2016年10月30日日曜日

【第638回】『会社の中はジレンマだらけ』(本間浩輔・中原淳、光文社、2016年)

 ヤフーの上級執行役員と東大の准教授との対談。両者のセッションは数年前に伺ったことがあり、ヤフーの人事のしくみに感銘を受けていたので、本書もたのしみにしていたところ、期待に応える良書であった。

 まずはヤフーにおいてフィードバック文化を醸成した1on1ミーティングについて。

 社内で、部下と上司の関係性について調査したことがあるんですが、社員に「どんなときに一番モチベーションが上がりましたか」と尋ねたところ、「上司が黙って話を聞いてくれたとき」という答えが上位に入りました。上司の側には、1on1の場で部下に何かとんでもないことを言われるんじゃないかという恐怖もあるんですが、実際には、部下はいつも上司に解決策を求めているのではなく、話を聞いてほしいだけというケースが多いんです。(34頁)

 ヤフーでは毎週1on1ミーティングを行っている。そんなに何を上司は話すことができるのかという異論が出そうであるが、本間氏は端的に話したり解決策を示すのではなく話を聴くことが重要であると指摘している。同意である。聴くことで、部下が何に関心を持って働いているのか、何に困っているのか、どういう優先順位付けをしているのか、いろいろと分かることはある。一通り聴き終わった後にはフィードバックをすると良い。

 フィードバックも同じで、上司が部下の鏡になって「こう見えているよ」と教えてあげればいいんです。「見える」という言い方が大事で、そこに「なんでできないんだ」とか「あんなことやってどうするんだ」という評価を加える必要はない。(49頁)

 上述した通り、解決策を示す必要はなく、加えて部下の話に価値判断を示す必要もない。シンプルに、どのように客観的に見えるのかについて示してあげれば良い。そうすることによって、部下側としては自分の言っていることがどのように他者に映るのかを把握することができ、自分で自分の抱える課題に気づくことができる。

 本間さんは面白いですね。ある仕組みをつくったら、必ずそのカウンターとなる仕組みも併せてつくりますよね。そういう思考の人なんだろうけど、人を信じている一方で、過剰に信頼しすぎてもいない。人を信じて、人を信じすぎず。これもマネジメントの妙味ですね。(136頁)

 1on1ミーティングという上司から部下への施策に加えて、部下側からのフィードバックを仕組みとして設けようとしている旨を本間氏は述べている。それに対する中原氏の発言が上記引用箇所であり、なるほど、妙味のある考え方であると唸らさせられる。


2016年10月29日土曜日

【第637回】『ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則』(J・C・コリンズ、山岡洋一訳、日経BP社、2001年)

 あの『ビジョナリーカンパニー』の続編ではあるが、著者によれば内容としては前編である。「良い企業」と「偉大な企業」との違いが、また「良い」状況が「偉大な」状況へと発展することをいかに阻害するかが描かれた、前作と並び賞させる古典と言えるだろう。

 規律ある人材が、規律ある考えに基づいて、規律ある行動を取り続けることによって「偉大な企業」を創り上げていくことを描写した本作。こうした三つのステップの最初である「規律ある人材」について考えさせられる部分が多かった。

 第五水準の指導者は成功を収めたときは窓の外を見て、成功をもたらした要因を見つけ出す(具体的な人物や出来事が見つからない場合には、幸運をもちだす)。結果が悪かったときは鏡を見て、自分に責任があると考える(運が悪かったからだとは考えない)。(56頁)

 規律ある人材の第一の要素である「第五水準のリーダーシップ」では、旧来のリーダーとは異なる人材像が提示されている。出版当時は、GEのジャック=ウェルチやIBMのルイス=ガースナーがいて、スティーヴ=ジョブズがアップルのトップとして復帰するなどカリスマ型のリーダーが持て囃されていた時代だ。そうした時代に謙虚なリーダーシップ像を提示し、それ以降の趨勢を考えれば、第五水準のリーダーシップの正当性がわかるものであり、著者の示唆の素晴らしさに脱帽する。

 第五水準のリーダーシップでリーダー像が提示された後は、その鏡となるフォロワーシップとしての人材について述べられている。

 偉大な企業への飛躍に際して、人材は最重要の資産ではない。適切な人材こそがもっとも重要な資産なのだ。(81頁)

 人材が大事と言葉で言うことは易しい。しかし、人材が大事なのではなく、適切な人材が大事であるという著者の指摘は重たい。ではなぜ人材一般ではなく、適切な人材こそが大事であるという指摘を著者は行ったのか。

