漱石の一連の著作を読んできた方には面白い書籍であろう。著者と、漱石をテーマにした語り合いをたのしんでいるかのような感覚をおぼえることができるのではないだろうか。
小説を読むこと、フィクションを味わうことは、人生における緩衝材となる。自分がまだ体験したことのない人生の苦しみ、あるいはかつて経験した苦しみに対して、物語は一つの写し絵になるのだ。(20頁)
小説を読む醍醐味はここにあると私も考えている。自分が見たり経験したりできることには限りがある。しかし、現実世界では他者と付き合うわけであり、他者が何を思い、何に感じ入っているのかを推察するためには自分の経験では及ばないことがあまりに多い。そうした時に、小説の中で赤の他人の思考や感情をあたかも追体験していると、他者を忖度して対応する一つの有力なヒントとなる。
『三四郎』を通じてのメッセージ、それは「迷うことや惑うことは、決して悪いことじゃない」ということだと僕は思っている。
そもそも青春の本質を一言で言うならば、惑うことだ。
迷って、惑って、求め続けて……。
それがすなわち、人生のロマンチック・アイロニーなのだ。(34頁)
美禰子が三四郎に語るストレイ・シープが『三四郎』の一つの鍵概念となる言葉であろう。それを思い起こせばこの部分はよくわかりやすい。何か具体的なゴールや目標から演繹的に逆算で行動をすれば迷うことはほとんどない。合理的に判断ができるということは、主観的な要素がなくても問題がないということであり、客観的に粛々と正解を導き出せば良い。したがって迷ったり惑ったりする要素はないが、現実はそうではない。迷い、惑うことが生きることなのである。
「心」とは、本当に不思議な存在である。生きる上で容易には役に立たないことを考えることが、働きをイキイキとさせる。心のやっかいさに向き合うことが、自分を耕すことなのである。(107頁)
迷ったり惑ったりする行為は決してネガティヴなものではない。もちろん、そうした心の作用は本人にとって心地よいものではない。しかし、そうしたプロセスを経ることが、自分自身を耕すことになり世界観を広げることにつながるのではないだろうか。
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