰いたくない。金田邸は吾輩の煙草である。(Kindle No. 2347)

 非人間として異世界を生きる猫により、私たちにとっての日常が相対化されている美しい箇所である。

 ただおかしいのはこの閑人がよると障わると多忙だ多忙だと触れ廻わるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。彼等のあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと云うが、気楽でよければなるが好い。そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと云うのは自分で火をかんかん起して暑い暑いと云うようなものだ。(Kindle No. 3666)

 人間疎外を端的に指摘された箇所であり、唸りながら読まざるを得ない。現代を生きる私たちにとっても、耳が痛い指摘ではないだろうか。

 世の中にはこんな頓珍漢な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目を施したつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。(Kindle No. 6451)

 人生訓として読ませる部分であろう。月並みではあるが、夜郎自大を避けて、謙虚に生きたいと改めて思わさせられる。


2015年8月1日土曜日

【第467回】『潮騒』(三島由紀夫、新潮社、1955年)

 三島が純愛を描くとどのような物語になるのか。本書が純愛をテーマとした書籍であることは認識していた。いざ読むまでは、『仮面の告白』『金閣寺』『豊饒の海』四部作における異様な愛情の印象が鮮烈であり、本書でも歪んだ愛情が描かれているのではないかと訝しんでいた。しかし、本作は、三島の作品とは思えないような、純愛が描かれた作品であり、きれいな日本語で書かれた文章によって、その美しさがさらに惹き出されている。

 若者は彼をとりまくこの豊饒な自然と、彼自身との無上の調和を感じた。彼の深く吸う息は、自然をつくりなす目に見えぬものの一部が、若者の体の深みにまで滲み入るように思われ、彼の聴く潮騒は、海の巨きな潮の流れ、彼の隊内の若々しい血潮の流れと調べを合わせているように思われた。新治は日々の生活に、別に音楽を必要としなかったが、自然がそのまま音楽の必要を充たしていたからに相違ない。(44頁)

 自然の奏でる音色を表現するとしたら、どのような文章になるのか。こうした問いが立てられるとしたら、上記が一つの模範回答となるのではないか。

 兄が漁からかえってくる時刻になって、宏はようやくおちついた。夕食後、母と兄の前で、手帖をひらいて、通りいっぺんの旅の話をした。すると聞きおわって満足したみんなは、もう話をせがむことをやめた。すべてはもとにかえった。ものを言わなくてもすべてが通じる存在になった。茶箪笥も、柱時計も、母も、兄も、古い煤けたかまども、海のどよめきも。……宏はそういうものに包まれてぐっすり眠った。(93頁)

 対比構造が面白い。修学旅行から帰って来た弟・宏と、彼を迎え入れたその兄と母との間の会話が、非日常から日常への移行と、動と静という二つの軸の対比で為されている。

 千代子の下駄は、ひとあしひとあし冷たい砂に沈んだ。砂は彼女の足の甲から、またしのびやかに流れ落ちた。だれも忙しくて千代子に目もくれなかった。毎日のなりわいの単調なしかし力強い渦が、この人たちをしっかりととらえ、その体と心を奥底から燃やしており、自分のように感情の問題に熱中している人間は、一人もいやしないのだと千代子は思うと、すこし恥かしい気持がした。(112~113頁)

 ここでも見事な対比構造に唸らされる。一時的な熱情と、永続的な日常とが対比されている。ここでの含意は二点であろう。一つめは、日常において、熱情によって動かされる人物は、遠景から浮かび上がることになるという点。もう一つは、熱意のある行動が、動くことが難しい日常にまで影響を確実に与えるという点。

 自然も亦、かれらに恩寵を垂れていた。昇りきって伊勢海をふりかえる。すると夜空は星に充たされ、雲といえば知多半島の方角に、ときどき音のきこえない稲妻を走らせている低い雲が横たわっているだけであった。潮騒も烈しくはなかった。海の健康な寝息のように規則正しく、寧らかにきこえた。(173頁)

 『潮騒』というタイトルにもあるように、本作では音の描写が際立っている。陸から孤絶した島での物語は、静謐の中にある幽かな音の美しさをあきらかにしている。

 今にして新治は思うのであった。あのような辛苦にもかかわらず、結局一つの道徳の中でかれらは自由であり、神々の加護は一度でもかれらの身を離れたためしはなかったことを。つまり闇に包まれているこの小さな島が、かれらの幸福を守り、かれらの恋を成就させてくれたということを。……(178頁)

 このようなエピローグを三島の作品で読むことになろうとは甚だ意外であった。しかし、こうした意外な感を抱きながらも、他の作品のように感動を静かな感動をおぼえるのだから、本作もまた名作の一冊として挙げられるのであろう。