 不適切な人物が職にしがみついているのを許していては、周囲の適切な人たちに対して不当な行動をとることになる。不適切な人物がしっかりした仕事をしないので、適切な人たちが尻ぬぐいや穴埋めをするしかなくなるからだ。それ以上に問題なのは、最高の人材が辞めていく原因になりかねないことだ。すぐれた業績をあげる人たちは業績向上を強く願っていて、これを仕事の原動力にしている。自分が努力しても不適切な人たちに足を引っ張られると考えるようになれば、いずれ苛立ちが嵩じてくる。(90頁)

 理由はシンプルである。適切でない人材は、仕事を適切にしないというよりも、その存在によって適切な人材を含めた周囲の人材の負担になるからである。そうした人材が多ければ、適切な人材が活躍の場を他に求めることは自明であろう。人事として、いかに適切な人材を処遇するかということとともに、いかに不適切な人材に毅然とした行動をとるかを検討することが必要不可欠である。


2016年10月24日月曜日

【第636回】『日本社会の歴史(下)』(網野善彦、岩波書店、1997年)

 シリーズ三部作の完結編。鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代から安土桃山時代および江戸幕府が開かれる頃までを中心に論じられている。

 六〇年間の動乱の中で、王権、政治権力はまさしく四分五裂の状況にあったが、そのなかで諸地域の独自な動きはむしろ活性化し、社会全体の転換はこの間、さらに大きく進行した。
 十三世紀後半以後、前述したように、貨幣経済は軌道に乗っていたが、銭貨はさらにいっそう広く深く社会に浸透し、各地の荘園・公領の年貢が市場で売却され、公事、夫役などの負担を含めて、すべてが銭に換算されて支配者のもとに送られるようになった。地頭・御家人の所領からの得分を銭に換算し、貫高で表示するようになるのは、前述したように十三世紀後半までさかのぼりうるが、この時期になると、そうした貫高表示は一般的に行われるようになっている。(35頁)

 十四世紀頃からの社会の描写である。貨幣経済が広く浸透したことにより、地域をまたいだ交易が盛んになった様子がわかる。

 安定した自治組織を確立しはじめた村落や都市は、依然として遍歴・漂泊を続ける自立的な宗教民、芸能民、商工民に対し、警戒心を強め、それが差別の生ずるひとつの理由になっている。(中略)
 さらにこのころの社会の文明化の進展、人間と自然との関係の新たな変化にともない、穢れに対する社会の対処の仕方にも大きな変化がおこってきた。かつて人の力を超えた畏怖すべき事態であった穢れは、この時期になると、むしろ汚穢として忌避されるようになってくる。(46~47頁)

 中世において村組織が安定してからは、地域に安定しない人々に対する差別が生じたという。日本企業において、転職というものがイレギュラーであり、転職者に対する穿った見方が生じた背景には、こうした「村社会」文化があると考えるのは行き過ぎであろうか。

 また、現代にまで続く差別ー被差別の関係性もこのころから生じたとする。差別される対象というのは、私たちの<普通>の社会から離れた存在である。

 戦国大名は、職人、商人、廻船人によって形成された自治的な都市における市場での自由な取引を公認し、楽市、「十楽之津」であることを認めつつ、調停者、支配者としての自らの立場を固めようとしていた。おのずと戦国大名は商工業者や貿易商人に与えられた宗教勢力に対しても、無縁所の特権を安堵するなど、その自立的な活動を積極的に認める保護者としての立場に立つことによってその立場を強化しようとした。
 こうした戦国大名の姿勢は、村を支配している国人、地侍などの領主に対しても同様で、その所領を安堵してその独自な支配を公認し、領主や国人の一揆とそれを背景にした合議体による領主間の盟約を調停者として保障する立場に立ち、政治的な共同体となった「国家」を構成する人民ー「国民」を保護する義務を負うことによって、大名は地域の支配者としての立場を保っていた。(86~87頁)

 日本における国家とは明治から始まるものであると考えられがちであるが、小さい単位での国家は戦国時代に原型があるのだろう。少なくとも、私たちの意識に潜在的に存在している可能性があることを意識するべきだろう。


2016年10月23日日曜日

【第635回】『日本社会の歴史(中)』(網野善彦、岩波書店、1997年)

 シリーズ第二作。本作では、十~十四世紀前半、つまり摂関政治から鎌倉幕府の崩壊までの時代における社会の変遷が扱われている。

 行事が自然の運行と関連させて考えられていただけに、自然と社会との均衡を一時的に崩す死、出産、火事などによって生ずる穢れ、しかも垣根や門によって仕切られた空間では伝染すると考えられていた穢れが、天皇や朝廷、あるいは神社に及ぶことは非常に強く忌避され、それを清めるための忌籠りの期間などの細かい手続も定められた。これも平安京の都市化にともなう現象ということができる。(24頁)

