2014年11月29日土曜日

【第381回】『知ろうとすること。』(早野龍五・糸井重里、新潮社、2014年)

 3・11の時に私は初めてTwitterの影響力を感じた。情報はまさに玉石混淆であったが、多面的に物事を捉えられるという意味では、Twitterは最適なメディアであったと今でも思う。情報の意味内容はもとより、それを発信する主体についても、いろいろと考えさせられる出来事であった。不安を徒に煽ろうとする人もいれば、不安など何もないと強弁して自分自身の不安に不自然に向き合おうとしない人もいた。混乱した状況の中では、率直にかつ淡々と情報に基づいた考察を述べる早野さんのような方や、そうした発信者の存在を広めようとする糸井さんのような存在がいかに貴重であったか。彼らの対談を読んでいると、不安な中でおぼえた安心感を思い出すような気持ちがする。

糸井 「わからないから怖い」って不安に思っている人ほど、新しい情報に対してオープンじゃなかったりしますよね。(16

 節を曲げないと言うと聞こえはいいが、それはすなわち、現状にオープンにならず、頑に可能性に目を向けないことに繋がりかねない。子供は、怖い状態に堪えられずに、目を覆って現実を見ないようにすることで、心に平安を求めようとすることがある。しかし、そうすることで、本来は事態を好転させることができたかもしれない機会を減衰させていることには、気づかないものだ。大人であっても、同じことだろう。

早野 専門は違っても、科学に対する基本的な態度というのは共通して持っているべきだと思います。プロの科学者として発言をするときや、あるいは科学者として人を敬ったりするとき、自分が乗っている基盤には、分野が違っていても最低限わかり合える、基本的な科学の作法や態度、そういったものがあるんだと思います。(150頁)

 自然科学、社会科学、人文科学。科学という言葉の前に何が付こうと、基本的には同じ態度を持って学問に臨むことが求められるのではないか。というよりも、同じ態度と素養を持っていれば、異なる分野におけるプロフェッショナルとの対話ができる可能性が高まる。それは、自分にとってメリットがあるというよりも、人生を豊かにする経験へと誘われることになるのではないだろうか。

早野 科学的なリテラシーというのは、教わって得られるものじゃなくて、自分で鍛えて身につけていくものだと思ってます。今の福島には、科学的なデータや事象など、たくさんの教材があります。さらに高校生たちは、それらを自分のこと、あるいは自分の家族のこととして、真剣に考えることができる環境にあります。その環境を十分に活かして考える力を発揮してもらえるといいな、ということを思っています。(168頁)

 では、科学におけるリテラシーとは何か。早野氏によれば、それはマニュアルのように十把一絡げにしてインプットできるものではなく、自分自身で意識的に涵養していくものであるとしている。良い研究テーマがなければ研究できないという態度ではなく、日常において身の周りにある事象に興味を持って着目し続けること。そうする態度が、科学的なリテラシーを身につけることに繋がるのであろう。

 よく思うのです。事実はひとつしかありません。事実はひとつしかないけれど、その事実をどう見るのか、どう読むのかについては幾通りもの視点があります。
 その視点は、それぞれに大事にされるべきだと思います。のちに正しかったとか、まちがっていたとか明らかになるにしても、「その見方があった」というのは、これまた事実であるからです。善意とか悪意とか、誠実であったか上段として語られていたかについても、問われる必要はありません。とにかく、その視点があったということは消せない事実であります。(174頁)

 科学的なリテラシーを以て世の中に関与することは、物事の多様性を追求し、その豊潤な関係性を受容することなのではないか。ここで引用した糸井氏の「あとがき」を読んでいると、そのようなことまで考えてみたくなる。


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