2014年11月3日月曜日

【第368回】『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄、中央公論社、1992年)

 生物学の書籍を読むと、組織論や文化論といった社会科学に読み替えて類推を働かせてしまう。飛躍もあるのかもしれないが、自分にとって身になる読書であれば、それは良いものだろうと割り切って考えている。

 本書の場合も同様だ。まず冒頭で著者は、「哺乳類で体重と時間とを測って」みたところ、「時間は体重の1/4乗に比例する」(4頁)としている。体重が重くなればなるほど、その動物が感じる時間は長くなるということである。これは企業も同じなのではないか、とここで邪推が働く。つまり、ベンチャーのように小回りの利く企業体であれば時間の感覚が短く、ヒト・モノ・カネ・情報の動きは速くなる。他方で、大企業になればなるほど、もう少しゆとりをもったリソースの活用ができるようになる。それぞれに特徴があるのであるから、それぞれに適したリソース活用があるのだろう。したがって、ベンチマークをする際には差異を意識する必要がある。

 島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は大きくなる。これが古生物学で「島の規則」と呼ばれているものだ。(17~18頁)

 「島の規則」とは非常にアナロジーが利きやすい概念である。興味深く読んでいると、著者自身もこれを日本という社会に置き換えて以下のように記している。

 島国という環境では、エリートのサイズは小さくなり、ずばぬけた巨人と呼び得る人物は出てきにくい。逆に小さい方、つまり庶民のスケースは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。「島の規則」は人間にもあてはまりそうだ。(22頁)

 まさに日本という国の特質を表しているようだ。ガラパゴス化と呼ばれる理由には、生物学的な見地からの示唆もあるのだろう。

 時間が違うということは、世界観がまったく異なるということである。「相手の世界観をまったく理解せずに動物と接してきた。こんな態度でやった今までのぼくの研究はどんな意味があったのか?」と呆然とした。(220頁)

 身体のサイズによって感じる時間の早さが異なるという冒頭の気づきがあった時に著者が感じた感想である。これもまた、組織の大きさという観点で考えると面白い。つまり、日本人が感じる歴史に対する感覚と、中国人の抱く歴史に対する感覚は異なることは当たり前だ。より小さい国家である日本は、より近い過去にしか興味関心を抱かず、より大きい国家である中国は、より遠い過去まで興味関心を抱く。したがって、あの戦争における感覚の残量が、中国人よりも日本人は少ないのだろう。端的に言えば、日本人は「遠い過去の戦争の話をいつまでも言われても」と思うのに対して、中国人は「ほんの少し前の戦争のことをなかったかのようにすることを許せない」と思うのかもしれない。ここに、彼我における意識の差異の源泉の一つがあり、その結果として歴史認識による問題が起こるのではないだろうか。



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