 自然によって生じるアクシデントのような出来事における細かな手続には辟易とさせられることも多い。当事者の想いや意志を発揮できる部分が限られており、ルールを墨守することが目的となっているように感じられるからだ。しかし、そうした細かな手続きができあがる背景には理由がある。ここでは、権力主体や神仏が、穢れと意識的に切り離されるためのものとして忌籠りなどの細かなルールができあがったと描出されている。

 道長は、わずか一年ほどで摂政も太政大臣も辞職し、彼のあとをうけて摂政となった子息頼通の背後にあって、「大殿」として実質的に国政を指導し続けていくことになる。このように公的な地位と、実質上の権力者「大殿」とが分離したことは、摂関家という「家」が成立していたこと、また実質の権力を世襲する「摂関職」ともいうべき実態が形成されつつあったことを物語っている。(29頁)

 藤原摂関政治ができあがった前提条件として、イエという制度が確立していたからという指摘が示唆的である。現在ではイエという概念は当たり前のように捉えているが、平安期以前は、「万世一系」という物語によって創られた天皇だけがそうした概念で括られる唯一の存在であったのだろう。藤原氏という豪族の絶対的権力者による世襲体制が摂関政治の形成によって実現して初めて、イエによる権力継承のスタイルができあがったのである。

 奇蹟ともいうべき暴風による元軍の敗退を、大寺社は祈禱による効果とし、これを「神風」と強調して、祈禱に対する恩賞を王朝と幕府に強く求めた。そのなかで神明の加護する「神国日本」という見方が広く流布されるようになったが、それが一方では、関東の王権を中心に「日本国」の全力をあげ、法華経の力によって外敵から守ろうと主張した日蓮とその信徒たちに対するきびしい弾圧をともなっていたことに注意する必要がある。「日本国」意識は、たしかに元との戦争によって以前よりも列島社会に浸透するが、そこでは呪術的色彩を強くもつ神仏の力に自らの利益を見出そうとする寺社の主導した見方が優位を占めていたのである。(167~168頁)

 著者によれば、元寇以前においても「日本国」という意識は存在したが、そこには神仏による呪術的色彩が強かったとしている。それが、元寇以降においては、呪術的色彩が薄れ、いわば空気としての「神国日本」という意識が流布されたという。「神国」という本来的に宗教色のある言葉でありながらも、権力主体としての国家と結びつく過程の描写は、示唆的でありながら、恐ろしさも感じるのは言い過ぎであろうか。

 十三世紀後半に入ると、文字の社会への浸透が著しくなり、読み、そして書く文字として発達してきた平仮名を漢字に混じえた文書を、侍クラスの人はもとより主だった平民百姓も書き、同様のクラスの女性たちもまた平仮名の書状を書くようになってきた。(中略)
 この時期になると、主だった百姓が、たとえば新次郎、又四郎などの同じ仮名を代々名乗る傾向がみえるので、家産と結びついたイエが平民百姓のなかにも形成されてきたと考えられるが、荘園・公領の諸単位には、そうしたイエの集団としての安定した村落がしだいに形成されつつあった。(170~171頁)

 平安中期における摂関政治に見たイエ制度の浸透は、十三世紀後半に一般的な百姓の単位にまで定着したようだ。その定着の背景には、文字の浸透という土台があったことにも留意すべきだろう。イエという概念を理解し人々の間で共有するためには、公共語としての日本語という言語の敷衍が必要不可欠なのである。

【第580回】『東大のディープな日本史』(相澤理、中経出版、2012年)
【第333回】『山本七平の日本の歴史<上>』(山本七平、ビジネス社、2005年)

2016年10月22日土曜日

【第634回】『日本社会の歴史(上)』(網野善彦、岩波書店、1997年)

 本書は、日本の歴史ではなく日本「社会」の歴史について述べられたものである。誰が何を行ったかではなく、それをもとに権力間の関係性や権力と人民との関係性がどのように変化してきたのかが丹念に述べられている。私たちの社会がどのような変遷を経て形成してきたのかを学ぶことができる。

