2015年8月9日日曜日

【第470回】『二百十日』(夏目漱石、青空文庫、1906年)

 タイトルは、立春から数えて209日後を指す雑節から取られたと言われる。圭さんと碌さんという二人の男性が、阿蘇山へ登ろうとする旅中の対話が延々と続く。漱石特有の風刺に富んだユーモアが随所に織り交ぜられており、小気味好いテンポで読み進めることができる。

 言い棄てて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、黙然と、眉を軒げて、奈落から半空に向って、真直に立つ火の柱を見つめていた。(No. 451)

 淡々ととりとめもないことを話しながら、いよいよ阿蘇山へと登る前日に二人が眠りにつくシーンの描写である。圭さんの描写に、それまでと異なる雰囲気を感じ、阿蘇山でシリアスな出来事を予見したのであるが、結論としては特段のことは起こらない。私だけなのかもしれないが、こうしたちょっとした裏切られた感覚もまた、心地よい。

「しかし阿蘇へ登りに来たんだから、登らないで帰っちゃ済まない」
「誰に済まないんだ」
「僕の主義に済まない」
「また主義か。窮屈な主義だね。じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ」
「出直して来ちゃ気が済まない」
「いろいろなものに済まないんだね。君は元来強情過ぎるよ」(No. 879)

 なんとなくハッとさせられるやり取りである。まず、主義というものは自らで創り出して自分自身を拘束するもの、つまり疎外を生み出すものなのではないか、ということ。次に、何に対しても「済まない」という態度を取ることによって、自身だけではなく他者に対しても強い制約を与えてしまうということ。こうした二点を考えさせられた。

 二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出している。(No. 926)

 圭さんによる慷慨が碌さんにも伝染し、二人して社会への非難を述べながら物語が終わりに近づく。二人が気炎を吐く様子を、阿蘇山が放出する熱として形容する様は、落ち着きのある終わり方のようだ。

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