2015年8月1日土曜日

【第467回】『潮騒』(三島由紀夫、新潮社、1955年)

 三島が純愛を描くとどのような物語になるのか。本書が純愛をテーマとした書籍であることは認識していた。いざ読むまでは、『仮面の告白』『金閣寺』『豊饒の海』四部作における異様な愛情の印象が鮮烈であり、本書でも歪んだ愛情が描かれているのではないかと訝しんでいた。しかし、本作は、三島の作品とは思えないような、純愛が描かれた作品であり、きれいな日本語で書かれた文章によって、その美しさがさらに惹き出されている。

 若者は彼をとりまくこの豊饒な自然と、彼自身との無上の調和を感じた。彼の深く吸う息は、自然をつくりなす目に見えぬものの一部が、若者の体の深みにまで滲み入るように思われ、彼の聴く潮騒は、海の巨きな潮の流れ、彼の隊内の若々しい血潮の流れと調べを合わせているように思われた。新治は日々の生活に、別に音楽を必要としなかったが、自然がそのまま音楽の必要を充たしていたからに相違ない。(44頁)

 自然の奏でる音色を表現するとしたら、どのような文章になるのか。こうした問いが立てられるとしたら、上記が一つの模範回答となるのではないか。

 兄が漁からかえってくる時刻になって、宏はようやくおちついた。夕食後、母と兄の前で、手帖をひらいて、通りいっぺんの旅の話をした。すると聞きおわって満足したみんなは、もう話をせがむことをやめた。すべてはもとにかえった。ものを言わなくてもすべてが通じる存在になった。茶箪笥も、柱時計も、母も、兄も、古い煤けたかまども、海のどよめきも。……宏はそういうものに包まれてぐっすり眠った。(93頁)

 対比構造が面白い。修学旅行から帰って来た弟・宏と、彼を迎え入れたその兄と母との間の会話が、非日常から日常への移行と、動と静という二つの軸の対比で為されている。

 千代子の下駄は、ひとあしひとあし冷たい砂に沈んだ。砂は彼女の足の甲から、またしのびやかに流れ落ちた。だれも忙しくて千代子に目もくれなかった。毎日のなりわいの単調なしかし力強い渦が、この人たちをしっかりととらえ、その体と心を奥底から燃やしており、自分のように感情の問題に熱中している人間は、一人もいやしないのだと千代子は思うと、すこし恥かしい気持がした。(112~113頁)

 ここでも見事な対比構造に唸らされる。一時的な熱情と、永続的な日常とが対比されている。ここでの含意は二点であろう。一つめは、日常において、熱情によって動かされる人物は、遠景から浮かび上がることになるという点。もう一つは、熱意のある行動が、動くことが難しい日常にまで影響を確実に与えるという点。

 自然も亦、かれらに恩寵を垂れていた。昇りきって伊勢海をふりかえる。すると夜空は星に充たされ、雲といえば知多半島の方角に、ときどき音のきこえない稲妻を走らせている低い雲が横たわっているだけであった。潮騒も烈しくはなかった。海の健康な寝息のように規則正しく、寧らかにきこえた。(173頁)

 『潮騒』というタイトルにもあるように、本作では音の描写が際立っている。陸から孤絶した島での物語は、静謐の中にある幽かな音の美しさをあきらかにしている。

 今にして新治は思うのであった。あのような辛苦にもかかわらず、結局一つの道徳の中でかれらは自由であり、神々の加護は一度でもかれらの身を離れたためしはなかったことを。つまり闇に包まれているこの小さな島が、かれらの幸福を守り、かれらの恋を成就させてくれたということを。……(178頁)

 このようなエピローグを三島の作品で読むことになろうとは甚だ意外であった。しかし、こうした意外な感を抱きながらも、他の作品のように感動を静かな感動をおぼえるのだから、本作もまた名作の一冊として挙げられるのであろう。


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