2014年11月23日日曜日

【第378回】『荘子 第二冊』(金谷治訳注、岩波書店、1971年)

 荘子自身が書いたと言われる第一冊に対して、第二冊にある「外篇」は、荘子の思想を引き継ぐ複数人が記したものであると言われる。テーストはやや異なることになるが、荘子を引き継ぐ考え方に、感銘を受ける部分は多い。

 世界の人々はみな、自分の知らないことを[外に向かって]追求することはわきまえているが、すでに知っていることをさらに追求しようとするものはいない。みな、自分の善くないと思うことを非難することはわきまえているが、自分が一度善いと思ったことを[さらに反省して]非難しようとするものはいない。こうして、世界は大いに乱れることになる。(胠篋篇 第十・一)

 自分が知らないものを学ぶというのは心地が良いものだ。なにより、それまで知らなかったものを新たに知ることによって、知識欲求が満たされる。もちろん、新しい知識を得ることも大事ではあるが、それと同時に、自分が既に知っていることをより深めることも大事なのではないか。

 そもそも無心の静けさで落ちついた安らかさをたもち、ひっそりした深みにいて作為がないということこそ、天地自然の平安なありかたであり、真実の道とその徳との実質的な内容となるものである。(天道篇 第十三・二)

 無心であること、心を落ち着けること。

 私心をなくしようとするのは、つまりは私心だよ。(天道篇 第十三・七)

 先に引用した箇所にもあるように、作為があると心は平安な状態から離れてしまう。したがって、私心がない自然な状態を実現するには、作為があってはならない。考え方としては分かるが、その内実を体得していくためには、しっかりと噛み締めたいことである。

 受けとる主体が心の内にできていなければ道は[素通りするだけで]そこにとどまらないし、ぴったりした条件が外にできていなければ道はあらわれないからのことである。(天道篇 第十四・五)

 内におけるレディネスと、外におけるレディネス。前者だけでは結果は出ないし、後者だけでは得られた結果の価値を見出すことができない。両者が揃うことで、私たちは、道という概念を感得することができるのであろう。


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