2015年8月13日木曜日

【第471回】『吉本隆明が語る親鸞』(吉本隆明、東京糸井重里事務所、2012年)

 親鸞については、『代表的日本人』(内村鑑三、鈴木範久訳、岩波書店、1995年)や五木寛之さんの一連の著作で触れられているのを読み、興味を持ってきた。本書では、糸井重里さんとの対談を皮切りに、著者が親鸞について存分に語った一冊である。悪人正機や自然法爾といった、親鸞の語る言葉について、著者の解説が加えられており、私のような初心者にとって学びやすい一冊である。

 親鸞ははっきりと言っています。「善悪の問題を、第一義のことと錯覚してはいけない」とね。何かをしたほうがいい、あるいはしないほうがいいといった判断を「善悪」に基づいてしてしまうと、どうしても自己欺瞞に陥ってしまいます。そうではなく、「人には『契機』というものがあり、それによって『おのずから』何かをしたいと思ったらすればいいし、したくないと思うならしなくていい。そう考えればいいんだ」と言っています。「自然法爾」という言葉が仏教用語にありますが、これはまさに、人為ではなく、あくまでも「おのずから」に任せる、つまりは他力という状態でものごとを考えるということで、親鸞の考え方の、一つの核となる部分だと思います。(21頁)

 自然法爾や他力といった概念に関する簡潔かつ示唆に富んだ説明である。作為的な行動をなにもしない、善悪の判断を下さない、といった行なっては行けないことを述べた上で、具体的に何をするかに関して他力を中心に深掘りを行なっている。

 真実の信仰は、自分のほうから「こうすればこうなるに違いない」という計らいを一切出さない、あるいは、自分がなにか善い行いをすれば浄土へゆけるとか、一切考えない。ただその願いを込めた時にすでに、阿弥陀如来の光のなかに包まれてしまうという心の状態を実現する。そういう状態で念仏を十ぺんも称えれば浄土へゆける、という意味合いです。願うところですでに弥陀の光のなかに包まれてしまうという状態が重要なんだという言い方で、親鸞はそれを他力、あるいは他力のなかの他力だと註釈しています。(36~37頁)

 個々別々の短期的な判断を下すということではなく、生涯を通じた長い期間において念仏を称えること。親鸞は、短期的な結果を追うことではなく、永続的な世界の平安を視野に入れて他力の重要性を指摘しているのであろう。こうした考え方の規定には、彼の人間観が現れている。

 「人間は、真実の信仰の場所にいける時もあるし、また時に応じてそこにいけなくて、不信の状態に陥ることもある。人間はそういうものなんだ。だからそういうものにとって真宗の信仰は、どうなるのがいいのか」という具合に、親鸞は人間を理解しているわけです。(43頁)

 短期的な判断は、その時における人の状態や情況によって異なるものだ。親鸞は、こうした人間の情況による多様な側面という現実的な人間観を持っているために、他力や自然法爾に至ったのであろう。このように考えれば、彼の有名な悪人正機も同じ方向性にある思想であると理解できそうだ。その上で、悪人正機に対する大きな誤解の一つである、敢えて悪事を為そうとする態度に対して、以下のように述べているのではないかと著者は解説する。

 「わざと悪いことをするのはあんまり善いことじゃないよ」ということです。「でも、わざとということじゃないとすれば、いかような悪でもする可能性は誰にでもあるんだよ」という人間の理解の仕方を、していると思います。(57頁)

 あらゆる人には悪事をはたらく可能性があり、そうであっても念仏を称え続けることで浄土へいくことができる、ということが悪人正機説の捉え方であろう。したがって、敢えて、自分の判断を下して悪事を為すことは、悪人正機の射程外であり、そうした行為は善くないことであるとして親鸞は述べていることに留意が必要だろう。こうした悪事をなぜ人が行なうのかという点については、悪いと言われる嗜好をなぜ人が止められないのかをもとに例示した以下の部分が分かりやすい。

 人類はなぜ、体には悪いとわかっている、一時しのぎや一時の苦悩からの解放に過ぎない酒、煙草、麻薬を嗜むのか。誰でも契機があれば嗜むようになり得るのはなぜか。それは人間性にとって何なのかという問題も、また解かなければいけないわけです。
 こういう課題は、たぶん人類が理想的な社会制度をつくったそのあとでなお残される課題のような気がしますし、解決しなければならない問題のひとつのような気がします。(中略)
 こういう問題に対して、親鸞は「慈悲っていうのはふたつあるんだぜ、<往相の慈悲>と<還相の慈悲>というのがあるんだぜ」と言っているわけです。
 これをたとえば煙草問題でいえば、「煙草は吸うよりも吸わないほうが体にいいですよ」と勧めるのが、<往相の慈悲>だということです。一方、<還相の慈悲>というのがあって、<向こうから来る視線>で照らさなければ解決できない問題はありますよ、そうでなければ慈悲というのは間違いますよ、ということです。(188~189頁)

 ここでも自力と他力、短期と永続、という二つの軸の違いから理解できるだろう。つまり、<往相の慈悲>は短期的に自力で解決しようとする慈悲であり、<還相の慈悲>は永続的に他力に委ねようとする慈悲と捉えられるのではないか。前者の文脈でばかり物事を捉えようとする現代の私たちにとっては、特に後者のアプローチが重要なのではないだろうか。


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