 水田などの耕地の開発は、自然との格闘を通じて進められるが、その際、自然と人間の世界の境、あるいはそれぞれの集団の居住地域の境に、石や木などの標を立てて神を祭るとともに、山や川、巨石、巨木などに神を見て、それを祖先の神々の宿る聖地・聖域として祭ることも広く行われ、このころになれば、人里近くに社のような施設をつくることも行われるようになってきた。もとより農耕民だけではなく、海民、山民も海の神、山の神に対する独自な祭祀・儀礼を行っていたが、首長たちの服属を推し進める過程で、大王と近畿の首長たちはこれらの祭りをみずからの祭祀体系のなかにとり込み、首長たちの祭る神々と大王の祖先神とを結びつけてそれを「神話」=政治的な物語のなかに位置づけ、自らの支配の正当化をはかったのである。大王自身の祖先神の祭りを太陽信仰の聖地、伊勢において行うようになるのがいつからかについてはさまざまな考え方があるが、それをこのころとする見方も有力である。(73~74頁)

 五世紀後半からの大王を中心とした権力主体による国家形成過程が明らかにされている。自然とそれに基づく自然信仰が各地で独自に存在していた状態から、それらを束ねる形で神話が創造され、それによって大王が<日本>を束ねるという構図が形作られた。自然と私たちとの生活に基づく信仰が権力主体に取り込まられる構図の萌芽と言える動きであろう。

 こうした、人の力の及ばぬ自然、神仏の世界と人間の世界との境界として、河原・中洲・浜や巨木の立つ場所に、人びとは市を立てた。そこは神の力の及ぶ場であり、世俗の人と人、人と物の結びつきが切れるとされており、人びとはそこに物を投げ入れることによって、これを商品として交換しうる物とした。共同体をこえて人びとは市庭に集まり、畿内周辺では銭貨も用いたが、米・布・絹などを主な交換手段として、交易を活発に行った。(162頁)

 八世紀前後の畿内の様子である。神仏と市場との関係性が現れている。神道や仏教において金銭が忌み嫌われる歴史と、しかしながら神仏と市場との密接な関係性において交易が発展してきた背景とが明らかにされている。

 この時期の政府は、全体として律令の建前をなおいちおうは保ちつつ、実際には現地の問題の処理を次第に国司に委ねるようになっていたが、神社や寺院の変動についても成り行きに任せる姿勢が目立つようになった。
 しかしこうした平民たちの神観念の動揺のなかにあって、各地域を遍歴遊行して教化を進める僧侶があらわれ、これらの僧侶たちは、神が苦悩しており、その苦悩を仏が救うという考え方に立って仏教の布教をすすめた。こうして「神仏習合」といわれる動きがここに一段と顕著になり、神社に結びついた神宮寺の建立の動きが各地でみられるようになったが、同時にまた、仏教と習合して人格神の性格を持つようになった神を、仏像にならって神像に彫刻して表現することがさかんに行われた。(205~206頁)

 八世紀後半において、中央における政府から派遣された国司による支配形態が浸透し始める。しかし、そうした政治的な権力主体は、地方においては単独で成り立つことは難しく、宗教組織との相互依存関係が必要であった。さらに言えば、神道と仏教との習合が当時から為されていたというところが、クリスマスを祝い、新年を神社で迎え、法事を寺院で行うという現代日本人の宗教に対する寛容さを現していると言えるのではないだろうか。

2016年10月17日月曜日

【第633回】『50円のコスト削減と100円の値上げでは、どちらが儲かるのか?』(林總、ダイヤモンド社、2012年)

 『餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?』シリーズの著者が、安曇教授以外の登場人物を変えて送る新たなストーリー。

 売上高ー材料費(変動費)=限界利益
 限界利益ー固定費=利益

 76頁にある上記の基礎的な知識を踏まえながら、「限界利益とは、会社が生み出した付加価値そのものなのだ」(67頁)と限界利益の本質を端的に表すのはさすがである。

 『餃子屋~』も面白かったが、本書が私には最も興味深く、かつ何度も読みたいと思える一冊であった。というのも、会計の基礎知識を学べることは同シリーズと同じであるが、会計、つまりは財務の視点を取っ掛かりとしてBSCの他の三つの視点とを結びつけながら学ぶことができるからだ。とりわけ143頁でまとめられている業務プロセスの視点についてのポイントが秀逸である。

 ①商品とサービスを顧客満足につなげる
 ②生産性を向上させる
  (1)コストの削減
   ・歩留まり率を高めて材料費率(変動費率)を減らす
     食材のムダ使いをやめて歩留まり率を高める
   ・固定費の増加を抑える
     贅肉(ムダな費用)はそぎ落とす。
     だが筋肉(会社にとって不可欠な費用)は減らさない。
  (2)資産の活用 
   ・設備の稼働率を高める
   ・在庫(棚卸資産)の回転速度を速める

