漱石は好きで、よく読み返す。しかし、記憶が正しければ、本書を読んだのは小学生以来のはずだ。本書は、幼い頃に読んでもたのしめる作品だろう。彼独特の諧謔に富んだ表現は、老若男女問わず、その面白さを、その読み手なりに感得することができる。
元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来て窘めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。(Kindle No. 162)
猫の視点から、近代における人間を痛烈に風刺している箇所である。小気味好い表現であるとともに、反芻してみるとハッとさせられるものだろう。
大きく云えば公平を好み中庸を愛する天意を現実にする天晴な美挙だ。(Kindle No. 2061)
近代という社会においては、Aと非Aという対立構造をもとに、どちらかを選択し、その論拠を論理立てて説明することが求められる。それはさながら一つのゲームの様式のようである。しかし、ここで漱石は、そうしたゲームから外れて孔子における中庸の重要性を示唆している。
なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥ずかし気もなく吐呑して憚らざる以上は、吾輩が金田に出入するのを、あまり大きな声で咎め立てをして貰いたくない。金田邸は吾輩の煙草である。(Kindle No. 2347)
非人間として異世界を生きる猫により、私たちにとっての日常が相対化されている美しい箇所である。
ただおかしいのはこの閑人がよると障わると多忙だ多忙だと触れ廻わるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。彼等のあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと云うが、気楽でよければなるが好い。そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと云うのは自分で火をかんかん起して暑い暑いと云うようなものだ。(Kindle No. 3666)
人間疎外を端的に指摘された箇所であり、唸りながら読まざるを得ない。現代を生きる私たちにとっても、耳が痛い指摘ではないだろうか。
世の中にはこんな頓珍漢な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目を施したつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。(Kindle No. 6451)
人生訓として読ませる部分であろう。月並みではあるが、夜郎自大を避けて、謙虚に生きたいと改めて思わさせられる。
『三四郎』(夏目漱石、青空文庫、1908年)
『それから』(夏目漱石、青空文庫、1909年)
『門』(夏目漱石、青空文庫、1911年)
『彼岸過迄』(夏目漱石、青空文庫、1912年)
『行人』(夏目漱石、青空文庫、1914年)
『こころ』(夏目漱石、青空文庫、1914年)
『それから』(夏目漱石、青空文庫、1909年)
『門』(夏目漱石、青空文庫、1911年)
『彼岸過迄』(夏目漱石、青空文庫、1912年)
『行人』(夏目漱石、青空文庫、1914年)
『こころ』(夏目漱石、青空文庫、1914年)
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