2015年8月15日土曜日

【第473回】『本能寺の変 四二七年目の真実』(明智憲三郎、プレジデント社、2009年)

 姓を見れば分かるように、著者は明智光秀の末裔の方である。主君討ちという反逆の徒として描かれる明智光秀による本能寺の変について、史実をもとにしながら新たな解釈を試みる意欲作だ。むろん、史実というものは、誰がどのように解釈するかという主観が入るために、唯一無二の正しい歴史というものは存在しない。しかし、著者の主張は、合理的で納得性の高いものが多く、本能寺の変に関する一つの解釈として傾聴に値するのではないだろうか。

 光秀を本能寺の変へと駆り立てた理由として、光秀と信長との性格の相違や相性の悪さという属人的な要素が取り上げられることが多いが、著者はこうした要素を取り除いている。要約すれば、織田軍内の権力構造、土岐氏復権への想い、徳川家康との共闘体制の構築、という三点から本能寺の変が成立したと著者は主張していると言えよう。

 第一に、織田軍内の権力構造について見てみよう。

 第一次構造改革は(中略)譜代の家臣である佐久間信盛、林通勝、安藤守就、丹羽右近らを追放して大幅な政権・領国の再編を実施しました。「譜代から実力派へ」の再編で、これにより譜代家臣を退けて光秀、秀吉、滝川一益ら実力派家臣を織田家臣団の主流に引き上げたのです。(中略)
 これに対して第二次構造改革は、今度は「実力派から織田家直轄へ」の再編でした。
 信長はすでに二十代半ばとなっていた三人の息子、信忠、信雄、信孝に重要な地位と領地を与える一方、それまで信長を支えてきた武将たちは各方面軍司令官として遠国に派遣し、征服した地に移封し始めていました。(81頁)

 第一次構造改革において取り立てられた実力派の武将が、当時の改革段階においては、天下統一の名の下に中国、四国、北陸、関東といった地方へと配置換えされていた。そうして、京都や安土の近くには信長の息子たちの領土にすることで、織田家による中長期的な政権運営へと信長は舵取りを切っていた。したがって、光秀にとっても領地替えは時間の問題であったわけであるが、そこに光秀の出自に伴う異動への強い抵抗感が生じた。これが第二の土岐氏の復権への想いである。

 信長は、光秀が土岐氏の盟主であることの意味を見落としたのです。この一件が光秀を極限状態にまで追い詰めることになるとは、信長は露とも気づかなかったのです。信長が光秀の謀反に最後まで全く警戒心を持たなかった謎、その理由の一つはここにあったのです。
 土岐氏は足利幕府を支えた名門であり、美濃・尾張・伊勢を基盤として一族の結束を誇っていました。それが三十年前に美濃守護を追われて没落、「落ちぶれ果てた」状態に陥っていたところに土岐氏再興の盟主として現れたのが光秀でした。光秀のもとに土岐桔梗一揆といわれる強固な結束力を誇る家臣団が再結成されたのです。この家臣団は、美濃を中心とした父祖伝来の地へのこだわりと一族の結束への願望を強く抱いていました。
 そこへ降って湧いたこの移封は、光秀家臣団の分断・弱体化を意味するものでした。(115~116頁)

 信長の息子たちによる政権運営への移行は、必然的に、安土と京都の間に領地を持つ光秀の領地替えを伴う。合理的な思考の持主である信長にとっては、家や土地といったものに対する愛着や尊敬の念を理解できず、現在の領地より客観的に好条件の場所への移封を拒否されるとは想像できなかったのであろう。合理精神では測れない理性を超えた範疇にある土岐氏再興への想いが、光秀を精神的に追い詰め、信長の思い描く政権運営を否定すること、すなわち謀叛を考えせしめた。こうした土地や領土に対する愛着や移動への拒否反応はなにも光秀に限定されるものではない。多寡の差はあれども、第一次構造改革時に取り立てられた武将たちにも共通する感覚であったであろう。これが第三の理由、つまり家康との連携による信長への対抗へと繋がる。

 光秀は家康に対して、家康自身と徳川家の危機について説明し、それを救うためにも謀反を起こして信長を討つこと、その後の政権樹立のために手を結ぶことを申し入れたに違いありません。家康はこの申し入れを受け入れました。光秀は家康の命を救ってくれるだけでなく、嫡男信康と正室築山御前の仇も討ってくれるのです。(中略)
 こうして、家康は信長の招きに応じて上洛する決心をすると同時に、いざという時に大坂・堺からどう脱出するかを周到に準備したのです。信長が家康を油断させるために中国出陣でカムフラージュしたのと同じように、家康は信長を油断させるために、わざと信長の術中にはまったように振舞ったのです。(152頁)

 まず第二の理由に基づき、信長や家康の領地を没収し自身の子息に譲ろうとしていたと著者はしている。その上で、東の武田とのパワー・バランス上で必要であった家康が、武田亡きあとには不要になり、むしろ信長にとって脅威にしかならなくなった。したがって、「本能寺の変」とは、家康に小人数しか手勢を連れて来ないように信長がしむけ、本能寺で光秀によって家康を討たせるためのものとして信長が画策していたのではないか、という仮説が提示される。そうであればこそ、信長が非常に少ない家来しか連れていないこと、慎重な家康が京都に小人数の家来しか連れて来なかったこと、が説明できるのである。つまり、光秀は、信長の指示に従って京都に向けて発しているように見せかけて、家康と密約を交わした上で、本能寺で討つべき敵を家康ではなく信長に換えたのではないか、ということである。


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