 こうして、限界利益と業務プロセスの視点にある在庫との関係から、「現金を稼ぎ出す力」(150頁)として定義される利益ポテンシャルの説明に移る流れは見事だ。

 利益ポテンシャル=限界利益÷在庫金額(150頁)

2016年10月16日日曜日

【第632回】『コハダは大トロよりなぜ儲かるのか?』(林總、ダイヤモンド社、2009年)

 『餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?』『美容院と1,000円カットでは、どちらが儲かるか?』に続くシリーズ第三弾。ビジネスフィクションものの宿命ではあるが、立て続けに困難な出来事が訪れ、それに立ち向かう主人公たちがかわいそうにも思える。

 しかし、その戦いの様を読み込むことで、私たちが仮想的に主人公たちが直面している環境を追体験し、そこから学べるのだからありがたいものだ。

 いいかな。君がこれまでに学んだ知識は、会計の先人たちが長い歳月をかけて考えたもので、君が努力して考え出したものではない。借り物に過ぎないのだよ。大切なのは、管理会計理論を、君の経験を通して理解することだ。その過程で、いろんなことが見えてくる。管理会計がいかに素晴らしいか。そして、いかに欠陥だらけか、ということもね。経験を積むことで、先人の知識は君の血肉になる。君の価値観になるのだ(31頁)

 論語の「学んで思わざれば即ち罔し。思うて学ばざれば即ち殆うし。」(為政第二・一五)を彷彿とさせられる。何かを学ぶということは、考えることとセットであり、それは体験をしてそこから内省して腹に落とすことを含むのである。

 利益と営業キャッシュフローのねじれの原因は「運転資本の増加」です。(165頁)

 極めて個別具体的な内容であるが、現在興味があるテーマに直結するものであるため、備忘録的に引用しておいた。
【第170回】『戦略不全の論理』(三品和広、東洋経済新報社、2004年)
【第248回】『経営戦略の論理(第4版)』(伊丹敬之、日本経済新聞社、2012年)
【第573回】『経営戦略を問いなおす』(三品和広、筑摩書房、2006年)

2016年10月15日土曜日

【第631回】『美容院と1,000円カットでは、どちらが儲かるか?』(林總、ダイヤモンド社、2008年)

 『餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?』に続くシリーズ第二弾。本作では、前作で学んだ会計の知識をどのようにビジネスの中で活かすかという観点から、管理会計を経営リテラシーとして用いる視点がストーリー仕立てで展開される。

 出てくるキーワードはどれも基礎的なものではある。しかし、それらを現実のビジネスにおいてどのように活用するのか、またそれぞれの概念の繋がりは何かをおさらいしながら学べるのがこのシリーズの良いところであろう。ストーリーが面白いためにあっという間に読めるが、学びは思いのほか多いものとなるだろう。

 コンピュータシステムが成功するかどうかの鍵は、ERPパッケージでもなければ、SI会社でもない。大切なことは、経営者が、経営に必要な情報を明確に定義できるかどうかだ。(39頁)

 細かな概念については本書を読んで学んでほしい。しかし、管理会計をなぜ行う必要があるのかという総論に関しては、上述したメッセージに集約されていると私には思える。システム化をすれば何かが解決されると私たちは時に思ってしまうが、そうではない。そもそも何をシステム化してそれをどのように扱うのかを定義しなければ、経営上のインパクトは弱く、下手をすればネガティヴなものとなる。システム化は、他者に委ねて利益が出る魔法の杖ではなく、当事者意識を持って構築するべきものなのだ。

2016年10月10日月曜日

【第630回】『漱石に学ぶ心の平安を得る方法』(茂木健一郎、講談社、2011年)

 漱石の一連の著作を読んできた方には面白い書籍であろう。著者と、漱石をテーマにした語り合いをたのしんでいるかのような感覚をおぼえることができるのではないだろうか。

 小説を読むこと、フィクションを味わうことは、人生における緩衝材となる。自分がまだ体験したことのない人生の苦しみ、あるいはかつて経験した苦しみに対して、物語は一つの写し絵になるのだ。(20頁)
 
 小説を読む醍醐味はここにあると私も考えている。自分が見たり経験したりできることには限りがある。しかし、現実世界では他者と付き合うわけであり、他者が何を思い、何に感じ入っているのかを推察するためには自分の経験では及ばないことがあまりに多い。そうした時に、小説の中で赤の他人の思考や感情をあたかも追体験していると、他者を忖度して対応する一つの有力なヒントとなる。

