2014年11月30日日曜日

【第382回】『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹、哲学書房、2002年

 下手の横好きで、哲学書を読むことがよくある。むろん、途中で力尽きて理解することを断念するものもある。そうしたもののうちの一冊が『論理哲学論考』(以下『論考』)だ。本書は、『論考』の流れに沿って著者が解説を試みる入門書である。ために、私のような「挫折組」にとっても適したガイドブックである。

 優れたガイドブックであるとはいえ、正直に白状すれば、読み終えた今の段階において詳らかにウィトゲンシュタインを理解したとは言える状況ではない。私が把捉した範囲において、ポイントを振り返りながら以下から見ていきたい。

 いま確認されたことは次の二点である。(1)思考可能性の限界を思考によって画定することはできない。他方、(2)言語の有意味性の限界ならば画定可能である。(21

 思考できる領域と思考できない領域との境界を、思考によって画定することはできない。抽象化すれば、Aの範囲と非Aの範囲をAによって画定することはできない、ということである。やや飛躍するが、日本の領土と日本でない領土とを、日本が(単独で)画定することができない、と考えれば、何となく理解できるだろう。その上でウィトゲンシュタインは、言語の有意味性の限界については画定可能であるとしていることに私たちは注目するべきであろう。これがあの有名な「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」へと通じるのである。では言語によって私たちは何を理解することができるのであろうか。

 われわれは、現実性から可能性への道筋を、すなわち、成立していることの総体であるこの世界から出発し、成立しうることの総体である論理空間へと至る道筋を、おおまかにではあるが辿った。もっとも重要な点は、そこに現実の像たる言語が介在するということである。言語がなければ、われわれは現実性から可能性へとジャンプすることはできない。(43頁)

 著者によれば、言語によって現実空間から論理空間を見出すことができるようになるという。ここで思い起こされることは、抽象化もしくは理論化といった研究的態度である。たとえば、ビジネスにおける研究的態度を考えてみたい。現実に存在する企業の中で働く私たちにとって、現実を抽象化するためには、慎ましやかな態度で行なうことが必要だろう。さらに言えば、抽象化された事象を具象化する際にも、理論の背景にある研究の射程範囲を捉まえた上で限定的に行なうことが求められる。このように考えた上で、私たちは言語を、その限界を踏まえていかに活用できるのだろうか。

 ある名の論理形式はその名だけ単独で与えられるものではなく、他の名とともに、言語全体の網の目として張られるしかない。かくして、対象に到達するにも、言語の全体が要求されるのである。(65頁)

 言語を活用するには、言語全体の構造を理解している必要がある。つまり、ある言語を理解するためには、その言語をアプリオリに知悉していなければ、その含意する内容を想起することはできない。そうであるからこそ、いわゆる「引き出し」をいかに持っているかが、私たちにとって重要なのであろう。「引き出し」がなければ、言語を通じて構成される論理空間をセンスし、それを自分自身に惹き付けて応用的に具象化することはできないからである。

 『論考』はこうした世界解釈を扱うものである。しかし、その射程範囲は、上述したような無機質的なものだけではなく、私たちの主観にも影響を与える。興味深いのは、幸福という極めて主観的なものを扱っている箇所だ。

 幸福になるために、私はさらに一歩を踏み出さねばならない。それは、私の「意志」である。ここにおいてはじめて、そしてただここにおいてのみ、『論考』の提示する全構図の中に「意志」が所を得る。(264頁)
 世界の事実を事実ありのままに受けとる純粋に観想的な主体には幸福も不幸もない。幸福や不幸を生み出すのは、生きる意志である。生きる意志に満たされた世界、それが善き生であり、幸福な世界である。生きる意志を奪い取る世界、それが悪しき生であり、不幸な世界である。あるいは、ここで美との通底点を見出すならば、美とは私に生きる意志を呼び覚ます力のことであるだろう。(265頁)
 ここで私は、『論考』における「世界」概念が三段階の変容を受けていることを指摘したい。最初それは「事実の総体」であった。それはただ現実の事実の総体であり、そこにとどまるならば移ろいゆくものでしかない。次にそれは分析を経て、不変の実体の総体として捉えられる。すなわち、「永遠の相のもとでの世界」である。そして最後、第三の段階として、「意志に彩られた世界」が現れる。それはもちろん、事実の総体でもあり、実体により構成されるものでもある。それゆえこれら三つの規定は相反するものではない。『論考』は議論の進展に伴って「世界」概念をより豊かなものにしていっているのである。それゆえ、最後に現れた「意志に彩られた世界」こそ、『論考』の「世界」概念の到達点であったと言うべきだろう。(266頁)

 まず押さえておきたいのは、ある事実が本来的に善であったり悪であったりするのではない、という点であろう。つまり、事実を言語によって論理化しても、その事実が論理的に善なり悪なりに導かれるものではないということである。結局、私たちが直面する事実については、その事実をありのままに受け取るしかないのである。その上で、生きる意志をもってその事実を解釈しようとすることである。ここで留意したいのは、ある事実が起きた後に意志を持つのでは遅いということではないか。先述したように、私たちの現実解釈は私たちが持っている言語世界によって規定される。したがって、肯定的な世界解釈をでき得る言語の「引き出し」を予め持っていなければ、価値中立的な事実をありのままに見ることができず、肯定的な意味合いを見出せないかもしれない。そうであるからこそ、言葉というものが大事であり、私たちの祖先は言霊という言葉を創り出したのではないだろうか。

 最後に、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」というあまりに有名な言明に対する著者の意志を引用して、本論考を終えたい。

 『論考』は語りの時間制を確信犯的に無視しようとしていた。しかし、語るとは時間的な営みなのである。論理空間の変化はただ時の流れの中においてのみ、示される。それゆえ私はこう言おう。
 語りきれぬものは、語り続けねばならない。(281頁)


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