シリーズ第二作。本作では、十~十四世紀前半、つまり摂関政治から鎌倉幕府の崩壊までの時代における社会の変遷が扱われている。
行事が自然の運行と関連させて考えられていただけに、自然と社会との均衡を一時的に崩す死、出産、火事などによって生ずる穢れ、しかも垣根や門によって仕切られた空間では伝染すると考えられていた穢れが、天皇や朝廷、あるいは神社に及ぶことは非常に強く忌避され、それを清めるための忌籠りの期間などの細かい手続も定められた。これも平安京の都市化にともなう現象ということができる。(24頁)
自然によって生じるアクシデントのような出来事における細かな手続には辟易とさせられることも多い。当事者の想いや意志を発揮できる部分が限られており、ルールを墨守することが目的となっているように感じられるからだ。しかし、そうした細かな手続きができあがる背景には理由がある。ここでは、権力主体や神仏が、穢れと意識的に切り離されるためのものとして忌籠りなどの細かなルールができあがったと描出されている。
道長は、わずか一年ほどで摂政も太政大臣も辞職し、彼のあとをうけて摂政となった子息頼通の背後にあって、「大殿」として実質的に国政を指導し続けていくことになる。このように公的な地位と、実質上の権力者「大殿」とが分離したことは、摂関家という「家」が成立していたこと、また実質の権力を世襲する「摂関職」ともいうべき実態が形成されつつあったことを物語っている。(29頁)
藤原摂関政治ができあがった前提条件として、イエという制度が確立していたからという指摘が示唆的である。現在ではイエという概念は当たり前のように捉えているが、平安期以前は、「万世一系」という物語によって創られた天皇だけがそうした概念で括られる唯一の存在であったのだろう。藤原氏という豪族の絶対的権力者による世襲体制が摂関政治の形成によって実現して初めて、イエによる権力継承のスタイルができあがったのである。
奇蹟ともいうべき暴風による元軍の敗退を、大寺社は祈禱による効果とし、これを「神風」と強調して、祈禱に対する恩賞を王朝と幕府に強く求めた。そのなかで神明の加護する「神国日本」という見方が広く流布されるようになったが、それが一方では、関東の王権を中心に「日本国」の全力をあげ、法華経の力によって外敵から守ろうと主張した日蓮とその信徒たちに対するきびしい弾圧をともなっていたことに注意する必要がある。「日本国」意識は、たしかに元との戦争によって以前よりも列島社会に浸透するが、そこでは呪術的色彩を強くもつ神仏の力に自らの利益を見出そうとする寺社の主導した見方が優位を占めていたのである。(167~168頁)
著者によれば、元寇以前においても「日本国」という意識は存在したが、そこには神仏による呪術的色彩が強かったとしている。それが、元寇以降においては、呪術的色彩が薄れ、いわば空気としての「神国日本」という意識が流布されたという。「神国」という本来的に宗教色のある言葉でありながらも、権力主体としての国家と結びつく過程の描写は、示唆的でありながら、恐ろしさも感じるのは言い過ぎであろうか。
十三世紀後半に入ると、文字の社会への浸透が著しくなり、読み、そして書く文字として発達してきた平仮名を漢字に混じえた文書を、侍クラスの人はもとより主だった平民百姓も書き、同様のクラスの女性たちもまた平仮名の書状を書くようになってきた。(中略)
この時期になると、主だった百姓が、たとえば新次郎、又四郎などの同じ仮名を代々名乗る傾向がみえるので、家産と結びついたイエが平民百姓のなかにも形成されてきたと考えられるが、荘園・公領の諸単位には、そうしたイエの集団としての安定した村落がしだいに形成されつつあった。(170~171頁)
平安中期における摂関政治に見たイエ制度の浸透は、十三世紀後半に一般的な百姓の単位にまで定着したようだ。その定着の背景には、文字の浸透という土台があったことにも留意すべきだろう。イエという概念を理解し人々の間で共有するためには、公共語としての日本語という言語の敷衍が必要不可欠なのである。
【第333回】『山本七平の日本の歴史<上>』(山本七平、ビジネス社、2005年)
0 件のコメント:
コメントを投稿