 『三四郎』を通じてのメッセージ、それは「迷うことや惑うことは、決して悪いことじゃない」ということだと僕は思っている。
 そもそも青春の本質を一言で言うならば、惑うことだ。
 迷って、惑って、求め続けて……。
 それがすなわち、人生のロマンチック・アイロニーなのだ。(34頁)

 美禰子が三四郎に語るストレイ・シープが『三四郎』の一つの鍵概念となる言葉であろう。それを思い起こせばこの部分はよくわかりやすい。何か具体的なゴールや目標から演繹的に逆算で行動をすれば迷うことはほとんどない。合理的に判断ができるということは、主観的な要素がなくても問題がないということであり、客観的に粛々と正解を導き出せば良い。したがって迷ったり惑ったりする要素はないが、現実はそうではない。迷い、惑うことが生きることなのである。

 「心」とは、本当に不思議な存在である。生きる上で容易には役に立たないことを考えることが、働きをイキイキとさせる。心のやっかいさに向き合うことが、自分を耕すことなのである。(107頁)

 迷ったり惑ったりする行為は決してネガティヴなものではない。もちろん、そうした心の作用は本人にとって心地よいものではない。しかし、そうしたプロセスを経ることが、自分自身を耕すことになり世界観を広げることにつながるのではないだろうか。


2016年10月9日日曜日

【第629回】『隠れた人材価値』(C・オライリー、J・フェファー、廣田里子・有賀裕子訳、翔泳社、2002年)

 人事の領域には流行がある。戦略や組織に流行があるのだから、それに応じて人事にも流行りのアイテムがあるのは致し方ない。しかし、それらを真似するだけでは決して組織はよくならないし、時に悪化すらする。なぜなら、個別のアクションが遠心力として働き合い、求心力が働かなくなるからである。

 では、何が必要なのか。シンプルに記せば、個別のアクションの整合性を取ることであり、その拠り所となる考え方を設けることであろう。

 では、成功をもたらすものは何だろうか。答えは人材マネジメントのあり方だけでなく、価値観を重視する姿勢、さらには価値観、戦略、人材の整合を取ることにある。(38頁)

 端的に価値観によって、人材マネジメント上のアクションの整合性を取ることが重要であると著者は指摘する。では次に、どういった価値観が重要なのか。もちろん企業によって、業界によって異なる点はあるだろう。そうしたものを踏まえても、普遍的に重要なものとして二つのものを挙げている。

 これらの企業がほかと違うのは、次の二つのことーー他社では欠落しがちであるーーを特に重視している点だ。一つは目的意識、もう一つは社員の尊重である。(344頁)

 価値観の内容として挙げられているのは目的意識と社員の尊重である。目的意識には異論がないだろう。『ビジョナリーカンパニー』を嚆矢とした一連の著作を俟つまでもなく企業にとって大事なものはミッションや目的と言われる存在である。その上で社員の尊重という一見してヒューマンに過ぎる概念が提示される。しかし、綺麗事で議論をすませるのではなく、具体的な施策の整合性という観点で以下のように論を進めていることに注目するべきだろう。

 肝心なのは、単にいい人材を選考し、トレーニングするということにとどまらず、社員がモチベートされて、それぞれのアイデアを行動に置き換えることができるように会社を組織することである。(370頁)

 ただ単に社員を尊重すると金科玉条のごとく述べるだけでは、いつまでも実現しない。尊重とは、相手の意思に単に従うということを意味しない。個人の成長・開発にとって必要な施策を、整合的に、それぞれの社員に合わせてデザインしていく必要がある。だからこそ、人事に求められる役割が存在し、人事だからこそできる貢献がある。

 人事の仕事は、何をやってはいけないか社内に告げることではなく、競争力を高める有為の人材を誘致し、定着させ、やる気を起こさせることをサポートする方法を開発することなのだ。(372頁)

 人事マネジメントに携わる身として、常にかみしめたい至言である。


2016年10月8日土曜日

【第628回】『餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?』(林總、ダイヤモンド社、2006年)

 学びたいと思った時こそが学び時とはよく言ったものである。企業全体に関わる会計数字をもとに自社のビジネスを本気で考えたいと思う方にとって適した書である。ストーリーの面白さとともに、たのしく会計の基礎を学ぶことができるだろう。

 会計はだまし絵であるというメイン・メッセージを提示し続けながら、決算書とは、データに基づきながら主観的な解釈によってルールに則って作成されていることが解説される。決算書の背景やそこに込められた経営者の考え方を、基礎的な会計の知識をもとに読み解かれている。

