2016年10月2日日曜日

【第627回】『経営理念の浸透』(高尾義明・王英燕、有斐閣、2012年)

 素晴らしい学術書に出会うとうれしくなる。一度読むだけでは内容を深く理解することができないにもかかわらず再び読みたくなるものが、私にとって素晴らしい学術書の定義である。そうした想いに至る要素はいくつかあり、先行研究が丹念に整理されていて、章ごとの研究上の問いが繋がっており、実践的含意をもとに読み手が思考を巡らすことができる、といったものである。

 こうした私の嗜好からすると「経営理念の浸透に際して組織を「一枚岩」として扱うことに疑問を感じ、個人の視点から経営理念の浸透を解明する必要性を認識したこと」(5頁)をきっかけに本研究を行なったという部分に心を掴まれた。しっかりした経営理念を組織の成員が画一的に理解するべきという考え方が従来の主流なものであり、ビジネスの領域では『ビジョナリーカンパニー』や『隠れた人材価値』がその典型であろう。研究上の問いによって私の中での「当たり前」が相対化されたのが新鮮な驚きであり、本書に魅了された理由である。

 まず著者たちは、理念浸透という事象をどのように把捉することが可能なのか。

 理念志向的企業のみならず、一般的な企業でも認知的理解、情緒的共感と行動的関与の3次元から理念浸透を分析可能であることが判明した。具体的には、理念への認知的理解には理念のないように関する認知度、自社の新入社員または社外の人に対する説明力の3項目によって測定される。情緒的共感は、理念に対して共感を覚える、仕事上の難問を乗り越える助けとなる、および個人の価値観と組織の理念が一致するなどの側面からの3項目で測定が可能である。さらに、理念を反映する行動的関与は、理念に言及する、理念を実践するための行動がいかにとれるかを考えたり、理念に立ち返るなどの5項目によって構成される。(67~68頁)

 端的に、認知的理解、情緒的共感、行動的関与という三つの要素で、個人の側から見た理念浸透を測定可能であると結論づけられている。この三つの次元の中から、行動的関与に焦点を当てて以下の実践的含意を導き出している。

 理念への行動的関与を高めるためには、「高水準の共感をできるだけ維持しながらも、自社の理念とは何かをしっかりと従業員に理解してもらう」ことが肝要となる。(91頁)

 実務上では新規性がそれほどないことかもしれないが、認知的理解と情緒的共感とが行動的関与に影響を与えるということが確認されたことに意義がある。理念に基づいた行動を評価項目に落とし込んで行動的関与から企業が促そうとすることはよくあるケースである。しかし、その前提として、個々人が経営理念を理解して自分なりに咀嚼していて、かつそれに情緒的な共感を覚えていなければ、評価項目への落とし込みは画餅に終わる可能性がある。そうした事態は理念浸透に悪影響を与えるばかりではなく、評価自体の公正性の担保にも影響が及ぶ可能性が大きいというところまで読み解くことができるのではないか。

 こうした個人による組織の経営理念への関与は、何も組織と個人という二項対立でとらえる必要はない。著者たちは他者との関係性が理念浸透のメカニズムに大きな影響を与えるとしており、特に上司との関係性が三つの次元の全てに影響を与えたと分析している。

 すべての次元において正の関係性が見いだされた上司の理念浸透との関係性をもとに、理念浸透が進んでいない企業で行うべき対策を検討する。このような企業では、上司が理念を大切にしているようには見えないため、部下も理念について真剣に受け止めてはいない。そうしたなかで理念浸透を推進するには、まずは、上位の階層から理念に対する理解を深め、さらには理念の実践を促進する施策をとることが不可欠となる。より上位の職位にある上司の姿勢に変化があれば、部下はそれを敏感に感じ取るため、全社的に上から下への理念浸透を図っていくことが進めやすくなる。
 そのための有効な手法の1つとして、カスケード式の研修を行うことが挙げられる。最も上位の階層が最初に研修を受け、次に研修を受けた上位者層が、次の段階の階層が受講する研修の講師役を務めるということを繰り返していくことで、徐々に全社的な浸透を図るものである。また、(中略)理念の実践についての行動評価を上位階層から徐々に適用していくことも、同様の効果をもちうる可能性がある。(120~121頁)

 ここで重要なのは上位階層からの浸透が大事なのであり、下位階層からのボトムアップや職場全体を同時に扱うということではないとされている点である。私たちはともすると、多面的な仕掛けを志向してボトムアップ型や職場全体でのワークショップというものも重要であると考える。しかし、理念浸透という事象においては、上位階層からのカスケーディングが最も有効である点に刮目するべきであり、拙速な多面展開には気をつけたいものだ。

 他者との関係性との分析を踏まえて、それを対組織としてみなす組織市民行動へと著者たちは調査の対象を拡げ、以下のような含意を導く。

 今回取り上げた組織市民行動の3次元を見ると、理念浸透を投入することによって最もモデルの説明力が向上した項目は「自発的関わり」であった。また、自発的関わりと関連している理念浸透の下位次元は、理念への認知的理解と行動的関与となっていた。理念についての理解が高い場合に、理念を実践しようとする意欲が高くなれば、組織に対する自発的な関わりが高くなり、組織内の他者を援助するような行動も増えることを示している。
 一方、理念浸透の構成次元のなかでは、理念への情緒的共感が忍耐強さと関連づけられているが、理念の認知的理解と行動的関与については忍耐強さとの関連性は認められていない。このことは、理念への理解の深い人、または理念に基づく行動を実践している人が、組織に対する忍耐強さが特別高いわけではないことを意味している。(173~174頁)

 思いきって意訳すれば、経営理念が浸透している個人とは自律的な個人であり、自発的に協働したり他者への援助を積極的に行う人を意味するということであろう。そうした個人は、自らの理念とのアラインメントを取りながら経営理念を咀嚼して理解しているために、組織が行うことを鵜呑みにすることはない。組織に従属することなく、健全な意味で個人と組織とを対等に捉え、その上で経営理念へのコミットメントを示すのである。

 こうした自律した個人による創意工夫やチャレンジを一段深めてイノベーションが創発される組織へと導く上でも、経営理念が影響を与えると著者たちはしている。

 理念浸透が個人の組織行動に及ぼす影響のメカニズムが理念の内容次第で異なる可能性があることを確認されたといえる。理念の内容が直接的に革新志向に関係したものであれば、認知的理解を高めることで個人の革新行動を高めうるが、革新志向に直接関係するものが含まれていない場合には、行動的関与を高めることを通じて個人の革新行動を高めることが可能であることが示された。そこからは、すべての従業員が革新的行動をとることを強く期待するのであれば、「イノベーション」「革新」「挑戦」といったキーワードを経営理念の中核に位置づけ、その浸透を図ることが意味をもつ可能性が示唆される。(195頁)

 経営理念で謳う文言によって社員の革新的行動を促す可能性があるという示唆は驚きであるとともに大きな希望を与えてくれる。もちろん、その内容に対して情緒的共感を覚えられなかったり、あまり飛躍していれば自分事として認知的理解ができないであろうから、そうした配慮は必要だろう。


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