 PDCAサイクルが有効に機能するには、予算と実績の背後にある現場レベルでの「計画した作業」と「実際の作業」を比較することが肝心なのだ。(88頁)

 繰り返しとなるが、決算書は、事実とルールに基づきながら経営者の主観によって作成されたものである。しかし、そうであるからこそ、書かれた内容をもとに分析と解釈をすることが可能だ。決算書という結果としての数字から、意味を見出そうと分析することで、現場で起きている事象の背景を理解できる。


2016年10月2日日曜日

【第627回】『経営理念の浸透』(高尾義明・王英燕、有斐閣、2012年)

 素晴らしい学術書に出会うとうれしくなる。一度読むだけでは内容を深く理解することができないにもかかわらず再び読みたくなるものが、私にとって素晴らしい学術書の定義である。そうした想いに至る要素はいくつかあり、先行研究が丹念に整理されていて、章ごとの研究上の問いが繋がっており、実践的含意をもとに読み手が思考を巡らすことができる、といったものである。

 こうした私の嗜好からすると「経営理念の浸透に際して組織を「一枚岩」として扱うことに疑問を感じ、個人の視点から経営理念の浸透を解明する必要性を認識したこと」(5頁)をきっかけに本研究を行なったという部分に心を掴まれた。しっかりした経営理念を組織の成員が画一的に理解するべきという考え方が従来の主流なものであり、ビジネスの領域では『ビジョナリーカンパニー』や『隠れた人材価値』がその典型であろう。研究上の問いによって私の中での「当たり前」が相対化されたのが新鮮な驚きであり、本書に魅了された理由である。

 まず著者たちは、理念浸透という事象をどのように把捉することが可能なのか。

 理念志向的企業のみならず、一般的な企業でも認知的理解、情緒的共感と行動的関与の3次元から理念浸透を分析可能であることが判明した。具体的には、理念への認知的理解には理念のないように関する認知度、自社の新入社員または社外の人に対する説明力の3項目によって測定される。情緒的共感は、理念に対して共感を覚える、仕事上の難問を乗り越える助けとなる、および個人の価値観と組織の理念が一致するなどの側面からの3項目で測定が可能である。さらに、理念を反映する行動的関与は、理念に言及する、理念を実践するための行動がいかにとれるかを考えたり、理念に立ち返るなどの5項目によって構成される。(67~68頁)

 端的に、認知的理解、情緒的共感、行動的関与という三つの要素で、個人の側から見た理念浸透を測定可能であると結論づけられている。この三つの次元の中から、行動的関与に焦点を当てて以下の実践的含意を導き出している。

 理念への行動的関与を高めるためには、「高水準の共感をできるだけ維持しながらも、自社の理念とは何かをしっかりと従業員に理解してもらう」ことが肝要となる。(91頁)

 実務上では新規性がそれほどないことかもしれないが、認知的理解と情緒的共感とが行動的関与に影響を与えるということが確認されたことに意義がある。理念に基づいた行動を評価項目に落とし込んで行動的関与から企業が促そうとすることはよくあるケースである。しかし、その前提として、個々人が経営理念を理解して自分なりに咀嚼していて、かつそれに情緒的な共感を覚えていなければ、評価項目への落とし込みは画餅に終わる可能性がある。そうした事態は理念浸透に悪影響を与えるばかりではなく、評価自体の公正性の担保にも影響が及ぶ可能性が大きいというところまで読み解くことができるのではないか。

 こうした個人による組織の経営理念への関与は、何も組織と個人という二項対立でとらえる必要はない。著者たちは他者との関係性が理念浸透のメカニズムに大きな影響を与えるとしており、特に上司との関係性が三つの次元の全てに影響を与えたと分析している。

 すべての次元において正の関係性が見いだされた上司の理念浸透との関係性をもとに、理念浸透が進んでいない企業で行うべき対策を検討する。このような企業では、上司が理念を大切にしているようには見えないため、部下も理念について真剣に受け止めてはいない。そうしたなかで理念浸透を推進するには、まずは、上位の階層から理念に対する理解を深め、さらには理念の実践を促進する施策をとることが不可欠となる。より上位の職位にある上司の姿勢に変化があれば、部下はそれを敏感に感じ取るため、全社的に上から下への理念浸透を図っていくことが進めやすくなる。
 そのための有効な手法の1つとして、カスケード式の研修を行うことが挙げられる。最も上位の階層が最初に研修を受け、次に研修を受けた上位者層が、次の段階の階層が受講する研修の講師役を務めるということを繰り返していくことで、徐々に全社的な浸透を図るものである。また、(中略)理念の実践についての行動評価を上位階層から徐々に適用していくことも、同様の効果をもちうる可能性がある。(120~121頁)

 ここで重要なのは上位階層からの浸透が大事なのであり、下位階層からのボトムアップや職場全体を同時に扱うということではないとされている点である。私たちはともすると、多面的な仕掛けを志向してボトムアップ型や職場全体でのワークショップというものも重要であると考える。しかし、理念浸透という事象においては、上位階層からのカスケーディングが最も有効である点に刮目するべきであり、拙速な多面展開には気をつけたいものだ。

 他者との関係性との分析を踏まえて、それを対組織としてみなす組織市民行動へと著者たちは調査の対象を拡げ、以下のような含意を導く。

 今回取り上げた組織市民行動の3次元を見ると、理念浸透を投入することによって最もモデルの説明力が向上した項目は「自発的関わり」であった。また、自発的関わりと関連している理念浸透の下位次元は、理念への認知的理解と行動的関与となっていた。理念についての理解が高い場合に、理念を実践しようとする意欲が高くなれば、組織に対する自発的な関わりが高くなり、組織内の他者を援助するような行動も増えることを示している。
 一方、理念浸透の構成次元のなかでは、理念への情緒的共感が忍耐強さと関連づけられているが、理念の認知的理解と行動的関与については忍耐強さとの関連性は認められていない。このことは、理念への理解の深い人、または理念に基づく行動を実践している人が、組織に対する忍耐強さが特別高いわけではないことを意味している。(173~174頁)

 思いきって意訳すれば、経営理念が浸透している個人とは自律的な個人であり、自発的に協働したり他者への援助を積極的に行う人を意味するということであろう。そうした個人は、自らの理念とのアラインメントを取りながら経営理念を咀嚼して理解しているために、組織が行うことを鵜呑みにすることはない。組織に従属することなく、健全な意味で個人と組織とを対等に捉え、その上で経営理念へのコミットメントを示すのである。

 こうした自律した個人による創意工夫やチャレンジを一段深めてイノベーションが創発される組織へと導く上でも、経営理念が影響を与えると著者たちはしている。

 理念浸透が個人の組織行動に及ぼす影響のメカニズムが理念の内容次第で異なる可能性があることを確認されたといえる。理念の内容が直接的に革新志向に関係したものであれば、認知的理解を高めることで個人の革新行動を高めうるが、革新志向に直接関係するものが含まれていない場合には、行動的関与を高めることを通じて個人の革新行動を高めることが可能であることが示された。そこからは、すべての従業員が革新的行動をとることを強く期待するのであれば、「イノベーション」「革新」「挑戦」といったキーワードを経営理念の中核に位置づけ、その浸透を図ることが意味をもつ可能性が示唆される。(195頁)

 経営理念で謳う文言によって社員の革新的行動を促す可能性があるという示唆は驚きであるとともに大きな希望を与えてくれる。もちろん、その内容に対して情緒的共感を覚えられなかったり、あまり飛躍していれば自分事として認知的理解ができないであろうから、そうした配慮は必要だろう。


2016年10月1日土曜日

【第626回】『銃・病原菌・鉄(下)』(J・ダイアモンド、倉骨彰訳、草思社、2012年)

 必要は発明の母である、という考え方を私たちは疑いもせずに受け容れがちだ。しかし、本当にそうであろうか。本書では、「発明は必要の母である」とされ、私は、学部時代と同様にその箇所に改めて刺激を受けることになった。

 具体的な例をあげればわかりやすいだろう。たとえば、ジョブズがiPhoneを提示するまで、私たちは携帯電話でブラウジングしたり、音楽を再生したり、スケジュール管理をしようというニーズはなかった。少なくとも、顕在的なニーズは非常に少なかった、とは言えるだろう。

 しかしiPhoneが「発明」されることによって、私たちはそれをスマートフォンと呼ぶようになり、様々なニーズが喚起されるようになった。一つの発明が、私たちの生活における必要性を生み出し、そうしたニーズによって産業が生み出されるのである。

 功績が認められている有名な発明家とは、必要な技術を社会がちょうど受け容れられるようになったときに、既存の技術を改良して提供できた人であり、有能な先駆者と有能な後継者に恵まれた人なのである。(67頁)

 発明やデザインというものには創造性が求められることは間違いないだろう。しかし、それと同等かそれ以上に、社会における潜在的なニーズへの感性と、既存の技術を組み合わせる幅広い思考能力が求められるのではないだろうか。